和算入門(10)


 

 和算入門を開始してはや10回目になりました。振り返ってみますと、和算の源流と言うべき中国の古代数学史について多くを語らなかったように思います。本来、中国数学史を紹介した上で関孝和先生のことを書くべきなのですが、そのことは改めて触れることにして、今回から郷土の偉人と言われる関孝和先生の生涯と業績について視ていくことにいたします。

 

 群馬県には『上毛かるた』と呼ばれる郷土のかるたがあります。戦後の復興期、子どもたちが郷土に誇りが持てるよう偉人・賢人や名所旧跡などを「かるた」にして教えようとして作られたと聞いています。この『上毛かるた』の最後の読み札が「和算(わさん)の大家(せき)孝和(こうわ)」で、絵札は写真の通りです。

jijo034写真 『上毛かるた』より  

 

『上毛かるた』は小学校教育で盛んに利用されていて、県大会などの競技会も開かれるほどです。ですから、群馬県民は関孝和先生の名前はよく知っているのです。しかし、ではどのような人でどんな業績があるのかを尋ねるとほとんどの人は応えることができません。私も大学の講義で県内出身の学生さんに質問することがあるのですが、答えはさっぱりで、希に「和算をやった人」という反応はあっても、では和算とは?と再質問すると「分かりません」になります。『上毛かるた』は確かに良くできたかるたで、一読すれば群馬県の歴史が分かるようになっています。でも、その中身が分からないとなると「佛を造って、魂を入れず」 になりかねません。

 

 さきほど読み札に「和算の大家関孝和」とあって、これに振り仮名が付けられていて「わさんの大家せきこうわ」と読むと書きました。「和算」はまさにこの入門の主題でありますからお分かり頂けると思います。そして孝和を「こうわ」と呼んでいますが、ちょっと中国風ですね。でも本当に「こうわ」なんでしょうか。また、関孝和先生が群馬県の出身であるならば、県内のどこで生まれたのでしょう。さらに、関先生はだれに算学を教えて貰ったのでしょうか。『上毛かるた』の絵札(若干疑問も残りますが)からは関先生は侍のように見えます。ええ、先生は立派な侍で、最晩年は江戸幕府に仕える役人になりました。先生の背後には幾何学模様の図柄がある額のようなものも見えます。この額の図形は先生の研究に関係のあるものですから、絵札の作者はそのことを知っていたのでしょう。ですから、先生が数学者であることを強調するために挿入したものと思えます。

 

 これから、一つひとつ関孝和先生をめぐる謎解きをしていくことにいたしましょう。

 

  ( 以下、次号 )