和算入門(28)


 中根元圭と建部賢弘が何時どのようにして出会ったかについては、正直なところ詳しいことはよく分かりません。両者が残す史料が余りにも少ないため多くを語ることができないのですが、しかし、かれらの出会いは近世日本数学史を叙述する上で重要な意味を持ちますので、現在までに分かっていることを可能な限り紹介してみることにします。

まず、建部賢弘からみた史料を検討してみましょう。東北大学附属図書館に『不休建部先生綴術』と題する写本が数本収蔵されています。「不休」は建部賢弘の号で、「綴術」は弧背の長さを無限級数展開で表す算法を意味しています。「建部先生」とは勿論建部賢弘のことです。この『不休建部先生綴術』には『綴術算経』と同様のことが著されていますが、記述に若干の相違もあります。そのことはさておき、ここには建部賢弘の数学力が一望できるだけでなく、かれの数理科学哲学、賢弘からみた師匠関孝和の数学とその思考法、さらには兄建部賢明の数学とその思考法など様々なことが読みとれて、17世紀末から18世紀初頭の近世日本数学の研究において重要な位置を占める一冊になっています。

いうまでもなく『不休建部先生綴術』には建部賢弘による序文が付いていますが、奥書の年紀は「享保七年歳次壬寅徐月上弦日武陽江城陋士不休誌」となっています。年紀の享保七年は西暦1722年にあたります。建部はこの年の孟春(陰暦1)に『綴術算経』を著していますが、『不休建部先生綴術』の成立月は徐月となっています。徐月は月の名称として存在しないのですが、除月のこと言っているのであれば12月になり、如月であれば2月になります。いずれにしても『不休建部先生綴術』は『綴術算経』より後にできた写本と言うことができますが、写本の成立が享保7年であることは動かないと思われます。そして、「武陽江城」は江戸城下のこと。「陋士」は卑しき士の意味になりますが、これは建部賢弘が8代将軍徳川吉宗に献上に及んだ『綴術算経』でも使っている言葉ですから、主人である将軍への謙遜の意味で用いられたものと考えられます。

さて、『不休建部先生綴術』を読んでいきますと、「探算脱法 第九」の解説において建部賢弘は中根元圭に「黄赤道立成」を授けたと言う記事に出会います。当該の原文を引いてみましょう(史料1参照)

 

 右算脱ノ法ハ兄賢明カ探会スル所也。---賢明没シテ後、吾、彼成シ得タルヲ(オモフ)テ、始テ実ニ肯スルコトヲ得タル。旬日ナラスシテ黄赤道立成ヲ造リテ中根丈右衛門ニ授ク。于時五十有七歳也。亦往歳吾少ク壮ナリシ時、宣明暦天正ノ気朔轉交ノ分数ヲ以テ、積年ヲ求ル数ヲ造シ畢テ---

 

上記の原文が言うところを簡単に紹介しておきましょう。まず、算脱の法とはいわゆる継子立て問題ですが、「探算脱法 第九」で取り上げた解法は建部賢弘の兄の賢明が探会したものだといいます。賢明は正徳6(1716)221日に没しています(因みにこの年の7月に改元されて享保となります)が、賢明の没後その方法を再考して解し得る所があって、旬日(10日の意味でしょうか)にならずして、黄道と赤道の位置計算に必要な立成表「黄赤道立成」を作成し、それを中根元圭に授けたと明言するのです。この時、建部賢弘は57歳であったとも述べていますから、この年令を信じれば中根に立成表を授けた年が享保5(1720)年であったことになります。当の中根元圭は59歳であったことになりましょう。もっとも「黄赤道立成」という暦学研究上の重要なデータを授けるというのですから、両者の間は親密な関係になっていたと見なせますから、かれらの出会いは享保5年以前にあったといえることになりましょう。それはお互いの暦算学の力量を認めてのことであったことは間違いありません。この『不休建部先生綴術』に見える「黄赤道立成」授与に関する発言が建部の側からの伝わる中根元圭に関する最初のものとなります。勿論、現在のところではということであって、新史料が出現することが期待されるところです。また、建部が「往歳吾少ク壮ナリシ時、宣明暦」云々とする件は、天和3(1683)年、賢弘が20歳の時に出版した『研幾算法』第49問の暦術の問題を指しているのでしょう。宣明暦を用いて積年を求める云々と言っていますから、この問題は自分で解いたと主張しているのでしょう。関先生の指導があってのこととは思いますが、若き日の建部賢弘の実力が窺い知れる一コマです。

一方、中根元圭の側からはどのように描かれているのでしょう。中根元圭の師であった田中由真は享保41021日、69歳で没しています。また、暦学の師であった渋川春海も正徳5(1715)年に77歳で没していますから、元圭が関孝和の高弟である建部賢弘と交流をもつことに異を唱えるような暦算学系統上の障壁はなくなっていたといえます。もっとも渋川春海とは早い時期に疎遠になっていたようですが。

さて、宝暦6(1756)年に中根元圭の暦学遺稿を『三正俗解』として板行した際に、中根一族に深く係わっていた源元寛と名乗る人物が跋文を寄せました。この跋文において、源元寛は中根元圭の足跡と一族の事跡を紹介するとともに、元圭が8代将軍徳川吉宗に拝謁したときの様子を次の様に記しています。「享保辛丑、明府召、見、応対、称旨」と。年号の「享保辛丑」は享保61721)年にあたります。すなわち、この年中根元圭は、将軍徳川吉宗に召し出され、将軍に謁見の上、暦学の下問を受けたのでした。元圭は下問の全てに応対して御意に適った、というのです。これが中根一門に伝わる将軍吉宗との出会いの証言になりますが、残念ながら建部賢弘との交流については発言(記録)が誌されていません。というより史料が見つかっていないと言った方がよいでしょう。弟子の大島喜侍などは享保12年の出府のことを記録しているほどです。しかし、江戸時代の最高の権力者である将軍に謁見するというのですから、中根元圭に暦算学の相当の実力が備わっていなければ叶わなかったことでしょうし、また、実力があっても強力な推薦者がいなければ不可能であったと考えられます。その推薦人が建部賢弘であったことは間違いないところでしょう。しかし、中根元圭からの史料でも建部賢弘との出会いが何時であったかははっきり分かりません。実は、このことが近代の歴史研究のなかで若干の混乱をもたらすことになったのも事実です。いずれにしても、中根元圭にとって将軍拝謁の栄誉はどれほどのものであったでしょう。察して余りがあるところでしょう。

享保6年以後、中根元圭は将軍吉宗の暦学の下問を受ける立場に就いたことになりますが、どのようにして下問に応えていたのでしょうか。まず、江戸幕府の正史である『徳川実紀』あるいは江戸幕府の日記などを調べていくと、享保11(1726)年、中国から舶載された梅文鼎遺著『暦算全書』(雍正2年版)の訓点和訳の下命があったことが分かります。翻訳作業の詳細は章を改めて紹介することにしますが、はじめは建部賢弘に下命が下ったようですが、建部は中国古代の漢学に造詣が深く、暦学に精通する中根元圭を訳者として推薦したようです。この作業は享保13年の末頃には一応終了していたと元圭は言っています。そして、その前年の享保12年に、江戸幕府は中根元圭に対して「月俸十口」の俸給を与えていました。この俸給は元圭のそれまでの忠勤と併せて、『暦算全書』の訓点作業が公的な事業としての意味を持っていたことの表れといえます。これで小禄ながらも中根元圭も幕府から扶持米を頂く身分となりました。ただし、これは一代限りのお抱えですから、元圭が亡くなれば俸給は幕府へ返納することになりました。『江戸幕府日記』の享保12424日の条に中根元圭へ「月俸十口」拝領を伝える記事が残されています。記事を見ておきましょう。

 

享保十二年四月廿二日

右者(注:中根元圭のこと)兼て天文算術之儀能仕候付、此度十人扶持被下之候、弥以、此以後建部賢弘エ承合、執行可仕候、弟子をも取立可申候、御当地エも折々被出、彦次郎エ猶文承心懸可申候、尤銀座勘定役離候儀ニテハ無之、只今迄之通可参勤候。右之趣、京都町奉行方ニテ申渡候様ニて、今日之次飛脚に牧野佐渡守迄申遣之、尤御勘定奉行エも書付渡之。

 

日記の冒頭、中根元圭が天文算術をもってよく仕えていることを伝えています。その上で、この度「十人扶持」を与えることになったが、これからも建部賢弘と相談して、職務を遂行するようにしなさい。また、弟子を取り立ててもよい、といっています。この弟子云々という意味は、江戸において天文・暦学・算術の弟子をもち指導に及んでよいという許可を意味していると思われます。いわば幕府公認の暦算学教授となりましょうか。そして興味深いのは「御当地エも折々被出」云々以下の文章です。まず、当地へも折々出られといっています。そして、彦次郎すなわち建部賢弘からの文をもって承け心がけよといい、「銀座勘定役離候儀ニテハ無之」と伝えています。中根元圭は正徳元(1711)年に京都銀座の銀官に就任していますが、文意はその銀座役人として職務を離れなくてもよいという意味になります。これに続けて「只今迄之通可参勤候」とありますから、京都から江戸に「参勤」して勤務せよ、ということになります。恐らく、吉宗の下問が頻繁であったこと、また建部賢弘との交信が密であったこと、さらには自身の年令のことなどの理由をもって、江戸住まいを申し出たのに対して、今までの通りの参勤に及べ、という返事になったものと思われます。このことは京都町奉行にも伝えておくというのですから、ずいぶんと念の入った対応といえるかも知れません。裏返せば、元圭の銀座勘定役としての職責が果たせない状態が起きていたのかも知れません。しかし、考えてみて下さい。享保12年と言えば、建部賢弘は64歳、中根元圭は66歳です。その老体をもって江戸参勤をせよというのですから、幕府もずいぶん無茶を言うものですね。でも、これが権力なのでしょう。

 

上記で紹介した『江戸幕府日記』はこれまで誰も調査したことない史料でした。日記の記録は僅かですが、これから中根元圭と吉宗の距離、あるいは建部賢弘との関係、さらには元圭の幕府勤仕のようすが知られたことは大きな収穫であったと言わなければなりません。

 

史料1 『不休建部先生綴術』の「探算脱法 第九」

(東北大学附属図書館蔵林集書364)

 

( 以下、次号 )