和算入門(22)


前稿(21)では建部賢之を中心に紹介しましたが、今回は建部賢明を取り上げることにします。

 

賢明の数学者としての顔は、兄の賢之のところで書きましたように、貞享2(1685)11月に建部賢弘が『発微算法演段諺解』を刊行した際、連名で跋文を寄せたことに見えています。そして何よりも近世日本数学史の金字塔ともいうべき『大成算経』20巻の編集を為し遂げたことにあるといえると思います。そのことは後に触れるとして、まず、賢明の生涯を振り返っておきましょう。

 

『六角佐々木山内流建部氏伝記』の「建部隼之助賢明伝」に賢明の経歴はつぎのように書かれています。

 

 是ハ直恒次子賢雄同母ノ弟也。万治四年正月廿六日生ス。幼ヨリ多病ニシテ身体心ノ如クナラストイヘ共、父カ訓ヲ守テ書ヲ学ヒ、延宝五年十月五日、同氏賢隆カ養嗣トナル。是ニ因テ父祖ノ名ヲ下サン事ヲ恐レテ、太タ功ヲ積ンテ手迹ヲ学フトイヘトモ、天性其機鈍劣ニシテ、竟ニ以テ筆法ヲ得ル事ナシ。元禄元年十二月十日養父カ家禄ヲ賜ル。其後、彦坂壱岐守源重紹御留居年寄ニ拠テ筆職ヲ免レ、同六年五月十九日勤番御納戸ノ士トナル。

 

上記の引用文に若干の解説を与えておきましょう。まず冒頭の直恒とは父のことで、賢雄は長兄の建部賢之になります。万治4(1661)正月26日生まれとありますが、この年の55日に改元されて寛文から万治に年号が変わります。そんなことは出生したばかりの本人にはわからないことですから、伝記では万治の年号を使っているのですね。本人がいっていることですから間違いないと思うのですが、幼少のころより病弱であったようです。父の教えを守って手跡の練習を一生懸命行ったのでしょうが、どうもだめだったようです。「竟ニ以テ筆法ヲ得ル事ナシ」と吐露していますが、兄の賢之と同様に進路の変更を迫られることになったのでしょう。それが上文の最後に表れる一行になるのでしょう。「彦坂壱岐守源重紹御留居年寄ニ拠テ筆職ヲ免レ」るですね。それでどうしたかといえば「御納戸ノ士」に就任するのですが、この職務を一言でいえば、江戸幕府の財産管理役になります。国立公文書館内閣文庫に残る史料によれば賢明は「払方納戸」とありますので、出納役のような職務だったことになります。また、江戸時代の常として、次男三男は家督の相続ができません。したがって他家へ養子に出ることが当たり前でした。ですから賢明も延宝5(1677)105日に同族の建部賢隆家の養嗣になり、元禄元年(1688)に養家の家督を相続しています。28歳のときのことです。

 

建部賢明が関孝和の数学塾の門を叩いたのは、延宝4(1676)でした。それは弟の建部賢弘と同時であったと思われます。やはり伝記では関新助孝和、甲府相公綱重卿ノ家臣カ算数世ニ傑出セリト聞テ」、入門したと書いています。再三いいますように、延宝2年に関先生は『発微算法』を出版して、一躍時の人になっていましたから、その評判が「算数世ニ傑出」となって流布していたのでしょう。入門時、賢明は16歳、賢弘は13歳であったのでしょう。そのころ筆法の勉強も熱心に行っていたのでしょうが、どこかで限界を感じていたのかも知れません。そのことが新しい進路として数学の道を選択させたように思えます。それは兎も角、関数学塾入門後は、昼夜寝食を忘れて、数学のみならず暦法や天文も勉強し、「術理貫通ノ道ヲ深ク発明」した、と伝記では述べています。数理科学の真理の探究にあって何か会得するものがあったのでしょう。自信に満ちた書き様です。これは、『大成算経』のことを指しての言い回しと見ることもできます。そして、賢明の伝記には、近世日本数学史上極めて興味深い文章が続いて表れることになります。ちょっと長いのですが厭わず引用してみましょう。

 

凡、倭漢ノ数学其書最モ多シトイヘトモ、未タ釈鎖ノ奥妙ヲ尽サザル事ヲ歎キ、三士相議シテ天和三年ノ夏ヨリ賢弘其首領ト成テ、各新ニ考ヘ得ル所ノ妙旨悉ク著シ、就テ古今ノ遺法ヲ尽シテ、元禄ノ中年ニ至テ編集ス。総十二巻算法大成ト号シテ粗是ヲ書写セシニ、事務ノ繁キ吏ト成サレ、自ヲ其微ヲ窮ル事ヲ得ス。孝和モ又老年ノ上、爾歳病患ニ逼ラレテ考検熟思スル事能ハス。是ニ於テ同十四年ノ冬ヨリ賢明官吏ノ暇ニ躬テ、其思ヲ精スル事一十年、広ク考ヘ詳ニ註シテ二十巻ト作シ、更ニ大成算経ト号テ手親ラ草書シ畢レリ此書天和ノ季ニ創テ、宝永ノ末ニ終ル。毎一篇校訂スル事数十度也。此功ヲ積ムニ因テ総テ廿八年ノ星霜ノ経畢ンヌ。然レ共、元来、隠逸独楽ノ機アル故、吾身ノ世ニ鳴ル事ヲ好マス、名ヲ包ミ徳ヲ隠スヲ以テ本意トスル者ナレハ、吾功悉ク賢弘ニ譲テ自ラ廃人ト称ス

 

冒頭の「釈鎖」という用語は『算学啓蒙』の「開方釈鎖門」に初めて登場しますが、もつれた鎖をほどくという程の意味になるのでしょうか。『算学啓蒙』のこの章で初めて「天元一」が説明されます。説明といっても術文でそのように表記するだけですから、見ただけでは内容はわかりません。この算術書の第8問から2次方程式、3次方程式、4次方程式、5次方程式の問題が扱われていきます。勿論、開平方、開立法、開三乗方の問題も出ています。ですから、賢明の云わんとする「釈鎖ノ奥妙ヲ尽サザル事ヲ歎キ」は、天元術による難問の解決が完全ではないことを嘆いている、といえることになります。そこで関孝和、建部賢明・賢弘の「三士」が協議して、天和3(1683)の夏から、賢弘を中心に各自「新考」の問題を集め、元禄の中年(1695年頃?)に『算法大成』12巻として一応の完成をみた、といえます。ただ、三者とも公務が繁忙であったから、「其微ヲ窮ル事」ができなかった。また、先生の「孝和モ又老年ノ上、爾歳病患ニ逼ラレテ考検熟思スル事能ハス」状態であった、と指摘しています。関先生が「老年」というのですから、人生の後半あるいは晩年を指していることになりますね。加えて、「病患ニ逼ラレテ」といいますから、年令から来るのでしょうか病気がちで、深く考えることができない状況にあったことになります。建部賢明がどこまで真実を語っているかはわかりませんが、関先生の生涯を考える上で興味深い一文といえるでしょう。

 

そして、元禄14(1701)の冬から、賢明が公務の暇を見て、思索、推敲、加注を重ねること10年、ついに『大成算経』20巻として完成したが、この事業は天和に始まり「宝永ノ末ニ」終わった。その作業は「毎一篇校訂スル事数十度也」、「総テ廿八年ノ星霜」を費やした、といっています。実に、新規開拓事業の困難さと編集の難しさが伝わる一語といえるのではないでしょうか。

では、その功績は誰に帰属するのか。賢明は、「吾身ノ世ニ鳴ル事ヲ好」む性質ではないから、全てを弟の賢弘に譲り、自らは「廃人と称ス」と記して、筆を閉じています。先ほども触れましたが、手柄の問題は歴史の研究ではしばしば微妙な問題を含んでいることが多いのです。本当に賢弘にこの功績を帰属させたのでしょうか。それは賢明の本意だったのでしょうか。ただ、いえることは功績問題では関先生のことは何も触れていないことです。賢明の伝記では、先生の年令のこと、病気などのことが触れられるだけで、あまりよい印象を与えていません。ひょっとすると、編纂事業の過程で編集方針や数学アイデアをめぐって意見の対立があったのかも知れません。あるいは関先生は編集にあまり関心がなく稿本を提出しただけで、編集には関与しなかった可能性もあります。いろいろな臆測が可能です。

 

小松彦三郎先生は、近年、『大成算経』の網羅的調査をなされて、全国の図書館などに20点ほどが現存していることを確認されています。これまでは、あまり流布していないと考えられていたのですが、どうも様子が違って、後世の研究者が結構勉強していた可能性が見えてきました。私が調べた事例では、幕府天文方の高橋至時が『大成算経』のスパイラル問題を航海術に援用していたことがわかっています。また、現在、関孝和数学研究所の森本光生先生や小川束先生等がこれの数学的研究を本格的に行っています。中国でも『大成算経』は大いに関心を持たれていて、上海東華大学の徐澤林先生と弟子による研究が進められています。『大成算経』への関心度と国際化(?) がわかる動向といえましょう。

 

        以下、次号