和算入門(1)


読者の皆さんは和算という言葉をご存じでしょうか。断っておきますが、和讃ではありません。現代の日本で、いや今日の世界が学んでいる数学は、西洋で生まれ育ったものを基本としています。その源流はギリシャにあると言って間違いないでしょう。しかし、今日の姿を持つようになるには長い年月を要しました。

一方、古代地中海世界以外の地域にはどのような数学があったのでしょうか。古代の中国にもギリシャ数学とは趣の異なった数学が誕生していました。簡単に古代中国数学の特徴を述べれば、漢文、縦書き、計算器具としての算木の使用、理論よりも計算重視、と指摘することができると思います。古代中国数学のことについては追々触れていくことにしましょう。

 

江戸時代の日本にも数学が発達していました。これが和算です。和算という用語は、本来は数学解法のテクニカルタームであったのですが、西洋数学と接触する過程で、近世日本数学の総称として用いられるようになりました。その和算は古代中国の数学を学ぶことによって独自の発展を遂げるようになったのです。母が中国数学ですから、子供の和算も同様の遺伝子をもっています。しかし、日本独自の文化に溶け込んだ特徴も備えることになりました。例えば、数学の表記法は漢文が基本ですが、平仮名や片仮名書きで問題を表したり、計算したりすることもありました。計算道具としての算盤も、素早く計算できるように改良が加えられました。他にも「好み」と言う問題解答競争も流行しました。また、神社仏閣に数学の絵馬(算額)を奉納する風習もありました。これらは源流としての古代中国数学にない現象になりました。いずれも江戸時代の数学が発展する原動力になりました。

 

少し具体的な事例をお話ししましょう。数学の修得にはよき先生と教科書が必要です。優れた教科書があれば独学でもそこそこ上達することができます。江戸時代を通じてたくさんの数学書が刊行されました。世界史的に見ても希な出版大国であったと思われます。江戸時代の数学書の出版事情についても追ってお話ししますが、和算黎明期の算術書として元和8(1662)刊の『割算書』と寛永4(1627)刊の『塵劫記』の2冊を挙げることができます。いずれも漢字平仮名混じり文です。前者は毛利重能の著作です。毛利についてはよくわかっていません。ただ『割算書』のなかにアダムとイブの話が出てきますので、クリスチャンの疑いがもたれています。アダムとイブが林檎を分けて食したことから割り算が始まったとしています。後者の著者は京都の嵯峨野にいた吉田光由です。実は、この算術書に触発されて17世紀の初頭に多くの算術書が刊行され、和算発展の基盤が築かれたと言っても過言ではありません。吉田と『塵劫記』については改めて紹介いたしますが、『塵劫記』は江戸時代だけでなく明治時代においてもベストセラーとなった算術書でした。すくなからずの人々が『塵劫記』から算術の勉強を始めたと伝えられるのも頷けるところです。

              

  (以下、次号)