和算入門(11)


まず、関孝和先生の生涯について話しましょう。話題は関先生の出生地と出生年および甲府藩への任官からになります。和算入門(10)で、先生の生涯については不明なことが多いと書きしました。なかでも出生地問題は長く研究者の間でも論争が交わされてきたところです。このことは先生の誕生年にもかかわるのです。

 

これまでの研究者が論拠の中心に据えたてきた資料に『寛政重修諸家譜』があります。これは江戸時代の終わり頃に編纂された諸大名と幕府家臣団の系譜なのです。この家系譜によれば、先生は旗本内山永明の二男として生を受けたと書かれています。あれ?と思われるかも知れませんが、先生はもと内山家の子どもだったのですが、故あって関家に養子に出ました。ですから、父と子で姓が異なるのです。内山家は古くは武田信玄に仕える信州出身の武士でありましたが、武田家滅亡後は徳川家康に従って関ヶ原の戦いにも出陣しました。その後、寛永4(1627)、祖父の内山吉明と父の永明は徳川忠長に付随して駿河へ赴任したようです。その忠長は2代将軍徳川秀忠の三男で、3代将軍徳川家光の弟にあたりました。しかし、駿河城での忠長の乱行は目に余り、寛永9(1632)、上州高崎城へ蟄居されることになりました。このとき忠長の一部家臣団も上州での謹慎を余儀されたようです。『諸家系譜』と題する資料が国立公文書館内閣文庫にあります。これは江戸幕府が『寛政重修諸家譜』を作成するにあたって、大名家を含む旗本家臣団から提出させた家系譜です。この『諸家系譜』には父の永明は「大納言殿御仕合、以後上州藤岡ニ父吉明ト一所ニ窒居」とはっきり書いてあります。この文の意味は、徳川忠長の騒動ための、父の吉明と私は上州藤岡に屛息した、と言うことなのです。ですから、関先生の家族は、上州藤岡の何処かに屋敷を構えて待機したか、あるは親戚筋に身を寄せたか、ということになりましょう。余談になりますが、藤岡市郊外に鬼石秩父方面の往還沿いに神田(じんだ)という地名があります。この地区には、古老の話として、関先生の屋敷があったとする伝承が伝わっていますから、この地に家族がいたのかも知れません。なお、徳川忠長は寛永10(1633)128日、高崎城で自害したと記録されています。

 

徳川忠長の家臣団は、やがて謹慎が解かれることになります。『駿河殿御藩分限帳』と題する資料を見ますと、内山吉明は「寛永十年酉年より月俸を賜る」と書かれていて、幕府から俸給を受ける立場になっていることが分かります。所謂、再任官あるいは主君替えということでしょう。そして、寛永16(1639)には御天守番として江戸勤務が命じられます。この時代単身赴任はなかったと思われますから、江戸勤務の台命に従って家族ともども出府したものと思われます。ですから、関先生の家族が藤岡に居たのは寛永4年から寛永16年までのことになります。関先生の母、つまり、永明の妻は高崎藩の安藤対馬守家来湯浅與右衛門の女(氏名は不知)であったと記録されていますから、藤岡在住の12年間の間に結婚したのかも知れません。また、内山永明は寛永18(1641)に、下総国千葉郡上飯山満村に菜地を得て、知行100石廩米50俵の俸給となった、と記録されています。これは内山家の収入源がどこであるのかを記しているだけですから、下総国に移転したことにはならないと思います。

 

そして、正保3(1646)52日、父内山永明は病死します。家督は、同年1128日に兄の内山永貞が継承します。そして、翌年に関先生の弟となる内山永章が武州江戸で出生しました。

 

ここまでが、系譜類からみた関孝和先生の家族に関する略歴です。見ての通り、関先生のことはどこにも出てきません。おかしな話ですね。関孝和は本当に居たのか、と疑いたくなりますが、そこまで懐疑的になる必要はないでしょう。内山家の系譜類から関先生の詳しい経歴が消えていく最大の理由は、先生が養子に出て、本家の内山を離れたことにあったと考えられます。また、享保20年に関家が断絶したことも先生の生涯が不詳になる原因でした。

 

ところが、最近、お茶の水大学の真島秀行先生が甲府藩に関係する資料を調査して、関先生が正保2(1645)生まれである、と言うことを報告しています(『数学史研究』No.2042010)。この年紀は、先に述べた家族系譜と照らし合わせてみると、先生は江戸生まれだったことになります。また、没年が宝永5(1708)であることは動きませんから、享年は64歳を数えることになりましょう。この出生年と年齢は、実際の先生の活動と比較して、妥当と思えます。しかし、その様に断定するには研究上の重大な問題が横たわっています、と指摘できます。それは、歴史の研究では(いや、すべての研究もそうだと思いますが)、一人の研究者が見た資料を全面的に信用してはいけない、という原則があるからです。つまり、多くの研究者が資料を多角的に検証し、資料の含む様々な虚実を明らかにした上で、資料の正当性を担保していく手続きが終わっていないのです。真島先生の見いだされた資料は関孝和研究において一級の価値を持つと判断できます。そのような意味からも、資料の一日も早い公開が待たれるところです。

 

ですから、関先生の出生年と出生地問題は依然として未解決であるとすることがよいと思われます。いずれの場合であっても父永明が転勤する寛永18年が上州説と江戸説の分岐点になります。

 

関孝和先生の本家は内山家である、と上述いたしました。では、いつ関家の養子になったのでしょうか。これは、どうやら寛文5(1665)以前であったと推測できます。関先生の養父関五郎左衛門(この名前は定説に従っています)の役務は桜田殿御勘定役でした。桜田殿とは徳川綱重(1644~1678)の屋敷地名からくる異称で、綱重はそこの主になります。綱重は徳川家光の3男、後に6代将軍になる徳川綱豊の父にあたります。その綱重の領地である甲府藩が立藩するのは寛文元年(1661)のことですが、それ以前に徳川幕府は旗本などから綱重と徳松(後の5代将軍徳川綱吉)の家臣になる武士を徴用しています。おそらくこの時に関五郎左衛門も綱重の家臣となり、やがて御勘定役に就くことになったものと思われます。養父の関五郎左衛門は寛文589日に没していました。この年、関先生は関家の跡目になりますが、養父の生前に養子縁組が整っていなければ家督相続はできません。ですから、養父の没年以前に幕府への養子縁組みの届け出は済んでいたのでしょう。江戸時代の家の問題はなかなか厄介です。関家に養子に入った先生も、また、関家の存続で頭を悩ませることになります。

 

 

断家譜・諸家系譜0010

資料1 『諸家系譜』の内山家にみえる関孝和

 

断家譜・諸家系譜0011

 

資料2 『諸家系譜』の内山家にみえる関孝和(続き)

 

  ( 以下、次号 )