和算入門(17)

皆様には、平成28年申の歳を健やかにお迎えのことと存じます。今年もよろしくお願いいたします。

 

貞享2(1685)に刊行した『発微算法演段諺解』は、関孝和先生が考案した傍書法と演段術を普及させるという所期の目的を達成することに成功しました。この数学書は、出版当時は勿論のこと、のちの数学者にも大変研究されたようで、関流数学の「聖典」と呼ぶに相応しい普及をみせました。それらのほとんどは江戸後期の京都の有名書林であった天王寺屋市郎兵衛の「水玉堂」板であることも興味深いものがあります。くわえて、同書林の広告「水玉堂暦算書目」に掲載される暦算書目名の変遷にも面白さが沸いてきます。その理由は、暦算書目名に関先生の著作がしばしば掲載されることにあるのですが、不審な広告が多いことにあります。ただし、この小稿では深入りしないことにいたします。

 

天王寺屋市郎兵衛を版元として発刊された『括要算法』も関孝和先生の数学研究の神髄が載せられた数学書として世間の関心を集めました。『括要算法』4巻は、正徳2(1712)正月上旬、荒木村英と大高由昌によって上梓されますが、出版にあたっては江戸の書林升屋五郎右衛門が版元として動いたように思われます。しかし、のちに『括要算法』も『発微算法演段諺解』と同様に版権が天王寺屋市郎兵衛に移ったようで、版権の委譲にともなって編集上の修訂が加わったように思われますが、このことはあとで触れることにいたしましょう。

 

さて、『括要算法』の初版の装丁を維持していると思われる一冊が東北大学附属図書館に収蔵されております( 羽賀集書031 )。これの表紙見返しの内題はつぎのように書かれています。薄墨による印刷で読みづらいのですが「関自由先生遺録 著顕古今未発 括要算法 拡充諸家志宝 書津堂蔵版」と書かれていることが分かります。冒頭に「関自由先生遺録」とあることから、『括要算法』は関先生の遺録すなわち研究ノートを収録した算術書であることが判明するのですが、このような記述が後の板本において「関氏孝和先生遺諞」と表記する理由になったような気がします。それはさておき、序文は、宝永己丑季冬中浣、恬軒岡張によって与えられました。年紀の宝永己丑季冬中浣は宝永6(1709)12月中旬にあたります。関先生は宝永510月に亡くなっていますから、先生の一周忌過ぎには序文が完成していたことになります。著者の岡張某についてはよく分かりませんが、中国の古典に精通していたのでしょう序文には『易経』や『尚書』の他、『孟子』や『中庸』に起源をもつ用語が至る所に引用されています。その岡某の序言を手短にまとめればつぎのようになるでしょう。

 

国家と国民にとっての数と数学は極めて枢要な学問である。近年、関孝和先生が数学者として巷間で知られるようになった。本書の出版に携わった大高由昌は初め関先生の門に学んだが、のちに先生の高弟であった荒木村英に師事して研鑽を積み蘊奥を極めた。そののちも大高は数学の奥義を窮めようと努力しているが、いまだ十分に修得できないこともある。しかし、『括要算法』4巻を編纂して現下の数学の蒙昧状況を救うことにしたのである。

 

 序言者の岡張がどれほど数学を理解していたかは分かりませんが(本人は数学は詳しくないといっていますが)、それは兎も角として、岡の発言から大高由昌が関先生の門下生として末席を温めていたことが知れる貴重な史料となっています。

この岡某の序文につづいて大高由昌の自序がつづきます(写真1参照)。大高の自序を読み下し文にして以下に示してみましょう。

 

 それ数の道たる、その源、聖人より出て、その来ること遠し。故に理、はなはだ向上にして、未得、為得の浅識にあらず。然れども円法、弧矢弦等の奥旨に至りては、則、兀〃として、煩するが如く、悩するが如く、可非を決し難し。これを以て一法の合へるを見て、万法の則と為し、その一に合ふて、二に違ふことを知らず。算法、また、邪術おほし。察せずんばあるべからず。関氏考和先師有て、始てその理、明らかに、その道開けぬ。而も昔人のいまだ発せざるを発す。愚、荒木村英によつて、関氏先生の道を得たり。蓋し、この術、広く世に行れて、衆人とともに邪を闢き、正を辨ぜんことを願ふなり。然りと雖ども、理は無量、術も亦限りなし。そのいまだ尽くさざる所は、以てのちの君子を俟つ。爾云う。

 旹

宝永己丑季冬中浣武江住

    大高庄大夫由昌 謹書

 

 大高が自序で指摘した数学上の諸問題である「兀〃として、煩するが如く、悩するが如く、可非を決し難し」と指摘したことの各論は控えますが、一つの焦点として、この時代の数学者にとって円周率の正確な計算法や弧背の周長問題がなお難問であったことが伺えます。そうした状況下にあって、関先生は卓抜した数学力をもって前代からの難問を解決するだけでなく、数学研究に通底する普遍的な真理を導かれた。そのような関先生の薫陶を受けた荒木村英や大高由昌こそが先生の数学を普及する使命を担っていると自負しているのです。 

 

 ところで、大高の自序の年紀も「宝永己丑季冬中浣」とあって、岡張のそれと同じくしています。ということは両者とも同じ時期に序を認めたことになりましょうか。その意味するところは先生の一周忌もしくは三周忌に併せて『括要算法』を刊行する予定であったのかも知れません。そのことは初版と思われる『括要算法』の内題が薄墨摺りになっていることと関係しているように思えるのですが、確証はありません。実際の出版は、先にも触れましたが、先生没後4年の正徳2年でしたから、何かの事情が生じて遅延したのかも知れません。ただ、もし、関先生の没後の記念版行であるとするならば一門を揚げての行事になるはずですが、高弟の建部賢弘先生などがこれに係わっていないことも奇妙といえば奇妙です。建部先生は『括要算法』について何ら発言をしていません。門弟内の人間関係とか力のバランスとかが透けて見える一事かもしれません。

 

 そうした門派内の思惑は別にして、『括要算法』は『発微算法演段諺解』と同様に大変よく研究された関流数学書になりました。その意味では『発微算法演段諺解』に比肩する関流数学の「聖典」といえるでしょう。荒木村英の系統に繋がる松永良弼、山路主住、藤田禎資、さらには建部賢弘と親交をもった中根元圭も同書の研究を推し進めました。関孝和の数学と対峙した田中由真も自著にその影響を留めています。そのような視点に立ちますと、大高由高が当初目的とした「関先生の数学の普及」とする意図は達成されたことになるのでしょう。ここに関流数学が全国を席巻するもう一つの理由がありました。

 

        ( 以下、次号 )

 

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写真1『括要算法』大高由昌自序(京都大学理学部所蔵)