和算入門(23)


 

 ここまで関孝和先生の弟子の建部賢之と賢明について紹介してきましたが、建部賢弘のことは後日に譲るとして、そのほかの弟子について簡介します。と申しましてもわからないことが多いのですが。

 

 関先生が延宝2(1674) に『発微算法』を出版したとき、既に先生の門人になっていた人たちがいました。三瀧郡智と三俣久長です。かれらは『発微算法』の校正者として跋文で「僕等先生の門に学びて、研窮既に年あり。ほぼその蘊奥を得る」と語っていますので、早くから弟子になり、そこそこの数学力を身につけていたようです。しかし、彼らの経歴はまったくといっていいほどわかりません。ただし、三瀧は弟子をとって教育していたことが近年わかりました。群馬県太田市只上の旧家として知られる板橋家に『関流算系図』と題する巻物が遺されています。これを開くと、

 

関新助孝和 ――― 三瀧四郎左衛門郡智 ――― 小泉次郎兵衛

――― 板橋定四郎喜之 ( 以下略 )

 

とする系統が書かれています。三瀧の通称を四郎左衛門としていますが、『発微算法』では四郎右衛門となっていますから、こちらのほうが正しいのでしょう。また、小泉には「本多伯耆守殿仕」とする添え書きがあります。また、板橋喜之に続く数学者も出てきますが、繁雑になることから紹介は省略しました。この系図の出所も不明ですが、詳論は避けますが江戸の長谷川派から伝播したのではと思えます。いずれにしても三瀧郡智という数学者が実在して活動していたことを示す貴重な史料といえるでしょう。繰り返しになりますが、数学研究の様子は皆目わかりません。

 

 建部兄弟とともによく知られた門人に荒木彦四郎村英 (1640 ~ 1718 ) がいます。荒木の入門時期も不明ですが、江戸ではちょっと名前の知られた数学者だったようです。貞享4(1687) に刊行された江戸の案内書『江戸鹿子』の巻六は「諸師諸芸」の紹介ですが、これの「算者指南」の項では、

 

  日本橋南一丁目 礒村重良()左衛門

  南鍋町     荒木彦四良()

  本材木町    川崎新右衛門

  石丁一丁目横  松田茂太

 

として荒木の名前が挙がっています。南鍋町はいまの東京都中央区西銀座あたりになりますが、この地に算学教授の看板を掲げていたのでしょうか。荒木を関孝和の後継者として決定付けたことはつぎ二つの事柄に由来するといえるでしょう。ひとつは正徳2(1712)年に関先生の遺著をまとめて『括要算法』を出版したことでした。もうひとつは、関流が発給する免許状で流派の始祖である関先生に次いで荒木の名前が書かれたことです。関流の免許状は山路主住の頃に整理されたと推測されていますが、そこにおいて荒木は初伝と位置付けられ、関孝和の後継者として崇められたのです。

 

 では、荒木村英の数学力はどの程度だったのでしょうか。関先生の遺稿を『括要算法』として発刊したのですから、それなりに備わっていたと思えますが、実のところは「未知数」です。ただ、荒木の力を想像させるいくつか逸話が残っています。伊予新谷の小吏沼田敬忠が享保5 (1720) 6月幾望日に書いた『小学九数名義諺解』と題するノートがあります。これは『九章算術』の題辞に倣ってその要点を解説するものですが、「附勾股術」の説明で荒木のことを次のように描いています。

 

 (前略)近世関氏孝和、自由亭ト号シ、新助ト称スルアリテ、始メテ此演段ノ術ヲ建立セリ。誠ニ奇ナル、妙ナルヤ。其ノ述作セル發微算法演段諺解印行セルニアリテ、世ニ演段ノ術ヲホボ知ルモノヤヤアリト云ヘトモ、其ノ門ニ入テコレヲ学バザレハ、其ノ全ヲ得ルコトアタワズナリ。予(注:沼田のこと)、幸ニ其ノ門人荒木彦四郎村英ニ聞クコトヲ得テ、其ノ術ヲ尽クセリ。演段ニハ解伏題演段全集、演段大成等ノ書アリ。コレヲ以テ口授ヲ加ヘザレバ会得ナリガタシ(後略)

 

沼田がいっていることを要約すれば、「関孝和が考案した演段術は大変難しく、『發微算法演段諺解』が印行されて少しは知られるようになったが、先生の指導を受けなければ理解することは叶わない。幸い自分は荒木村英にこれを聞くことができて演段術を修得することができた。演段術の教本に『解伏題演段全集』『演段大成』などがあるが、これに口授を加えればしっかりと会得することができる」となりましょう。荒木と沼田が師弟関係にあったかどうかは明瞭ではありませんが、それは兎も角、沼田が荒木の指導を受けたことは確かです。そして、演段術の教本が荒木の著作であるかどうかも明確ではありませんが『解伏題演段全集』『演段大成』と題する解説書があったことは確実なのでしょう。こうした沼田の記述に寄り添えば荒木の数学力は侮れないことになります。

 

 また、『解伏題之法』に関してはつぎのような話も伝わっています。日本学士院に『交式解』という稿本が保管されています。関先生の『解伏題之法』の「換五式」に誤りがあることは早くから知られていました。そのことを最初に指摘したのは松永良弼(1692~1744)が正徳5(1715)年に著した『解伏題交式斜乗之諺解』であるといわれています。そのような指摘を聴き得て八田久林、山口和篤らの研究が書き記されたものが『交式解』です。これを繙いていくとつぎのようは記述に出会います。

 

 八田先生云。享保三年春、江府荒木氏亭ニ於テ、寺内小傳云、解伏題換五式ノ交式相違アリト、荒木先生ニコレヲ聞ク。余、亦、考ルニ相違アリト。

 

上記文中の余とは山口和篤のことです。八田先生は八田久林、荒木は荒木村英、寺内小傳は松永良弼のことです。松永は若き日に荒木に師事していました。また、文面から八田先生も荒木の居宅に出入りしていたことがわかります。荒木の居宅は先に紹介した南鍋町のそれでしょうか。その八田先生は、享保3(1718) 年の春、荒木先生の自宅において、荒木先生から「松永良弼が『解伏題之法』の「換五式」に間違いがある」と語っていることを聞いたというのです。『交式解』は「換五式」の間違いを検証するためのノートになっているのです。

 

先の取り上げた『小学九数名義諺解』は享保5年の年紀をもっていました。荒木村英は享保3年に没したと伝わりますから、沼田の文章はそれ以前の荒木の姿を伝えていることになります。八田氏が荒木の話を聞いたのは享保3年ですから、荒木没前のことになりましょう。すると荒木は松永に指摘されるまで『解伏題之法』の間違いに気付かなかったのでしょうか。でも、沼田は荒木の教授によって演段の全てを修得したといい、教本として『解伏題演段全集』『演段大成』があると公言していました。この二冊は沼田の文脈からは荒木の著作のように見えます。するとこれらも、特に『解伏題之法』に関しては間違いに気づかないまま著述に及んでいたのでしょうか。大変気になるところです。

 

青山利永が享保4年の仲冬に印行した算術書に『中学算法』があります。これは『下学算法』の遺題11問に答術を与えたものですが、編者の青山はこれの劈頭で「武江関氏門人青山氏利永撰」と書いています。青山の素性もよくわかりませんが、同書の巻末「附設十二問」の第10問は青山の自問になりますが、そこでは「武江市ヶ谷本村之住」と自宅の所在地を明らかにしています。江戸の人間なのですね。また、これに跋文を寄せた宮地有鄰は「吾ガ先師関氏自由亭先生アリ」といい、青山のことを「贅ヲ先生ノ高弟荒木氏村英ニ執ル」と述べています。宮地も初めは関先生の門人として学んでいたようですが、関先生没後は荒木村英の下に参じたのでしょう。青山も宮地と同じ道を辿ったようです。こうした門人たちの行動から窺うと荒木にはなにか人を惹きつける魅力があったような気がしてきますが、どうでしょう。

 

享保13 (1728) 年、蜂屋定章は、建部賢弘の円理研究に続けて、『円理発起』を著しました。著者の蜂屋はその序文で「関子ノ高弟久留重孫ノ門下ニ遊テ」と述べています。写本の冒頭でも「久留重孫門人淡山尚絅(注:蜂屋定章)」と表明していますので、蜂屋が久留の門人であったことは揺るがないと思われます。その久留重孫は関先生の高弟であったのです。久留氏の経歴も業績の不明ですが、面白い写本が一冊だけ伝わっています。早稲田大学附属図書館に収蔵される『開方飜変之法』がそれです。これは久留氏の直筆本といえます。その理由は、奥付に「貞享乙丑十一月十九日龔写之矣 久留氏平重孫 印 花押」とあるによります。貞享乙丑は貞享2(1685)。この年に久留氏は関先生のノート『開方飜変之法』を「(つつしんで)コレヲ写」したのでした。久留重孫の署名と朱印および花押は本人のものと判断できます。貞享2年といえば関先生は甲府藩士として勤仕していて、ちょうどは藩領内の検地に忙殺されていた時期と重なります。早稲田大学が所蔵する『開方飜変之法』は、そうした時期、すなわち、関先生が存命中に直弟子によって写された写本ということができて、史料としての重要な位置付けをすることが可能となります。この史料は小倉金之助先生によって注目されましたが、その後は図書館に埋没してしまった要です。つい最近この写本の存在に気付き調査が再開されるようになりました。史料は根気よく探すこと、と教えてくれているような気がします。

 

 余談ですが、世間に沢山の算家系図が出回っていますが、なかには『古今算法記』の著者沢口一之を関先生の弟子と描く系図があります。先の板橋家に伝わるもう一つの巻物『日本算術系図』もそれに属します。関先生は『古今算法記』の好み15問を解いて『発微算法』にしました。先生が弟子の好みを解いて、その解答を公刊するでしょうか。先生と弟子が研究で切磋琢磨することはあっても、好みの出題と解答という演出はあり得ないでしょうね。

 

            ( 以下、次号 )