和算入門(12)


前回は関先生の生年や養家のことを中心に書きましたが、この回では甲府藩邸での仕事を紹介することにします。関先生は寛文5(1665) に関家を継ぎ、甲府藩士として勤務するようになりますが、これは先生が二十歳前後のことであったかと思われます。この頃の先生はすでに数学研究の道を歩んでいたようですが、詳しいことはわかりません。

 

関先生が作ったノートで、寛文元年(1661) 仲夏あるいは寛文13(1674) 仲夏の年紀を持つ『揚輝算法』(一般には「楊輝」で通用) が伝わっています。この写本は南宋の揚輝が刊行した『揚輝算法』(明版1378年刊、朝鮮版1433年刊) を写し取ったものですが、垜積術、翦管術(合同式) や方陣の問題が含まれていて、先生の研究意欲を大いに掻き立てたものと思われます。「演段」という重要用語も載っています。そして注目すべきは、先生の写本は「単に原本を写しただけでなく、本文の錯誤の訂正から、数学的内容の訂正まで、きわめて丁寧に『楊輝算法』を読んだ成果が現れている (上野健爾ほか『関孝和論序説』、岩波書店、2008年、p.195) ことです。先に指摘したように、この写本は二つ残されていて、それぞれ異なる年紀を持っています。この年紀は研究者を悩ませる問題ですが、どちらの場合であっても先生の数学研究を考えていく重要な手がかりになります。

 

            

    

写真1 写本『揚輝算法』(射水市歴史博物館高樹文庫蔵)

写真2 同写本の奥書には寛文「辛」酉の上書きをみる(同上)。    

 

では、関先生はそのような数学力をもって甲府藩に仕えていたのでしょうか。どうもそれは違うようです。この時代の慣例では、血気盛んな青年期の侍は小十人組に配属されることが一般的でした。小十人組とは江戸幕府にあっては将軍を、諸藩にあっては藩主を警衛する武士団のことを指します。10人一組で編成されますので、小十人組と称したのでしょう。先生の弟子の建部賢弘が甲府藩に召されて、最初に配属された役務が小十人組でしたから、関先生も同じであったと思われます。しかし、小十人組のような戦闘員としての仕事は若いときでなければ勤まらないようですから、加齢とともに職務が変わり、それとともに俸給も増えていったようです。

関先生は30歳前後の延宝2(1674)に『発微算法』を出版しましたが、これによって先生の数学者としての名声は高まっていきますが、藩邸内での職務はまだ小十人組にあったと思われます。

 

甲府藩領内の行政は難しかったようです。寛文13(1673)8月から9月にかけて国中の所々の百姓等が騒動を起こし (『甲斐国歴代譜』)、延宝6(1678)には「先年甲府百姓及飢訴仕候節、大勢ノ百姓江戸へ相詰候」(『人見私記』)という事件も起きていました。また、藩財政が窮乏するため幕府の資金援助もしばしばあったようです。「百姓」らの騒動は領内の検地が誘因となったかも知れません。甲府藩では寛文の初めから領国検地をおこなっていますが、関先生もこれにかかわったことがあるようです。

 

貞享元年から2(1685)にかけて実施された甲府藩内の検地帳が現存しています。甲州北山筋湯村、同西幡村、甲州中郡筋玉村で実施された検地の記録がそれです。山梨県内の研究者がこのときの検地帳を所蔵しているようですが、筆者は明治大学博物館 (駿河台キャンパス) が所蔵する検地帳を拝見させて頂きました。検地帳の表には検地の実施日、案内村役人、代官などの名前が書かれていますが、裏面には左から戸田嘉兵衛、萩原孫四郎と並んで関新助の署名が見えています。それぞれの名前の直下には黒印が捺されています。三人の黒印は本文にもびっしりと捺されています。戸田も萩原も甲府藩の役人ですが、関先生の名前が最初に書かれますから、先生は彼らの中では下位にあったことになります。するとこの検地帳は関先生が書いたことになるのでしょうか。

 

               

 

写真3 『甲州北山筋湯村御検地水帳』(明治大学博物館蔵)

写真4 同検地帳(同上)

 

残念ながらその可能性は低いようです。よく見て頂ければわかりますが、三人の名前の書体が同じです。明治大学博物館が所蔵する検地帳のほとんどが同じ書体ですから、同一人物による書写ということになります。表書きも同じ人物です。ひょっとすると代官の前島佐次右衛門の手跡かも知れません。また、裏面の上に「写」の文字があります。この意味は正本に対する副本ということですから、こうした作業は関先生よりもう少し下位の役人がする仕事になると思います。いずれにしても、貞享の頃、関先生は甲府藩の検地にかかわる仕事に携わっていて、小十人組は卒業していたことになります。その後しばらく先生の名前は公的な記録に現れません。ちょっと不思議です。

 

山梨県立博物館(甲府様御人衆分限帳・外) 010     写真5『甲府様御人衆中分限帳』 

 

さて、元禄8(1695)と言いますと、関先生はそろそろ老齢の域に達し始めますが、同年9月に作成された『甲府様御人衆中分限帳』(写真5参照、山梨県立歴史博物館蔵)によりますと「御賄頭 御役料拾人扶持 蝶 弐百俵 関新助 天龍寺前」と書かれています。俸給は200俵+役料10人扶持 (一人扶持は、一日当たり男は5合、女は3合換算で毎月支給) です。仕事は御賄 (藩邸の台所への食品供給) の頭ですから係長クラスに相当するのでしょうか。家紋は蝶。そして、この時期、新宿の天龍寺前に住んでいたものと思われます。職務として出入りの菓子屋織江や主水などの接遇もしています。これこそが御賄いの仕事と言えます。  

 

少し先を急ぎますが、元禄11(1698)から12年にかけて、甲府藩国絵図作成の仕事にかかわっていました。元禄15(1702)に甲府藩の御用人である儒者の新井白石が昇給する際には裏判署名もしています。これは勘定吟味の仕事になります

そして、宝永元年(1704)、藩主の徳川綱豊 (のちの6代将軍徳川家宣) 5代将軍徳川綱吉の嗣子として江戸城の西の丸へ入城するに及ぶと、「御勘定吟味役より二百五十俵御役料十人扶持 関新助 右西丸御納戸組頭」 (『柳営日次記』)となりました。これで関先生は甲府藩家臣から江戸幕府の直参となったのです。役務は西丸の御納戸組頭。これは綱豊の財産管理の仕事で、職位は課長クラスになりましょうか。

以上、ざっと関先生の甲府藩邸での役務を中心に辿ってきましたが、それは先生の余業ともいうべき数学研究とはまったく無縁のところあったことがわかります。

        

  ( 以下、次号 )