和算入門(8)


「和算入門」の(4)(5)で、近世日本数学の特色の一つである「好み」(後に遺題と呼ばれる)について簡介しました。後世「算聖」と称される関孝和が活躍した時代はまさに「好み」華やかなりし頃でした。寛文11(1671)、澤口一之が上梓した『古今算法記』もその系統に属する算術書になります。関孝和の名前が世に出るのもこの算術書に出題された「好み」を解いてのことでした。関孝和の業績を語る前に、是非とも著者の澤口一之と『古今算法記』について触れておく必要がありますので、少し寄り道になりますが厭わず見ていくことにしましょう。

 

最初に、著者について述べておきましょう。享保9(1724)、浪華隠士大島喜侍(未詳~1733)が著した測量書に『諸盤術』があります。これの奥書の後に「見盤伝来之系図」が載せられていますが、これの算家系図に僅かですが澤口三郎左衛門一之の経歴が記載されています。それによれば、澤口は大坂川崎にいた橋本流の始祖橋本正数の門人とあります。師匠の橋本は、算術を以て世に知られ、朱世傑が導入した「天元術」を理解した本邦最初の数学者だ、といっています。門人の澤口については、この時期、大坂鳥町に住んでいて、師の橋本正数と共作で我が国最初の天元術による算術書『古今算法記』を板行した、といっています。その後、澤口は京都に出て、号を宗隠と名乗り、その地で終焉した、としています。「見盤伝来之系図」の澤口に関する記述はここまでです。

 

さて、「見盤伝来之系図」では『古今算法記』は師弟の共著といっていますが、はたしてどうでしょう。実は『古今算法記』のどこを読んでみても、師の橋本の名前は出てきません。ですから、大島喜侍のいう橋本正数との共著説は留保しておく必要がありましょう。一方、京都への移住については、元禄10(1697)刊の諸国案内記『国花万葉記』から窺い知ることができ出来ます。そこでは洛中の著名な算者として、田中由()眞とともに「沢口宗隠 聚楽」と載っています。京都で既に有名になっているのですから、移住は元禄10年以前のことであったことになります。なぜ、大坂の地を離れたのかは分かりません。ただ、この時期の京都には、先の田中由眞や中根元圭、さらには宮城(柴田)清行らが活動しており、数的知識に溢れる魅惑的な都市であったことが理由かも知れません。あるいは師匠と仲違いをしたことも考えられるでしょう。

 

『古今算法記』は全七巻からなっています。最初の三巻は平仮名交じり文で書かれています。和算入門(2)で触れましたが、この文体は女性や子どものための啓蒙書としての意味を持ちます。ですから、序文の起草者福本道閑が指摘するように「前の三巻は初学の士を教ゆるため、和術をもって、仮名にこれを書し」たのでした。和術とは近世日本数学の術語ですが、これが拡張されて和算という術語に成長していくことになります。後の三巻は漢文で書かれており、東アジア伝統数学の形式に則っています。福本の序文は「後の三巻は、算法根源記一百五十問好みの答術なり。ことごとく天元の一算を立ててこれを述ふ。おのずから算学啓蒙の深秘を顕はすのみ」といっています。つまり、後の三巻は『算法根源記』(寛文9年刊、佐藤正興)の好み150問の解答集で、その答を導くために『算学啓蒙』で使われた「天元之一」を用いる、といっているのです。「天元の一算は、真に難問を解くの奥妙なり」とも断言しています。福本某について詳細は分かりませんが、序文から推測して数学が分かる人物であったと思われます。

 

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     『古今算法記』澤口一之跋文

 

一方、著者の澤口一之の跋文にはつぎのような興味深い発言が表れています。

 

 それ算道の理、総てこれを謂ふときは、方円の二つなり。然るに方理は得やすく、円理は明らめ難し。

 

読者諸氏もお気づきのように、ここで澤口は「円理」という用語を持ち出しているのです。すなわち、方円の二理のうち、方理は容易に解決することができるが、円理に係わる問題は大変難しいと嘆じているのです。方理は直線図形に係わる問題をいうのでしょう。円理は円に係わる問題で、とくに弧矢弦の法を指すのでしょう。転じれば円周率を如何に正しく究めるか、また、円弧背の長さをどのようにして求めるか、ということに尽きましょう。

 

いずれにしても、近世日本数学の重要なキーワドともいえる「円理」がここに誕生していたのです。円理は建部賢弘の時代には円弧背の求長法の意味で使われ、江戸後期では多重積分の研究という意味で登用されることになります。

 

さらに『古今算法記』の数学史的重要性の問いかけのなかで、欠いてはならないことが二つあります。ひとつは、著者の澤口一之が二次方程式には二つの解があることを指摘した最初の日本人であること、二つめは、第七巻に関孝和を近世日本数学史に登場させる契機となった「自十五問好」を出題していたことです。これらの紹介は次号に致しましょう。

 

( 以下、次号 )