和算入門(13)


これまで関孝和先生の甲府藩士・江戸幕府直参としての仕事を中心にして話をしてきましたが、この回からは先生の研究業績を紹介することにします。ただ、最初にお断りしておきますが、関先生の業績には関しては、どこまでが先生の仕事で、どこまでは弟子の仕事であるのか分明にならないところが多々あります。それらを明瞭に区分することは大変難しく、今日の研究でもしばしば問題になるところです。したがって、この小稿ではできる限り史的事実に照らし合わせながら、関先生の業績であると確実視できるものを客観的に紹介することにします。

 

 前項でも書きましたが、関先生が青年期の数学研究の様子を伝える史料は、後世に創作されたであろうと思われる物語はありますが、皆無であるといっても過言ではありません。そのような先生が、彗星の如く江戸時代の数学界に出現したのは延宝2(1674)のことでした。近世日本数学の文化史特徴の一つに「好み」があることを紹介しましたが、先生はその「好み」を解き『発微算法』を上梓したことで鮮烈なデビューを果したのです。

 

寛文11年、京都の数学者澤口一之は『古今算法記』を著しました。澤口はこれに15問の「好み」を加えていたのでした。澤口は京坂地方で勢力を誇っていた橋本流に所属していて、実力者として知られていたようです(和算入門(8)(9)参照)。その澤口が『古今算法記』に残した「好み」は実に難問揃いだったのです。その難問を解いた関孝和は著書『発微算法』の序文で解法から出版にいたる経緯を次のように述べています。 

 

発微算法序

この頃、算学世に行はるること甚し。或はその門を立て、或はその書を著す者の枚挙すべからず。茲に『古今算法記』有りて、難題十五問を設け、引きて発せず。爾より来かた、四方の算者これを手にすと雖ども、その理高遠にして暁し難きことを苦しむ。且つ未だその答書を覩ず。予、曾てこの道に志すこと有るが故に、その微意を発し、術式を註して、深く筥底に蔵して、以て外見を恐る。我が門の学徒、咸曰く、「庶幾くは梓に鏤めてその伝を広くせよ。然らばすなはち、未学の徒の為めに小しき補ひ無んばあらず」と。仍て文理の拙きを顧みず、その需めに応じて、名づけて『発微算法』と曰ふ。その演段精微の極みに至ては、文は繁多にして、事混雑せるに依りてこれを省略す。猶、後賢の学者を俟て正さんことを欲するのみ。時に延宝二年歳甲寅に在る十二月幾望、関氏孝和叙す。

 

         写真日本学士院蔵本『発微算法』

 

まず、関先生の序文で発言を要約しておきますと、

 

近年多くの算術書が刊行されているが、澤口一之の『古今算法記』の遺題15問は途轍もなく難しく、解ける人がいない。私は数学の道に志を立ててきていたので、澤口の難問に挑戦し「術式」を作って遺題15問を解決することができた。ただ、私は私の解き方を人々に見せるつもりはなかったので「筥底」に秘して外見を憚っていた。しかし、私の門人たちが先生の解法を公にして、先生の創出した方法を広く世の中に広めましょう、そのことは斯界のためにすくなからずの貢献があると思います、と勧めてきた。そこで、まだ文章や式などは十分に整理されてはいないが、門弟たちの求めに応えて『発微算法』と題して上梓することにした。ただし、計算の総ての過程を示すことは、術文が繁多で、複雑に入り組んでいることから略記することにした。なお、誤りがあれば、後学諸氏の訂正を俟つことにする。

 

と言うことになるでしょう。

 関先生の序文を読んでいますと、先生の人生や人柄などの幾ばくかが見えてきそうな気がします。まずは言えることは、先生は早くから数学の道に志を立てていたようで、当時、出版されていた算術書のほとんどは研究していたように思われます。そして、『発微算法』を出版する頃には、門人を取って算術教授をしていたのです。本書の刊行を進言した門弟とは、これの校正者となった三瀧郡智と三俣久長であったかも知れません。そして、澤口の「好み」を解いたけれども、外見を憚って書棚にしまっておいたとする件は、先生が自己誇示欲の強くない数学者であって、自己満足型の人間であったことを窺わせています。ただ、これはレトリックの可能性もありますので全面的に信用することは危険でしょう。それは兎も角、そして、先生の工夫した傍書法と演段術はこの時すでに完成していたことは間違いないでしょう。また、術文などはまだ十分に整理していないが出版することにしたという態度は、難問が解けたことに満足していて、あとは執着しないというおおらかな性分だったことも漂ってきます。確かに、先生の言うように術文をだらだら書いても何の面白みがないのも事実です。兎に角、先生は難問を解いて満足していたのでした。しかし、書中で術文を略記したことは、後日、先生の解き方がわからない数学者からの批判を招くことになりました。

 

 さきに『上毛かるた』の関先生の絵札を紹介しました。その絵札の背景として、図形問題が額装にして描かれていたことを覚えておられると思います。その図形問題は澤口の「好み」第1問と関係があります。詳しいことは、次回に述べますが、『発微算法』は間違いだらけであるという厳しい声が京都の数学者から届いたのです。そのような批判に応え、また、先生の考案した傍書法と演段術を普及させるために、貞享2(1685)、弟子の建部賢弘の名前で『発微算法演段諺解』を出版しました。ここで建部は『発微算法』15問の解法を解説するのですが、その第1問の図が『上毛かるた』の絵札と同じなのです。

 

    ( 以下、次号 )