堪らなく楽しい数学


どうして100/=0が導かれたか。不可能を可能にして、そのような結果を導くには、何か新しい考え、発想が必要ではないだろうか。大事な考えは、問題の本質にさかのぼる問題の根源にさかのぼるということではないだろうか。そのような意味では、真智を求める哲学的な精神は 何時でも大事ではないだろうか。

 

まず、数学で不可能であるとは どのようなことであるかを、きちんと理解する必要がある。数学でできないと言うことは、そのように言っている考え方、理論体系でできないと言っているのは当然である。したがって、できない考え方に立っていれば、ゼロで割ることは(ゼロ除算は)世界史でもそうであったように 何時まで経ってもできないとなってしまう。この当たり前のことは、裏を返せば、理論体系、考え方を変えれば、できるようになるかもしれないということを意味する。発想の転換である。 考え方の変更である。      

 

ところが、この発想の転換が 天動説を地動説に変えるのが難しかった世界史の事件のように、 また、非ユークリッド幾何学を受け入れるのが大変だったように、実は極めて難しい状況がある。 人間が如何に予断と偏見に満ち、思い込んだら変えられない性(さが) が深いことを 絶えず心しておく必要がある。―今回の100/0=0 の発見でも、そんな馬鹿な、そんなものは受け入れられない、考えるべきではないとの意見は 相当な数学者の意見であった。今なお、意見でもある。

 

そこで、分数、割り算とは 何かを考え、発想を展開しよう。 一般に分数 b/a, b 割る aとは何だろうか? その結果をc  と置くと、それは既に述べたように b = a c の意味である。これは 割り算が掛け算の逆として定義されることを意味する。すなわち、a  に何かを掛けたら b になる数 c が、分数 b/a, あるいは b 割る a の意味であると考えられる。掛け算に対して割り算、逆演算 の関係である。- ここで  という重要な考え方が出てきたが、この考えは 世界を論じる基本的な考え方で、2元論といわれている。絶えず逆を考え、2元論に思いを致すと、広い視野が拓かれるのではないだろうか。

 

そこで、分数 b/a, あるいは b 割る a を定義するには、方程式a c =b を考え、その方程式の解 c で定義すれば良いと考えることができる。そこで、その方程式の解を求めることを考えるのであるが、 a = 0 の時は 0 c = 0 = b となって b がゼロでなければ、矛盾、解はなく、しかも、b=0 の場合には 解はどのような数でも良いとなる: すなわち、ゼロ除算は 割られる数がゼロでなければ不可能であり、割られる数がゼロならば、すなわち0/0 は どのような数でも良く、一つには定まらない という現代の結果になる。

 

そこで、上記方程式が 何時でも唯一つに定まるように新しい発想をしよう。もちろん、上記の方程式に拘れば、結果は同じであるから、その方程式に近い、自然な方程式を考えることになるだろう。

 

                      (以下、次号)