和算入門(21)


これまで関孝和先生の数学的業績を中心に紹介してきましたが、今回は先生の弟子について触れてみたいと思います。とは申しましても、わからないことが沢山あることもまた事実ですが。

 

関先生の門人としてもっと傑出した数学者は建部賢弘でしょう。賢弘は建部三兄弟の末っ子として寛文4(1664)年に江戸に生まれました。長兄は賢之、次兄を賢明といいますが、彼ら兄たちも関先生のもとで勉強していました。こうした建部家兄弟のことは、賢明が正徳5(1715)年に書き記した伝記『六角佐々木山内流建部氏伝記』(日本学士院蔵)に幕臣としての勤務や数学研究の様子が描かれています。この伝記を参考にしながら彼らの活動を見てみることにしましょう。ただし、賢弘の生涯と業績は章を改めて触れることにします。

 

伝記を読むと、まず、建部家の先祖に建部伝内という能書家がいたことがわかります。伝内の筆跡は、豊臣秀吉の時代に大変な評判を取っていたようで、それは本阿弥光悦と比べて勝るとも劣らないと豊臣秀次が評したという逸話が関孝和の話として伝えられています。こうした物語に関先生が絡んでいるところに興味が沸きますが、そのことは兎も角、以来建部家は徳川将軍家の右筆として働くようになったようです。しかし、三兄弟とも筆はあまり上手くなかったようで、結局、江戸幕府の勤番士として公務に就きました。賢弘の場合は一度養子に出ますので事情はちょっと異なることになりますが。

まず、先の伝記から長兄建部賢之のことを見てみましょう。

 

(賢之ハ)直恒カ嫡子、母ハ大番士春田長兵衛カ女也。承応三甲午(注:1654)年六月廿七日ニ生ス。始ハ父カ小名ヲ採テ三四郎ト号シ、後ニ、従祖々父カ名ヲ犯シテ兵庫ト改ム。旧諱ヲ賢基、又、賢之ト称シ、後ニ賢雄ト改ム。父祖ヨリノ業ナレハ稚ヨリ書ヲ学フトイヘ共、不堪ナルカ故、上ニ白メ筆翰ノ役ヲ免許セラレ、延宝六(1678)年三月廿九日勤番ノ士小十人組トナル。

 

伝記の筆者賢明は、あからさまに「父祖ヨリノ業ナレハ稚ヨリ書ヲ学フトイヘ共、不堪ナルカ故」と兄賢之の筆の拙さを指摘するのですが、こうした歯に衣着せぬ物言いは大変面白いですえ。結局、賢之は右筆になることを諦めて小十人組の番士になったのでした。でも、小十人組の番士として弓術と馬術の向上に努めたようで、天和2(1682)年には「御前的上覧アリ。此時射芸ヲ施シ一手ニ中一矢シテ、其賞トシテ黄金一枚」とする成果を挙げたといっています。筆者には弓術のことはわかりませんが、褒美として黄金一枚を頂いたことは随分な栄誉に感じられたことでしょう。また、「若年ヨリ弓馬ノ芸ヲ励ミ、壮年ノ後、遂ニ両技ノ奥儀ヲ極ム。且、弓箭ノ細工漆膠ノ製、其妙巧却テ弓人矢工ノ業ニ超タリ」とも書かれています。弓術は射撃だけでなく、弓矢の装飾にも意匠を凝らして名人の域にあったように窺えます。馬術については「馭馬ノ術ハ幼ヨリ芝崎十郎右衛門正勝始名正之ニ学ンテ研究」したが、居並ぶ同門のなかにあって賢之は一人「深ク事理共ニ通暁シ、一流ノ秘スル所口訣心授ノ妙師伝自得」したと触れられています。なかなかの武人のように見えてきます。そのような幕臣建部賢之は、元禄15(1702)818日、建部家の跡目を継ぎ、宝永2(1705)年には富士見御宝蔵番頭に就任、享保8(1723)827日、70歳で没します。

 

では、関孝和の門人としての数学研究はどうだったのでしょう。実は、建部賢之の数学のことはあまり多く伝わっていません。一番目を惹くことは、貞享2(1685)11月に建部賢弘が『発微算法演段諺解』を刊行した際、弟の賢明と一緒に跋文を寄せたことでしょう。そこでは関先生の『発微算法』に対する他流派の批判に反駁するとともに「又ハ同門ノ末弟、演段ノ片端ヲ聞得テ、邪説ヲ以テ愚蒙ヲ誑ス者アリ、…予等孝和先生ノ門ニ遊ンテ、既ニ奥旨ヲ得タリ」と触れていることに関心が及びます。「同門の末弟」は関門の学徒を指しているように思えますが、そうだとすれば関先生の傍書法と演段術を十分に理解できていないにも係わらず物知り顔で「邪説」を説く同門人がいたことになります。これを他流派からの『発微算法』批判が巻き起こした門派内の動揺と見ることは言い過ぎでしょうか。そうした批判の一方で、「既ニ奥旨ヲ得タリ」と誇示しています。おそらくこれは関先生直下の弟子としての自負心の表れといえましょう。

建部賢之の数学力と当時の数学状況を直接的の窺うことのできる数学写本が一冊伝わっています。『算法格式』(東北大学附属図書館蔵)がそれです。写本の冒頭はつぎのようにあります。

 

算法格式

是、建部賢之の集する所なり。原は等式を載す。いまはこれを略す。且つ始めに発微算載す所、第一、二、五、六、八、九、十、十一問の答術並に等式あり。いま皆これを略す。

 

この識語から『算法格式』は建部賢之が様々な算書の問題を集め、解いたノートであることがはっきりわかります。原本は等式を載せる、といっていますので、『算法格式』の元になる解義集があったのでしょう。その原本も賢之の著作と思われます。さらに原本には『発微算法』の第1256891011問の答術と等式を載せてあるが、ここではこれらを略すともいっています。先に紹介した『発微算法演段諺解』の跋文には、賢之らは関先生の数学の「奥旨」を得たと強調していましたから、このように『発微算法』の答術があると述べることはその証左となりましょう。但し、ちょっと手の込む第3問や面倒な計算をしなければならない第14問のことは触れていません。関先生は第14問こそ数学の蘊奥だといっていましたが、賢之にはどう映っていたのでしょう。また、第7問について言及していないことは、これの術文に疑問を抱いていたことからかも知れません。さらに、興味を惹くことは「明解第二」「童介五十」「参両三」さらには「算法至源記答術之内」、「明解算法問之内」などと書かれることです。いわゆる問題の出典の明記になりますが、これが冒頭にある「建部賢之の集する所」の意味になるのでしょう。『明解算法』は田中由真の著作と考えられますが、これは、いってみれば関門派にとって宿敵のような相手の研究にも深い注意を払っていたことをしめしていることになります。

 

そうした出典に紛れて「良弼、又云数三之因高四個下方也」とする書き込みがあることです。良弼は間違いなく松永良弼(1692~1744)のことです。この文章が賢之の手になるものであるとすれば、賢之は生前に松永と交流していたことになり、和算史としての面白い一断面になります。さらに「術載大成、故略」とする書き込みもあります。「大成」が『算法大成』か『大成算経』のどちらを指しているのか明確ではありませんが、どちらの場合であっても、和算前記の金字塔と呼ぶべき大著に言及する初期のノートとして注目してよいことになりましょう。

          ( 以下、次号 )

 

( 下の写真 ) 『算法格式』(東北大学図書館岡本文庫蔵) 

写本中央に「術載大成故略」の記入が見える。