日本人だから?僕だから?

最近「ゆたぼん」と言う小学生にして不登校であるにも関わらず、「少年革命家」

なんて馬鹿な名乗りを上げている子供の存在を知りました。

僕はこういった憐れな子供が存在することに対して何ら思うところはないのですが

この子は「義務教育」という国民が果たすべき義務を知ってか知らずか「不登校の

自由」なる言葉を発していますね。自分一人がそう思っているのはまだしょうがない

でしょう。しかしこの愚かで憐れな少年はそれを他人に勧めている。

僕こういう輩、腹の底から嫌いです。

ハッキリ言いましょう。「お前一人で朽ち果てていけ」。そう言う気持ちです。

まだ小学生でしょこの子。どれ程の知識があるんでしょう?どれ程の経験がある

んでしょう?おそらくそんな物全くないはずです。にもかかわらず偉そうに・・・。

この子が喋っているようなことを思ったりやったりする時期というのは多くの人に

あったんじゃないかと思います。でも生きていく上で(今みたいにユーチューブで

炎上しようが何しようが再生回数が稼げればお金がもらえると言うシステムがない

ので)しょうがなくやりたいことを我慢し、主張を曲げ、こつこつと何か努力をして

大人になっていくわけです。このようにいろいろなことに耐えつつ努力をしつつ

成熟を重ねていくからこそ大人になれるのであって、子供の内からバカみたいな

主張を叫び、義務も果たさないどころかそれがまるでいいことや格好いいことの

様に振る舞う幼稚なバカが大人になって社会の役に立つ人になるはずがないと

おもうのです。

閑話休題。

まぁ世の中にはこういう愚かで憐れな(本人はみじんもそんな風には思っていない

と思いますが)子供がいるのは仕方のないことです。ですがこういう無知で経験が

足りておらず忍耐もなければ義務を果たすことの大切さすら理解しない子供が、

嫌でも学校に行く努力をし、人付き合いの練習をし、こつこつといろいろな努力を

している人をまるで「流行らない人」「間抜けな人」みたいな言い方をすることに

我慢が出来ない。

自分の愚かさ加減を正当化する為に、その他のまっとうな人をあたかもおかしい

様にいうことが許し難い。

LGBTうんちゃらかんちゃら言っている人、ビーガンの人、捕鯨反対の人、

そして「不登校の自由」なんて馬鹿なことを言っている人。あんたらがどうであろうと

それはそれでいい。でもこういう人に限って「自分の主張をするだけ」ではなく

「人の攻撃」をするわけです。

この「ゆたぼん」と言う憐れで無知な子供は「世界中に友達を作り戦争を無くすこと」

を夢見ているそうですが、争いを無くすことの唯一にして最良の方法は相手に

対するリスペクトであり、更に言うなら「余計な干渉はしない」事です。

しかしLGBT運動をしている人、男女同権を唱えるヒステリーな女性、ゆたぼん、

或いはえせ環境活動家のグレタ・トゥーンベリもそうですが、自分と考えが違う

だけで攻撃どころか敵対すらしてこない相手を非難し、攻撃する。こういう輩こそ

災いの種なんです。LGBTを嫌うノーマルな人を攻撃するLGBT運動家は、LGBT

の人を差別し攻撃するノーマルな人と何が違うんでしょう?男女同権とギャーギャー

騒ぐ割には何かのおりに「生物学的に違いがある」というエクスキューズをのたまい

同権という割には女性の権利しか主張しない愚かな人は、本当に平等にしたいの

か、女性の権利だけを向上させたいのか?ゆたぼんしかり、この子が不登校なのは

憐れではあるもののしょうがないことですが、まともに学校に通っている人がさも

流行遅れであるとか主体性がないような言い方をして攻撃するその有様に一体

どれ程の正当性や真実が有るのでしょう?

僕は思うのですが「活動家」を名乗る人というのは偉そうに何かをのたまっても

「破壊しかできない」愚かで無知な生き物だと思います。

確かに何かを再構築するためには「解凍」という作業が必要になるのかもしれま

せん。固着した文化を再構築するにはその「解凍作業」が必要不可欠でしょう。

しかしです、こういった人たちは「解凍」ではなく「破壊」するだけで、その後の再構築

は決して出来ません。なぜか。自分と異なる意見の人がいると言うことを理解出来

無いからです。活動家を名乗る人たちが掲げる理想は有る意味「人類の理想」

みたいなところもある場合があります。例えば残業無しで月の給料100万円。

週休3日に年1回以上の長期休暇の取得など。出来るわけ無いでしょ。

民主党が高速道路をただにするとか消費税を撤廃するだとか埋蔵金でいろんな

福祉を行うだとかきれい事を言ってましたが、結局何一つ出来なかった。

これが「活動家」の姿です。何故彼らは(或いはそう言った類の人は)偉そうに

何かを喋るくせに何もなし得ることが出来ないのか。それは「全員同じ考えに基づ

いて行動する(している)」という前提に立たないとなし得ないことだからです。

わかりやすい例で行くと共産主義です。これ、ぼくは毛沢東の唱える「共産主義」

って有る意味本当に人類にとって理想だと思います。でも「絶対に」達成できない。

何故か。人の考え方は千差万別で、或いは住環境も違えば好みや成り立ちも

人それぞれ皆違います。それほど多様な人を「同じ考え」「同じ行動様式」で縛る

事など不可能。よって「世界中の人が同じ思考、行動をすることが前提」のものは

絶対に達成できない訳です。

でもだからこそこういう人たち(共産主義者や活動家)は「全員を同じ考えでまとめ

させよう」とするわけです。

・・・・・反吐が出ます。

いじめられ不登校になって引きこもっている間にユーチューブという居場所を見つけ

なんの知識も経験も技量もないのに偉そうに何かのたまうお馬鹿さんがいてもいい。

男なのに男が好きな人、女なのに女しか愛せない人がいてもいい。共産主義が

大好きでその思想と思考に凝り固まっている人がいてもいい。イスラム教の人、

キリスト教の人、仏教の人、いろんな宗教があっていい。ただ、自分と違う事や

考え方を認めること。これが一番大切じゃないかと思います。そして「自分と違う

考えや行動を取る人」を決して攻撃してはいけない。ただそれらの人の言動が

不愉快だった場合には黙っていないで礼儀正しく諫める。考えの違う人同士が

同じ場所にいるときというのは主張をするのではなく「相手に気を遣う」事によって

輪(和)が生まれる。

或いは相手が攻撃してきた場合は命を賭けてでも自分の居場所は死守する。

これが大事なのではないかと思います。さてこういった考え方というのは日本人

独特の物じゃないかと思うんですが、僕だけの物なんでしょうか?

ちなみに「自分の命を投げ出す覚悟で何かを守るために相手に挑みかかる」のは

僕はアリだと思います。その前提から行くと自分と違う考えなり行動を取る人に

礼儀正しく何かを頼むのではなくそれを強制しようとしてくる相手には命を賭けて

戦わなければなりません。或いはそう言った本気のやりとりが有ってこそ真の

理解が深まる場合もあるかも知れません。しかし「嫌がらせ」は何も生みません。

しかも「嫌がらせ」というのは最も卑怯で下らない事です。

僕はあらゆる物に対してそれらの背景も含めて理解した上で理解を示そうと努力

しようと思いますが、韓国と韓国人だけは「大嫌い」ですし、関わりを持つ努力は

一切しないのみならず「関わらない努力」を継続しています。

いくら温厚な僕でも韓国と韓国人だけは反吐が出るほど嫌いです。