和算入門(6)

 新年明けましておめでとうございます。読者皆さんの本年のご多幸とご活躍を祈念申し上げます。

 

円周率が円の直径に対する円周の長さとの比であることは早くから知られていました。では、これがどれだけの値になるのかについては、古代から多くの数学者の議論を巻き起こしてきました。よく知られていたのがπ3です。これは近似値ですから近似表示すべきでしょうが、この小稿では=で括っていくことにします。また、円周率への関心は世界に向けて語られるべきでしょうが、取り敢えず中国と日本に限って触れていくことにします。

 

古代中国の数学者もはじめ円周率として3の値を使っていました。やがてこれに疑問を持つ人たちが現れるようになります。最初に疑問を投げかけたのは前漢末の劉歆のようです。彼は王莽が造らせた円柱形の「律嘉量斛」を計測して円周率は3.1547であると指摘しました。ついで、地震計を造ったことで有名な張衡(78~139)は、π=730/232(=3.1466)である、或いはπ=√10(=3,162)などと主張しています。

 

その後、魏の劉徽(生没年不詳)は『九章算術』が用いる円周率3の値を厳しく批判して、正しくは157/50(=3.14、徽率とよぶ)であると宣言しました。劉徽注釈『九章算術』にそのことが詳しく書かれています。劉徽は、まず、円の面積=(円の周の長さ/2)×円の半径であることを認めます。その上で、円に内接する正n角形の面積を求める方法から円周率を探ろうとしました。そのアイデイアは、詳論は避けますが、次の様に粗述できます。劉徽は、円の面積をS、円に内接正n角形の面積をS n、さらにこれを2分割した内接正2n角形の面積をS2nとするとき、n→∞ にすれば、円の面積と内接正多角形の面積は極限において一致すると考えたのです。では、円に内接する正多角形の面積はどのように求められるのかと問えば、円の半径をr、内接正n角形の一辺の長さをanしたとき、内接正2n角形の面積S2nは、

 

で求まるとしました。この式は円の面積を求める方法を援用して帰納的に導くことができます。この考えに立って、古代人が求めた円周率3は、内接正6角形の周長を求めたに過ぎないのだと指摘しました。その上で、内接正n角形の外側に辺anと平行な接線を引き、円弧の頂点から辺に下される矢dによる矩形を考えて、

 

 

とする不等式をもって円の面積を囲みました。要は、円に内接する正多角形の面積とこれに附属させる矩形を用いて円の面積を内外から挟み込んだのです。お気づきと思いますが、n→∞とすれば、d→0に収束していきます。この不等式から円周率を極めていくためには、内接正多角形の面積を求めることが肝要になります。そのために劉徽は、内接正6角形の1辺の長さa6からはじめてa96までの辺の長さを求めるために膨大な計算を実行しました。この計算には三平方の定理が使われましたが、辺a2nの長さを得るために平方根の計算を2回行わなければなりませんでした。途轍もない労力を要したであろうと思うとともに、先人の根気と努力に敬意を払うところです。

 

 その後、『隋書律暦志』が伝えるところによれば、祖冲之(429~500)が、


3.1415926(朒数)<π<3.1415927(盈数)

 

とする値を得て、これの近似分数として22/7(約率)355/113(密率)を表したと言われています。盈数は、余る数とか多い数、朒数はたりない数とか少ない数という意味です。祖冲之によるこの結果は、円に内接する正多角形の辺数をさらに増やして精密に計算し、劉徽の不等式を利用して求めたと考えられています。それらは彼の著作の『綴術』に詳しく書いてあったとするのですが、残念ながら『綴術』は失われてしまったために推測の域をでません。

 

祖冲之の『綴術』は古代の日本社会に伝わり、官吏養成のための数学教材として用いられていました。この書籍が平安時代中期頃まで我が国に存在していたことが記録で分かっていますが、いまでは行方不明になっています。劉徽注釈『九章算術』についても同然です。これらは、戦乱で焼失したのか、あるいは古都の寺院の奥深くに眠っているのか、その存在が気になるところです。そして、江戸時代の数学者の語るところでは、『隋書律暦志』に祖冲之の円周率が載っていることを知らなかったとしています。また、これまでの研究では、江戸時代初期の日本に『九章算術』や劉徽注釈『九章算術』が伝わった痕跡は見当たりません。これらの発言を額面通りに受け止めれば、近世日本の数学者による円周率の研究は中国のそれとは別に、独立的に行われたことになりましょう。

 

因みに、筆者は、西暦2000年が祖冲之没後1500年であることをもって中国で開催された国際会議に参加したことがあります。国際会議は、初日、彼の生誕地と伝わる北京郊外の淶水県で催されました。祖冲之の業績を顕彰して建てられた中学校に、規模は小さいのですが、祖冲之記念史料館も造られていました。会議の開会式は体育館のような建物で行われましたが、ひな壇には共産党関係者と数学史・科学史研究の重鎮が鎮座し、諸事報告に続いて、日本からの参加者3人も紹介を受けました。また、会議では基調講演につづいて、祖氏の血筋を名乗る人が出席していて、祖冲之がいまでも生きているかの如くその人となりを語っていたことを今でも覚えています。その後、国際会議はさらに内陸にはいった風光明媚な野三坡に移して続けられました。山並みが美しく、特に、月夜に浮かぶ山陰のシルエットが印象的でした。研究発表では、博士課程の学生が祖氏の円周率を、内接正多角形の周長の階差を計算することで再現しようとしていましたが、なんだが関孝和の方法を聞いているような気分に襲われました。その頃中国では、まだ、流行歌「北国の春」が流行っていて、懇親会の席上是非歌って欲しい欲しいと懇願され(?)、だみ声で歌って参加者の失笑を買いました。日本への帰国の前日、同行した日本人参加者とともにタクシーに乗って北京郊外まで戻って来ました。途次、柿の朱く色付く季節の田圃に、毛沢東像が埋もれるように建っている景色を見ました。そのとき、変わりゆく中国、という思いを強く心に感じたものでした。

 

    (以下、次号)