恨の国の人たち

「恨」という文字がウィキペディアに載っています。

「恨(ハン)は朝鮮文化において思考様式の一つで、感情的なしこりや、痛恨、悲哀、

無常観をさす朝鮮語の概念。朝鮮における、文化、思想において全ての根幹となって

いる。歴史学者古田博司は朝鮮部kなにおける恨を「伝統的規範からみて責任を

他者に押しつけられない状況の下で、階層型秩序で下位に置かれた不満の累積と

その解消願望」と説明している。」とある(ウィキペディアより)。

「恨」ってのは日本語ですなわち「うらみ」ですよ。

そいつが「文化、思想において全ての根幹となっている」ってのは一体どれ程不幸

なんだろうと思いますね。

あらかじめ書いておきますが、僕は韓国も韓国人も大嫌いです。

これ程日本に対して無礼なことをする国及び民族は他におらず、これ程愚かで失礼

な韓国及び韓国人が好きな日本人というのは相当頭が悪い上現状認識が出来ない

人だとさえ思っています。

さてそんな私の大嫌いな韓国。根本的な部分で彼らの愚かさの根本は無知や無学

等ではなく人類レベルにおいて「劣等的だからである」と結論づけているわけですが

その理由としてこれ程いろいろな情報が手に入り且つその信憑性も確認できる状況

において自らの置かれた立場や状況が全く持って理解できていないと言う事があげ

られると思います。一言で書くと恥知らずと言うことです。

ルールを守るとか、自らを向上させるとか、そう言うことは一切せずにただただ人を

おとしめるだけの民族。果たして彼らはそんな国でいいのか、或いは幸せなんだろう

かと本気で不思議になるのですが、文化、思想においての根幹が「恨」なんですから

もう仕方がないとしか言いようがありません。

更にウィキペディアでは「朝鮮民族にとっての”恨”は、単なる恨みや辛みだけでなく

無念さや悲哀や無常観(虐げる側である優越者に対する)あこがれや妬み、悲惨な

境遇からの開放願望など、様々な感情を表すものであり、この文化は”恨の文化”

とも呼ばれる。現代的なポスト頃にあるアイデンティティーとされる。としています。

さて、僕に言わせるとこの「恨」は無念さや悲哀、無常観などではなく、ただ単純に

「恨(うらみ)」なのではないかと思います。

世界中どんな場所でもどんな民族でも「この一線を越えた奴は絶対に許せない」

と言う物(もの・境界線)があると思います。

多くの場合この一線はそれがルールだからであれ、常識だからであれ、慈悲だから

であれ、マナーだからであれ、モラルだからであれ、いかなる理由や根拠でも良い

けれどかろうじて死守されることが多いのではないでしょうか。

冷血無比なギャングが相手の家族は殺さないとか、子供には手をかけないとか

言うのもそうでしょうし、極道が慶弔事の襲撃は絶対しないと言うのもそうでしょう。

或いは障害者の障害を攻撃したりバカにしたりしないというのも有る意味暗黙の

了解の中の越えてはいけない一線なのではないかと思います。

僕はこの「越えてはいけない一線」というのは地球上で唯一人類のみが理解できる

一線」であり、これこそが「人類が繁栄してきた根拠」なのではないかと思います。

すなわちこれは「和平と融合のための最後の砦」なのです。

他の生き物のように無秩序に本能にのみしたがって生きるのではなく、多様な人種

や文化が共存するための唯一にして最大の鍵。

もの凄くかみ砕いて簡単に言ってしまうと、とても激しい喧嘩をしてもこの越えては

ならない一線さえ越えなければ再び理解し合え仲良くなれる可能性が有りますし、

或いはそうならなくても「復習のために相手を攻撃する事に専念することなく距離を

置いて共存できる」のではないかと思います。

人間は自ずとそのことを理解し、それぞれに「越えてはいけない一線は越えない」

努力をしているわけです。

戦争も有る意味人類にとって越えてはいけない一線でしょう。しかし戦争は起こり

ます。なぜか。これは後の相互理解など一切念頭に置かず、とにかく自分の命が

潰える可能性も含めて全力で相手と戦う時です。殺すか殺されるか。

或いは戦争まで行かなくてもここの単位でこういった「殺し合い」が起きることも有る

でしょう。しかしその場合必ず双方とも本気で「殺すか殺されるか」で勝負する訳です。

このときに「自分はやられない、死ぬのは相手だけだ」とか、それほど相手にひどい

事をしておきながら再びあとで「関係が修復できる」と思うバカはいません。

そう、韓国人以外は。

世界中の多くの人々は、相手が越えてはならない一線を越えた場合憤怒に駆られる

でしょうし、その相手と理解し合うことはまず無いと思います。そして良くて徹底的な

関係断絶。普通ならば「復讐」を誓うでしょう。

越えてはいけない一線を越えた場合そこにあるのは怒りと「恨み」だけです。

つまり韓国は人々の恨みで成り立っている国ということでしょう。

韓国人はこの一線を越えてこそ相手より優位者になれると思っており、この一線を

越えなければ意味がないわけです。

ウィキペディアによると恨の形成の裏には、儒教の教えや習慣が、本来の形を越えた

形でエスカレートさせていったことが背景にあったと言われ、それは上位者の下位者

に対する苛烈な扱いを正当化する誤解や、下位の者は苛烈な立場を受容しなければ

ならないとする解釈になったと有りますが、つまり韓国人が愚かである故儒教の

なんたるかを理解できず「上位者は下位者に何をしてもいいし、下位者は上位者に

何をされてもただ耐えなければいけない」という間違った考えが完全なる文化として

根付いてしまったと言うことなのでしょう。

先ほど越えてはならない一線を越えた相手に対して「憤怒に駆られる」とか「復讐を

誓う」と書きましたが、こちらについても韓国人は他の多くの人類と違い「一線を越えて

来た相手にひれ伏す」訳ですから恨と言うのが単なる「うらみ」のみならず「悲惨な

境遇からの開放願望」とか優越者に対する妬みや憧れが含まれるのも理解出来ます。

いずれにしろ越えてはいけない一線を越えることこそ是とする文化がある以上、そこに

存在するのは終わり無き永遠の恨(うらみ)と妬み、嫉妬と争いです。

正々堂々と勝負するより卑怯な手を使っても嘘をついても(或いは嘘でも)相手より

優位に立った事にしたい。自らの向上より相手の足を引っ張ることにしか注力できず

戦う腹もくくれないのに相手に嫌がらせの限りを尽くし、自らの愚かさによって招かれ

た悲惨な結果について決して自らの非を認めず(理解できず)誰かのせいにする。

こんな人たちしかいない国に未来など有ろう筈がありません。

何よりこの地球において最も「穢れた」場所だといって良いのではないでしょうか。

先ほど「汚れた」と書きましたが「汚」ではなく「穢」です。

関われば必ず不幸になる場所であり相手。韓国及び韓国人というのは決して

関わってはいけない相手だと強く思います。

最後になりますが、韓国人が口にする「韓国は儒教の国だから」について。

私は儒教自体は悪い者だとは思っておりません。

ただ例えば「目上の者に従いなさい」という一言には「目上の者は目下の者より

博識であり、節度があり、常識人である」という大前提が有るはずです。返せば

目上の者たる人は知識や節度や常識などが備わっていなければならないということ

です。この部分が理解できない韓国人は単純に「年齢が上」だとか「職制上上位

(よりも単純に年齢だけのことが多いようですが)」であるだけで全くその資質が

無い人間が大いばりするわけです。百歩譲ってそこまでは仕方がないにしても

その「目上」(と言う立場にあるだけの無能で無知で恥知らずな人間)に対し、

遥かに有能で博識で常識もある人間が名にも発言しない(出来ない)事に韓国の

愚かさと憐れさがあるのだと思います。

繰り返しになりますが、韓国(韓国人)というのはまだまだ世界の人たちが相手に

してあげるレベルになっていないのではないでしょうか?

自らの愚かさに気がつき、或いは既に気がついている人たちが声を上げ、どれ程

叩かれようが虐げられようがそれを通す。そうならない限り世界中のどんな人も

韓国を相手にするのは時期尚早だと思います。

教えない助けない関わらない。これは日本だけではなく世界中の人が今の韓国に

対して取るべき態度だと思います。

韓国の人たちよ。あなた方を占領しようと思えば簡単に占領し中国とすることが

出来るにもかかわらず何故そうしなかったかよく考えてご覧なさい。

ウイグルを含めこれ程地域を我が物にすることにどん欲な中国が何故韓国は

そうしないか。穢れているからに他ならないと思いませんか?

「こんな奴ら中国人にしてやる訳にはいかないよ」中国の人たちがそう言って

いる声が聞こえませんか?

あなた方の近代化と先進国への第一歩、嫌むしろ人類の仲間入りする第一歩

は日本の併合に感謝するところがスタートですよ。

(蛇足ですが、当時のヤンバンの多くは「日本人になれる」と喜んでいたという

事実に目を向けてみるべきですよ)