さて、この話題はここに書くべきかどうかとても悩んだわけですが、あえて

「モノ」の括りにさせていただこうと思います。

いきなりですが僕は「ミニマリスト」というのに凄く憧れます。

実際自分でも南米を旅していたときなど、殆ど必要なモノしか持っていな

かった・・・どころか必要なモノにも事欠く暮らしだったわけですが、案外それで

不便はないというか事足りるというか。

ざっと書いてみると衣類としてGパン1本、短パン1本、Tシャツ3枚、襟が付いた

シャツ1枚、パンツ3枚、革のベルト1本靴下2足。履き物はエンジニアブーツと

ビーサン1足。腕時計(40ドルで買ったモンディーンのデジタル)、シルバーの

バングル1本、シルバーにターコイズが付いた指輪1コ、キャノンAE−1(カメラ)、

ボールペン1本、小さなメモ帳1冊、ヴィクトリノックススイスチャンプ1本、パキ

スタン製のポケットナイフ1本、お財布2コ(うち1コは強盗対策)、レイバンの

サングラス(グリーンのティアドロップタイプ)、あとバンダナ2枚にタオル(フェイス

タオルと言われるサイズのヤツ)2本、ビニール袋数枚。5m位のロープ。

それと辞書が2冊。薄っぺらい英和・和英辞典と、すこし厚いポ日・日ポ辞典。

こんなモンだった気がしますが、本当に最低限ですよね。今ならこれに携帯や

ノートパソコンなどが加わるのかも知れませんが、そんなものない時代です。

ちなみにですが僕ならいまでも携帯もノートパソコンも要りません。

さて、これしか持っていない僕が南米中を旅して何か困ったかと言えば、それなり

に困ったことはあったのかも知れませんが、これと言って何かを買い足したり

していない・・・あ、そうだ、ナイフとフォークとスプーンがセットになったカトラリー

とシェラカップがあったな。シェラカップは最初から持っていましたが、カトラリーは

途中で買い足しました。例えば缶詰や他の食材を買って何処かで(ホテルとは

限らない。その辺で野宿の時もありますからね)それを食べて飢えをしのぐ際、

「道具を使って食べないとあまりに原始的」であり、だんだんと他のこともどうでも

良くなって徐々に人類としての尊厳(ではなくて自覚かな)を失って言ってしまう

から・・・なんて事ではなくて「手で食べる」というのがあまりに難しく、しかも食べた

気がしないので。蛇足ですがインドに行った際も現地の人にならってカレーを手で

食べてみましたが、これもまた超絶難しい・・・と言うか出来ませんでした。

まずカレーが熱い。おいそれと手で掴むなど出来ない。そしてお米もカレーも案外

さらさらで、これを上手につまむことが出来ない。そして極めつけが「案外と口に

入れるのが難しい」です。と言うわけでカトラリーセットを手に入れたわけですが、

本当にこれ以外「どうしても必要」というモノは案外浮かんできません。

つまり「ちょっとの衣類さえあればまぁいいや」って事になると思うんですが、事は

そう簡単ではありません。仕事もせずに(たまに旅費や交友費を稼ぐためバイト

はしますけど)ふらふらしている人と、社会の一員として仕事を持つ人では同じ

土俵で話をするわけにはいかないのです。

そんなわけでバックパッカーを筆頭とした「放浪中の御仁」に関しては「ミニマリスト

でも何でも好きにしなさい」って事です。と言うよりそれが可能でしょう。

では(定住して)仕事をしてる人。この方々はどうしたらいいか?

最近ミニマリストを自称している方々がブログなどを書かれていたりしますが、その

方々が見せてくださる家は「モデルルーム」ですらない「入居前の空き部屋」的

何も無さ。一体どうやって暮らしているのやら・・・とおもうも放浪時代の自分を

思うと案外と洗濯したり壊れている持ち物を修理したり、或いは辞書を眺めて

目に映ったモノの単語を調べて覚えたりと結構色々やることがあってそれをこなし

ていくといつの間にか時間が過ぎ眠くなってくると。そんな感じでしたね。だけど

日本に於いて社会生活を営んでいる人間として果たしてこれでいいのか?

気象予報士(天気予報士?)の小林正寿さんという方をテレビでは意見しましたが

、彼もミニマリストと言うことでベッドすらない暮らしをしているとか。

さて、ここでやっと本題にはいります。小林正寿さん野倉氏がいいか悪いかは別に

して「あり」だと思います。と言うのも、彼自身がそれに対してなんの不自由を感じ

ていないどころかむしろ「この方が自由でいい」と思われているようなので。

興味のないモノ、或いは不要なモノが身の回りにあるよりこの方がよほどいい。

その考えも理解できます。しかしですよ。彼は気象予報士(天気予報し)として

例えば天気に関するモノに興味がないのかなと思うんです。

過去の気象データとか、或いは気象観測用の何かとか。そう言うのに興味を広げ

ていくと、結局何か「モノ」を買わなくちゃいけなくなるのではないでしょうか?

或いはそう言うのはパソコンの情報だけでいい、または何か気になるモノがあって

も写真にとってその写真を眺めるだけでいい。そう言うことなのでしょうか?

僕は題名を「コレクターのミニマリスト」としましたが、或いは「ミニマリストのコレク

ター」問いのは成立するのでしょうか?気になったモノを写真にとってパソコンの

中にコレクションする。それでいいという人は果たしてコレクターというのでしょうか?

僕は本当にシンプルに生きたくて生きたくて、余計なモノを捨てたくて捨てたくて

仕方ありません。が、思い出を「写真に撮ったからいいだろう」「写真で見ればいい

じゃないか」とはならないんです。ミニマリストの人は物質的にではなく精神的に

満たされているからそれでいいんだ。とか物質的なモノじゃなくて経験や知識として

自らに蓄えるんだからそれでいいんだと言われます。確かにそうなのかも知れ

ませんが、僕みたいな仕事(現場仕事)をしていると「道具が全て」だったりもします。

その道具を持っているといないでとんでもなく効率が変わることもあるんです。

ミニマリストの人の場合「会社にあるからいい」と言う割り切りをするのでしょうか?

ではその会社が自分の会社だった?更に言うと「予備を持っているといないでは

仕事上の効率やリスクが遥かに変わってくる場合」など、それはそれとして必要な

モノであると認識し、保有することをヨシとするのでしょうか?

個人では成立するけれど会社組織ではそれが成立しないという場合、その人

つまりミニマリストの人はどういう考えに基づいてどういった行動を取るんでしょうか?

今回の文章はオチも何もありません。単純にミニマリストになりたくてもいろいろな

意味でそうなれない自分に対する葛藤と疑問をただ書き連ねただけです。

最後にひとつ。

大抵その人を見たときに「この人は友達になれそうだな」とか「ちょっと付き合い

難いタイプだな」という「第一印象」みたいなモノがありますが、ミニマリストの人の

場合「とらえどころが無くて分からない」というのが僕の印象です。

さて、本当にまとまりのない文章になりましたが、今回はこれで良しとします。







コレクターのミニマリスト