和算入門(26)


建部賢弘は近世日本数学史にあって傑出した天才であるといえます。その最大の理由は『綴術算経』にみることができます。いや、これとほぼ同様の内容をもつ『不休建部先生綴術』も挙げる必要があますが、ここでは深入りしないことにいたします。これらには、円周率の計算を40桁余までなし得たこと、円弧背の求長法に無限小解析を用い得て成功したこと、などが著されています。また、建部賢弘の数理科学観が披瀝されていることも近世日本数学史の研究にとって特異な位置を占めているといえます。

 

 現在、国立公文書館内閣文庫に享保7(1722)孟春7日の序文を持つ『綴術算経』1冊が収蔵されています(写真参照)。それは8代将軍徳川吉宗に献上されたことの結果と思われますが、献上が序文の日付のときであったかどうかは議論の余地があります。そのことは兎も角として、吉宗はこれを大奥において勉強していたことが臣下の書き記した『仰高録』に残されています。

『綴術算経』の序文末尾に建部は「武陽江城陋耆士不休書」と署名しています。「武陽江城」は武州江戸のこと、「陋耆士」には左注が与えられていて「トシイタ・イヤシキ・サムライ」とあり「老人のいやしき侍」の意味になり、「不休」は賢弘の号になります。そして享保7年は建部59歳にあたります。思えば、建部は吉宗に見いだされてより以来、休むことなく働いています。その辺の事情を勘案しますと、ちょっと穿った解釈になりますが、「不眠不休で公に励む老人侍すなわち不休」と誌したことは吉宗への嫌みであったのかも知れません。また、文中の漢字に沢山の振り仮名が付くことも将軍の理解を助けるための賢弘の配慮であったと思われます。

 

 『綴術算経』の目次を見ておきましょう。

 

 探法則 四條

  乗除 據理探法 第一

  立元 據理探法 第二

  約分 據理探法 第三

  招差 據理探法 第四

 探術理

  織工 據理探術 第五

  直堡 據理探術 第六

  算脱 據理探術 第七

  球面 據理探術 第八

 探員数 四條

  碎抹 據理探数 第九

  開方 據理探数 第十

  円数 據理探数 第十一

  弧数 據理探術 第十二

 

以上、法、術、数に関して、それぞれ3條十二題が著されています。最後に附録として中根元圭の『三斜差各一整冪股数』が載せられています。これの年紀が享保10(1725) となっており、この年紀が将軍への献呈日を不確かなものにさせる原因の一つになっています。

先に紹介した円周率の計算は「円数 第十一」において「今、累遍増約ノ術ヲ用ルコトヲ探リ会シテ、千二十四角ニ至ル截周冪ヲ以テ、四十余位ノ真数ヲ究ム」と述べています。これは、関先生は正角形までの周長を計算し、1回の増約術を適用して円周率16桁を定めたのに対して、累遍増約術を用いれば、正 角形の計算で増約術を数回使えば40余位が求まると主張していることになります。累遍増約術とは連分数による求法です。弧背の求長法は「弧数 第十二」で述べられています。その経路ですが、

 

 始径一尺ニシテ矢一寸、矢二寸、矢三寸、矢四寸等ノ定背ヲ碎約シテ求メ続テ、又、矢四寸五分、矢四寸九分等ノ定背ヲ求テ、其数ヲ探ルニ、半円ニ近キ者ニ於テ據ト為スルコトヲ不会。故ニ、往年関氏弧率ヲ造改ムルコト再次。吾、亦、重テ改ムルコト一次。共ニ皆不精シテ、其術廃シヌ。其矢一寸ノ半背冪一十寸〇三強ト、矢一分ノ半背冪一寸〇〇三三強ノ数ニ依テ、予メ矢ノ極微ナル者、必真数ノ顕ルベキコトヲ察シテ、矢一忽ノ半背冪ノ定数ヲ求メ得テ、其質ヲ探会セリ。

 

としています。この説明によれば、弧背の求長をめぐって、関先生は2度、建部先生は1度失敗し、それらの方法は全て廃棄したというのです。原因は矢の長さを1寸、2寸、3寸、---と大きく取って求めようとしたことにあったようです。ところが、矢の長さを1寸、1分、---1忽と小さくしていけば忽然とその本質が見えるようになったというのです。そこで、径1尺、矢1(10-5) として、このときの弧背を求めるために、弧背を2等分して2斜を作り、さらに2分して4斜、8斜、16斜、---、と分割し計算し、さきほどの累約増約術を適用すれば定半背冪(s/2)2として、

 

1. 0000 0033 3333 5111 1122 5396 9066 6672 8234 7769 4795 9587

 

を得るとしています。この値は、寸からみれば、

 

 10-4  × 1.0000 0033 3333 5111 ---,

 

と見ることができ、これはおおよそ10-4 の値といえます。いま、径=10(d)、矢=10-5(c) ですから、この値はcdに大約等しく、(s/2)2 の探索ではcdが主要な値になることが理解できます。

 関先生は矢の値を大きく取ったことでその本質を見失いました。建部賢弘も一度はその方向で追求したのでしょうが、結果的には失敗したのでした。しかし、同じ失敗の轍を踏まない飽くなき探究心と鋭い洞察力が建部先生の素晴らしいところなのでしょう。詳述は避けますが、建部先生は、これから最終的に、

 

  cd { 1+ +

 

に到達いたしました。この式は (arcsinx)2の展開式に等しく、ヨーロッパではオイラーが1737年に発見したといわれていますから、建部はそれより15年前に見つけ出していたことになります。因みに、近年、横塚啓之氏が入手した『弧背截約集』(年紀不明) によれば、建部がこの結論に到達したのは享保7113日とあります。すると『綴術算経』の序文は同年17日でしたから、『綴術算経』の本文の完成はこれ以後のことで、吉宗への献上はさらにその先であったことになります。また、『不休建部先生綴術』の年紀も享保7年如月とあり、これが徐月であれば両書の関係も微妙な問題を含んでくることになります。いずれにしても、さらなる史料の出現と研究の進展が俟たれるところです。

 さらに、『綴術算経』の隋所に、関先生と自分との性格の違いや数学観の相違などが述べられていて興味は尽きません。ここでは、紙数の関係もありますので、最後に披瀝される「自質説」を紹介して、建部先生の数学に対する思いに寄り添ってみたいと思います。

 

自質説 一條

算ノ数ノ心ニ従フトキハ泰シ、不従トキハ苦ム。所謂、心ニ従フハ即、質ニ従フナリ。---夫、算ノ道ヲ心ニ知テ、言(ことば)ニ説者ハ不実ナリ。道ニ體(てい)シテ、事ニ行フ者ハ真実也。---唯、人人自己ノ生レ得ル質ヲ実(まこと)ニ識得テ、質ニ従テ算ノ数ノ真実、質ニ従フ所以ヲ説ヘキ也。

 

大変味わい深い言葉です。筆者のように言葉のみにて数学史を説く唐変木はそうそうと表舞台から退場するべきでしょう。でも、唐変木にも唐変木なりの役割はありそうですから、もう少し舞台の隅にいて数学の歴史を語っていきたいと思いますので、御寛恕のほどお願いいたします。

なお、『綴術算経』と『不休建部先生綴術』との関係は後日機会があれば触れてみたいと思います。また、触れることを失念しましたが、元禄3(1690)に『算学啓蒙諺解大成』を著し、天元術の普及に勤めたことも建部賢弘の重要な仕事として指摘しておかなければなりません。数学者から好感をもって、あるいは数学入門書の好教材とする評価があったのかもしれませんが、今日、公的な研究機関だけでなく和算家の子孫宅に必ずと言ってよいほどこの一冊を見いだすことができます。そした評価の証左といえましょう。

 さらに最後に建部・中根派の形成に触れておきます。建部賢弘の仕事は、京都の暦算家で多芸の人であった中根元圭(1662-1733)に伝わりました。さらに元圭から息子の中根彦循と元圭の弟子の幸田親盈へと伝わり、幸田から今井兼庭、本多利明、会田安明と伝播していきました。このように建部賢弘の数学とその思想は広まっていくことになります。

                         ( 以下、次号 )

 

写真上『綴術算経』表紙(国立公文書館蔵)  写真下 『綴術算経』序文の奥付