和算入門(27)


17世紀後半から18世紀前半の京都を中心に活動した暦算家に中根元圭(1662-1733)がいました。元圭は、近世にあって希な多才の人で、それがもたらす結果といえますが多くの高名な文人と交流し、大いに知的刺激を分けあったといわれています。そして、人生の後半では関孝和の高弟建部賢弘と出会い、2歳年長ながら建部門下の高弟に属しました。また、8代将軍徳川吉宗への拝謁も許され、暦学の下問を賜ると共に享保11 (1726) 年に渡来した梅文鼎の遺著『暦算全書』の訓点和訳を仰せつかりました。この作業は享保13年に一応の完成を見たようですが、その途次の享保12年には「十人扶持」の俸禄を賜りました(ただし、一代お抱えですが)。

京都に暦算家の中根元圭がいたことは和算史ではよく知られた事実ですが、彼の仕事や近世中期における江戸幕府の数理科学政策にかかわる仕事に関与していたことなどはあまりよく知られていません。そして、そのことに関連して、中国経由で渡来した西洋の三角法を最初に理解した暦算家であることもほとんど知られていないのです。そこでこの和算入門27回では、中根元圭の業績のこと、建部賢弘との出会いのこと、また、『暦算全書』の和訳の経緯とその歴史意義などについて綴っていきたいと思います。

 

中根元圭は近江国浅井郡八木浜において、寛文2年、父を定秀、母を西嶋氏とする父母の二男として生を受けました。父は医業を営んでいましたが、元圭が数理の才に長けていることを知ると、その道で大成するよう諭し、幼くして京都に遊学させたようです。若年のころの洛陽での生活の様子はよく分かりませんが、「東門跡ノ小臣」として仕えていたことが記録されています。「東門跡」もどこの寺院を指しているのか判然としませんが、筆者は東本願寺ではなかったかと推測しています。識者の教示をお願いいたします。そして、おそらく年を重ねてのことだと思いますが、数学は田中由真(吉真)の門で学んだようです。これは、田中由真の著書の中で門人として触れられていることで分かります。暦学にも関心が強く及んでいたようで、これも渋川春海の門下として修行を積んだと伝わっています。渋川の弟子の谷秦山がそのことを書き留めています。こうした修学は、暦算学だけでなく、漢文学や度量衡、楽律にも広がっていたようです。ある意味中国の古暦の研究を深めれば、おのずからそのような他分野(いや近接分野)への接近は当然といえるかも知れません。先に触れた『暦算全書』の翻訳作業ではそれら総合的な知識がフル動員されることになりました。

また、暦算学を研鑽する一方で、正徳元(1711)年には京都銀座の銀官になっていることも忘れてはなりません。ただし、銀官としての地位は高くなかったようですが。

中根元圭の諱や号は年令と共に変わっていったようですが、それらを逐一紹介することは繁雑になりますから、ここでは名は璋、字は元圭、通称を丈右衛門、また、晩年(?) に「平安白山街」に住んだことから、白山先生と呼ばれるようになったことなどを記しておきたいと思います。

こうした元圭の生涯や業績に係わることは、拙論ですが京都大学『数理解析研究所講究録』1787『数学史の研究』、2012年、pp.29-43に載る『中根元圭の研究(I)』や『中根元圭の研究(II)Study of the History of Mathematics, edited by Tsukane Ogawa, RIMS KôkyûrokuBessatsu B50, 2014,pp.77-92などを参照して下さい。

 

さて、中根元圭の業績ですが、刊行書籍から見ておきましょう。

貞享2(1685)年 『新撰古暦便覧』刊(書肆梅村彌右衛門)書蝉梅村彌右衛門)

貞享4(1687)年 『新撰古暦便覧』刊

元禄4(1691)年 『七乗冪演式』刊

元禄5(1692)年 『律原発揮』刊

元禄5(1692)年 『異體字辨』刊

元禄8(1695)年 『笙蹄集』刊

元禄9(1696)年 『三正俗解』刊

元禄10(1697) 『天文図解発揮』刊

宝永4(1707)年 『授時暦図解発揮』刊

正徳4(1715)年 『皇和通暦』刊

 

 一瞥してお気づきと思いますが、圧倒的に暦学書の刊行が多いのです。元圭の研究の本分は暦学にあったといっても過言ではないと思われます。それら暦書に混じって漢学、漢字に関する著作があることも注意を惹きます。それはそれとして、以下に、それぞれの著作の内容を若干紹介しておきましょう。

貞享2年刊行の『新撰古暦便覧』は元圭にとって斯界へのデビュー作といえるでしょう。これは、先行する暦研究を踏まえて、古暦の暦日を再確認した上で、新暦すなわち貞享2年以降の大小の月、閏月、二十四節気の配置を表したものでした。ようするに自分で暦を作ったといっていいでしょう。実は、太陰太陽暦に従う作暦は結構難しいのです。特に、閏月と二十四節気の配置が厄介なのです。こうしたテクニックを渋川春海から習ったと思われるのですが、しかし、その後師弟の関係は悪化したようです。それから『新撰古暦便覧』には、貞享2年以降の日食と月食の予報が載せられました。それらの情報は暦の欄外に(史料参照)、日月食の別、発生の日時、食分が記されています。これらの予報記事の上に画かれる●印は食分を表しています。貞享2年に起きる最初の蝕は「●五月十五日月食皆既丑寅時」とあります。完全な●ですから皆既月食、それは515(西暦1685616)の丑寅時(深夜の2時から3時に懸けてという意味でしょうか)に発生するというのです。事実、この515日に月食が発生していますが、食分がどれほどであったかはよく分かりません。因みに、太陰太陽暦では、太陽と月の軌道面が重なればという条件付きですが、朔日の朔の時に月食が、14日から16日の望の時に日食が起こることになります。こうした日月食の予報を載せたことも評判を呼ぶ理由であったかも知れませんが、『新撰古暦便覧』は繰り返し刊行されました。それは元圭の死後も続いたのです。また、『新撰古暦便覧』の序文や凡例には最新の天文情報が載せられていて、京都における海外の新知識吸収の一斑が見て興味がそそられますが、それらの紹介は他暦書と併せて別の機会に譲ることにします。

数学の研究は元禄4年に刊行した『七乗冪演式』に代表されます。これは当時流行していた問題、いや強く関心が持たれていたというべきでしょうが、つぎのような高次の次数をもつ関係式をいかに解くかということでした。

 いま、甲(x1)、乙(x2)、丙(x3)3つの数があって、これら3つの数の間に次のような関係が成り立つとする。

x1 + x2 + x= 只云数 (a)

x18x28  = 又云数 (b)

x18x38  = 別云数 (c)

この時、これらの関係式を満足する x1,  x2,  x3  の値を求めよ、とするものです。一見してお分かりと思いますが、こんな面倒な計算をしなさいというのですから開いた口がふさがりません。とにかく計算には膨大な労力を要しますので、元圭自身も上下二巻にわたって各項がどのような形になるかを示しています。

元禄5年の『律原発揮』は楽律と度量衡に関する著作です。これの冒頭の「律」において、元圭は「三分増損法」を用いて古代中国と日本の律管の寸法と音階を検討していますが、そこから「十二平均律」の考察も行っています。これは日本音楽史の中では高く評価される研究になっています。今回はこの辺で筆を置きます。

 

( 以下、次号 )

 

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史料 中根元圭著『新撰古暦便覧』