和算入門


 天和3(1683)9月、京都三条通菱屋町屋の林傳左衛門尉を板元として『研幾算法』が刊行されました。著者は関孝和先生の高弟建部賢弘(1664~1739)でした。建部賢弘は元録5(1692)に桜田侯徳川綱豊の家臣になりますので、関先生は職場の上司という関係にもなります。そのことはともかくとして、『研幾算法』出版の目的は、京都の田中門下からの『発微算法』批判に対して反論することにありました。写真1は、天和37月に建部先生が同書のために書いた序文ですが、ここで『算法入門』に対して次のような反駁を与えています。

 

http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/user_contents/wasan/l/k011/01/k011010002l.png写真1『研幾算法』序

 

研幾算法序

(前略)近ころ刊する所の『算法入門』に『発微算法』を議して差誤ありとをもへり。しかし、いまだかつて演脱の神化を識らず。いかでか幽微の術意を理会せんや。かつ、彼の書に数学乗除往来四十九問の答術を載るを視るに、或いは牽強して正を失い、或いは乖戻して真を錯まる。多くはもって無稽の妄術なり。故にいまかの問において、通変精微の術を諞訂して、研幾算法と名けて、もって蒙学に便りす。

   天和癸亥七月哉生明序

            源姓建部氏賢弘

 

 引用序文の冒頭で視るように、建部先生は『算法入門』を引き出しながら、

 

『発微算法』が示した演脱の神化が全くわかっていない、どのようにすれば関先生の考案した演段術が理解できるようになるのであろうか、それどころか掲載された『数学乗除往来』49問の解答は見るに堪えないもので、無理にこじつけた結果正しい解法を失い、あるいは問題の意味を取り違えて間違った答を与えている。ほとんどが根拠のないでたらめな術である。ゆえに彼らの答術に、通変精微の術をもって諞訂して、研幾算法と名付けて、これから学ぼうとする者への便りとする。

 

と痛烈に批判しています。話題に挙がっている『数学乗除往来』は、延宝2(1730)に池田昌意が出版した算術書で、これに遺題49問が付いていました。建部先生は松田正則らによる49問の答術がほとんど間違いで、でたらめだと批難しているのです。事実かれらの解答はほとんど間違っていました。

因みに年紀の「癸亥」は天和三年、「哉生明」は「さいせいめい」と読み、三日或いは月の出の意味です。したがってこの序文は天和三年七月三日に書かれたことになります。

また、関先生も、建部先生が序文を書かれた2週間ほどあとに跋文を寄せました。回りくどくなりますから、原文の引用はやめて以下に関先生の跋文を現代語訳にして紹介します。

 

『研幾算法』は、私の門人である建部賢弘が編集したものである。これを校閲してみるとすべての問題において整然とした理論で貫かれ、彼の才能が遺憾なく発揮されている。まことに本書は難問を解くにあたってのすべてを備えていると言えるであろう。およそ、数学はこの上なくまっすぐな道であって、毛や厘のような微少な違いであっても、その差が千里ほどにあたることもある。この頃、数学者の中には誤った数学を説き、世の人を惑わし、人々をあざむくものが非常に多い。数学者たるもの、それらを見抜く心眼をもって精察すべきである。時に、天和三年陰暦七月下弦に書す。

   藤原姓関氏孝和    藤()     孝和之印()

 

 読んでお分かりと思いますが、冒頭では弟子の建部先生の数学力を称賛し、中段は数学研究の神髄と道を説き、後段においては世の中に誤った数学を正しいかのごとく吹聴する数学者が多いことを批判し、心眼を養うことの必要性を訴えています。

 これら二人の先生の文章を比較すると、建部先生の直接的に『算法入門』を批難するちょっと過激な序文を「動」的と呼べば、関先生の冷静に数学研究の道を説く跋文は「静」的といえるかも知れません。ただ、こうした好対照な序文と跋文は、先生と弟子による演出の可能性もありますから、即座に動静の二極と判断することは避けなければなりません。

 

 さて、この『研幾算法』ですが、ここには関先生30代後半における数学研究の到達点がわかる情報が載せられています。そのことは凡例を読むことでわかってきます。見てみましょう。

 

「凡例」

○第一問本書ニ圓率、周三百五十五尺径一百一十三尺ヲ用ルト二云フ、故ニ此ノ率ニ合スル術ヲ以テ之ヲ記ス (中略)

○第四十九問、本書ニ宣明、授時、大衍、紀元、統天ノ五暦共之ヲ問フト云、今、題数ヲ出スニ因テ、而シテ宣明暦ノ法ヲ以テ之ヲ術ス、則チ是レ翦管術ナリ、故ニ餘ノ四暦ノ術贅セズ、乃チ授時暦ハ積年ヲ用ヒズ、至元辛巳ヲ以テ元トナシ、上考下算シテ、之ヲ距算ト謂フナリ

○弧法第一問、第四十八問、環矩ノ術第四問、零約術第四問、本書ニ之分ヲ以テ之作ルト云フハ謬也、圓率第十三問、遍約術第十三問、翦管術第四十九問、右師傳ノ秘訣也、別書ニ之ヲ載ス

 

凡例の最初に出てくる数字は、円周率の近似分数355/113を指しています。この分数はなかなかの優れもので、正徳2年に刊行される『括要算法』で広く知られるようになりますが、刊本としての出現は『研幾算法』がはやいことになります。しかし、この分数の発見者が関先生であるかどうかは問題のあるところです。「本書ニ圓率、周三百五十五尺径一百一十三尺ヲ用ルト二云フ」とありますから、本書は『数学乗除往来』を指していることになります。同書の遺題第4問は円周率の近似分数の求め方を問題にしていますので、問題そのものを見ておきましょう。ただし、問題は漢文ですから読み下し文にして以下に示します。図は省略しました。

 

「第四問」

いま平円あり。積周(セキトシュウ)之分(シフンヲ)をもってこれを作る。或ものは径一にして、周三一四二。或ものは径七尺にして、周二十二尺。或ものは径五十にして、周一百五十七尺。師丞子は径一百一十三尺にして、周三百五十五尺と云ふなり。この如く観て術を問う。

 

 この時代までに知られていた円周率の近似分数22/7157/50355/113が登場しています。22/7は中国の数学者祖冲之、157/50(314/100)は魏の劉徽によるといわれています。また、22/7はアルキメデスの円周率としても知られています。最後の355/113も中国の『隋書』には祖冲之の創見とありますが、近世日本の数学者がそのような情報をどこまで得ていたか定かではありません。そして、「師丞子は径一百一十三尺にして、周三百五十五尺と云うなり」としていることはある意味驚きです。「丞子」とは池田昌意の先生と思われますから、隅田江雲ということになります。隅田には池田昌意以外にも弟子がいたことは知られていますが、あまり詳しいことはわかっていません。

 凡例の二つ目は、関先生が暦学に関心を持っていたことを示唆しています。ただ、注意を要するのは、暦学への関心はあくまでも数学的要請からであって、この場合は翦管術の研究に繋がっていることに注意をしなければ成りません。

 

凡例の最後には非常に興味深いものがあります。そこでは「弧法第一問、第四十八問、環矩ノ術第四問、零約術第四問、本書ニ之分ヲ以テ之作ルト云フハ謬也」と指摘した上で、「圓率第十三問、遍約術第十三問、翦管術第四十九問、右師傳ノ秘訣也、別書ニ之ヲ載ス」といっていることです。これを読む限り、この時期の関先生は、弧背の求長法、環矩術、零約術、圓率、遍約術、翦管術など数学研究のほとんどを完成させ、師傳として弟子に伝授し、しかもそれらを別書として正本していたことです。先にも書きましたが、これらがどのようなものであったかは『括要算法』を見ることで理解することができるようになります。

 

いずれにしましても、天和3年の『研幾算法』は京都の田中門派への反撃ののろしでした。著者は建部賢弘になっていますが、関先生もこれの出版に大きく係わっていたことは間違いないところです。しかし、課題はまだ残りました。それはどのようにして関先生が考案した傍書法と演段術を普及させるかということです。

 

  ( 以下、次号 )