多様性について

「その他のページ」での題を「多様性という言葉を使いたがる差別主義者」と

しましたが「差別主義者」とはちょっと違うかも知れません。

要するに「多様性」という単語を簡単に使う人ほど「多様性からほど遠い」という

事が書きたかったのです。さてでは参りましょう。

僕はLGB(Tはちょっと別)の人を差別したり虐げたりするつもりはありませんが、

ハッキリ言ってそういう人は好きではありません。好きになれと言われてもムリ。

しかも最近の風潮として「性の多様性」とか言いつつそう言うのを認める様な流が

ありますが、僕はせめて「それは普通のことではない」とするべきなのではないかと

思います。だってそうでしょ?同性同士で結婚したいとかセックスしたいとか、そう

言うのって「普通」じゃないと思うんです。

でもそう言うの(同性愛とか)がいいという人もいるわけです。だから「確かに

同性愛というのは普通じゃない。普通じゃないけどそれがいいという人がいたって

別にいいじゃないか」というのが多様性じゃないかと思うんですよ。

LGBの人は自分たちがおかしいというのが分かっていて、だけど「おかしい」と

言われたくないからああやって騒ぐのではないかと思います。

そう書くと「自分たちがどれ程虐げられてきたか」という話になると思いますが、

大事なのは「虐げられないようにすること」であり、「同性愛はおかしい」という考え

方自体を「間違った考え方」にするというのは違うと思います。。

なのにいまは「同性愛はおかしい」という考え方をする人がおかしいように言われ

てしまいます。これっておかしいですよね。というか「おかしい」といわなくちゃ

いけないと思うんですよ。そうしないとだんだんゆがんできてしまいます。

世の中の流として本当に同性愛が「普通」になるのであるならそれはそれで

仕方がないことであり、そうなると人類は淘汰されるべき生き物ということになる

訳です。だって繁殖出来なければ絶滅するしかないでしょ。

ただね、多くの人がLGB(T)に目を向け、受け入れている風を装いながら、実は

「やっぱりおかしいよ」と思っているのではないかと思います。そう言う現象の

最たる例がトランプ大統領の当選だと思います。トランプ大統領は移民に対して

厳しい政策をとることを公言していました。なぜならばアメリカに対して、アメリカ人

に対して「害があることが多い」からです。正式に入国した外国人を虐げようと

しているわけではありません。「不法・不当に入国した外国人」に厳しく当たろうと

していたわけです。すると人権派の著名人達がこぞって反トランプののろしを上げ

ました。トランプはさも悪辣なレイシストであるように報道され、イメージとしては

あまり良くなかったはずですが、彼は当選しました。ということは口では移民に

対して寛大な事を言っている人たちも実は「イヤだった」ということなのでは無いか

と思うわけです。これって不法移民に対しても失礼だと思います。「あなたたちは

アメリカにいていいんだよ」という素振りを見せながら、実は排除に精力的な

人を応援している。これって裏切り行為でしょう。そこに信頼関係は築けません。

ならばハッキリと「移民は嫌い。ルールを守って正式に入国してください」と言うべき

だと思うんですよ。LGB(T)の問題と移民の問題を一緒くたにすることは出来

ませんが、何が言いたいかというと好き嫌いの別にして法や摂理にてらした上で

「おかしいことはおかしい」としてから対策なりを考えないと取り返しの付かない

事になってしまいます。

正直言って人間の思考なんて千差万別です。だからいろんな肌の色や体の

大きさや諸々の造詣が違う人たちの間において子孫繁栄できるわけです。

もし人類が「白人の彫りが深い美しい造詣しか美しいと認識出来ない」場合、

東洋人はほぼ全滅でしょう。その逆もまたしかり。いろんな思考があるから

いろんなカップルが生まれるわけです。他にもスポーツが好きな人、嫌いな人。

自動車が好きな人嫌いな人。絵画が好きな人嫌いな人。アウトドアが好きな人

インドアが好きな人。この辺はいたってノーマルですが、こういう趣味嗜好を

突き詰めていくと「真冬の荒野に張られたテントの中で、コスプレをしてコーヒーを

飲むのが好き」とか「誰かに見てて貰わないとセックスしても興奮しない」とか

ちょっと引いちゃう嗜好の人ってのも出てくるんじゃないかと思います。

でもそれでいいでしょう。誰にも迷惑をかけて無いなら。

大事なのは「人に迷惑をかけない」事です。そして迷惑をかけられて無い人は

人の嗜好に対して(影ではいいとして)本人に向かってつべこべ言わないことと、

「それを攻撃しないこと」が大事だと思います。

例えば乱交パーティーを主催して逮捕された人に対してホモの人が苦言を呈した

とするならば僕は「お前が言うな」といいたいわけです。要するに僕にしてみれば

ホモも乱交パーティー好きも「そう言う嗜好」であって、それぞれを認めることこそ

が「多様性」なのではないかと思うんです。

で、現状を見ると「乱交パーティー」を推奨する人は殆どおらず、逆にゲイを認めて

欲しいという人たちは「認めない人がおかしい」という風潮を作ろうとしている。

これを乱交パーティーに当てはめたらどうでしょう。乱交パーティーが好きな人が

それを楽しむのは一向に構いませんが、「やらないなんておかしい」といって

こちらにそこに参加するように言われたらどうします?まぁそれが好きだったり

試してみたい人ならいいですが、自分のパートナーを他人差し出したくない人に

してみれば「ふざけんなよコノヤロウ」ってなるでしょ。

さて、そろそろまとめに入らないといけないと思うのでそうしますが、詰まるところ

人間なんてその趣味嗜好は千差万別なんだから、人のそれに口を出すなって

事が言いたいんです。そして大切なのは「趣味嗜好や考え方が違う人と極力

関わらないようにする」ということ、そしてもしそう言うのに違いがある人同士が

関わらなければならないときは、お互いがお互いにリスペクトし「その部分には

触れない」上で礼を尽くして相手に接する。これが大事だと思います。

極論すると「いいこと」とか「悪いこと」という概念も不要かも知れません。

「すき」か「きらい」かのどちらか。好きな人同士集まればいい。だけど世の中には

嫌いな人もいる。嫌いな人から見ればこちらが嫌いな人(何言ってるかちょっと

分かりづらいですね)な訳です。でも接しなければいけないから、お互いに配慮

し、そこでの礼を尽くして相手と接する。これが一番重要な気がします。

そうすれば争いは極端に減るのではないかと。あ、あともう一つ重要なことが

ありますね。声の大きいだけのおかしな輩に対しては全力でそれを諫め潰す

行動に出る必要があります。「多様性」を重視するのであれば「互いを尊重出来

ない」分子は排除しなければならない。そう言う輩というのは得てして面倒な

愚か者が多いわけですが、だからこそみんなで一致団結して排除するために

尽力する必要が有ると思います。

「人のことは気にしない」けれど「人には気を遣う」。これがこれからの世の中に

求められる事ではないかと思います。