和算入門(24)


 関孝和先生の弟子の中でもっとも傑出した人物といえば建部賢弘(1664-1739) を挙げることができるでしょう。賢弘は旗本建部直恒の三男として寛文4年に江戸で生まれ、元文4年、76歳でなくなりました。法名は安山道全居士です。初めは家の通用として源右衛門賢秀を名乗っていたようですが、秀の字がおそらく二代将軍徳川秀忠に通じることからと思われますが、後に賢弘と改めています。元禄3(1690)、徳川綱豊の陪臣北條源五右衛門の養子になり、この時に源之進を名乗ったようですが、元禄16(1703)、北条家との養子縁組みを解消するにおよぶと、建部姓にもどり彦次郎と名乗るようになったと『建部彦次郎賢弘傳』は伝えています。

 建部の旗本としてのキャリアで特筆すべきは、6代将軍徳川家宣、7代将軍家継、8代将軍吉宗の3人の徳川将軍に仕えたことでしょう。古代中国では臣下として2人の皇帝に仕えることを「二臣」と呼び嫌われました。そのような考えに従えば、賢弘は「三臣」ということになりますから大変なことになります。しかしこの事実は、賢弘の勤勉にして誠実な人柄だけでなく、卓抜した能力を買われての勤仕であったわけですから、この一事をもってしても彼のすごさが窺い知れるところです。

 

 最初に、幕臣としての建部賢弘の経歴を紹介しておきます。先にもすこし触れましたが、陪臣としての建部の誕生は、元禄5(1692)1222日のことで、この日、召し出されて「桜田営ニ勤仕」することになりました。桜田営とは桜田殿こと徳川綱豊邸を指します。当時、綱豊は甲府藩35万石の宰相として徳川政権を支えていました。綱豊は後に6代将軍家宣に就任します。そして、綱豊へ勤仕したことで関先生とは同僚という関係になりました。では、甲府藩に召し出された建部はどんな役務に就いていたのでしょうか。この時、建部は30歳ほどになりますが、この時代の慣例として、勤務の初めは大概のものが主君の警護役となる小十人組に配属されましたので、賢弘もその任にあったと想像されます。数学とは無縁の仕事です。加齢と経験の積み重ねのなかで、小十人組から転出していくのですが、『諸家系譜』の建部家系譜によれば、元禄161022日に桜田殿御小納戸役になり、1005人扶持を賜ったとあります。御小納戸役は主家の金銀・衣服・調度品の出納・管理や身の回りの世話役といえますので、賢弘は綱豊や藩の高官から信頼を得ていたことになります。そのことは綱豊が将軍になっても同役を勤めたことからも窺えましょう。100俵は本給ですが、5人扶持は役料なのでしょうか。1人扶持は、11日米5合の支給といわれますので、1360日にすると米18斗になります。5人扶持ですからその5倍ですね。ちなみに1俵は4斗です。

 

 宝永元年(1704) 125日、徳川綱豊が5代将軍綱吉の嗣子として江戸城西の丸に入城すると、甲府藩の家臣団も将軍直属の家臣になりました。賢弘は同年1211日に御広敷添番に配属されたことが江戸幕府の日記である『柳営日次記』に書かれています。宝永4(1707) に大納戸番、同518日に西の丸御納戸、そして宝永6(1709) 110日に綱吉が崩御し、23日に綱豊が6代将軍家宣になると、72日付けで賢弘は御小納戸に就任いたします。家宣の政治を支えた側用人に間部詮房(1666/1667-1720、高崎城主) がいますが、彼の日記『間部日記』には、宝永61215日に賢弘は200俵加増されて300俵になったことが記されています。ただし、それまでの扶持分は返納になりましたが、実禄300俵の俸給を得ることになりました。宝永7(1710)112日、三番町の拝領屋敷の「番人之小屋より少々出火」したため、賢弘は責任を感じて謹慎を申し出ますが「差し控えにおよばず」という寛大な処遇を受けました。それどころか1218日には「御小納戸建部彦次郎願之通、水道橋近所稲荷小路中川進三郎三百廿三坪之上ケ屋敷建家共ニ被下之旨」にも預かりました。112日の「少々の出火」の程度は不明ですが、なにか不都合があって屋敷の拝領を申し出たところ、上記のような通達をもって甘受されたのでした。

 

 正徳2(1712)1014日、徳川家宣が逝去すると、同日老中の命により建部たち側近のものは落髪することになりました。臨終のさいには60余日も側にいて昼夜の看病にあたったともいっています。家宣の遺骸は芝の増上寺に埋葬されましたが、断髪の面々は同寺に籠居して喪に服したと記録されています。籠居は半年近くに及んだと思われます。正徳342日、家宣の三男家継  (1709-1716) が将軍宣下し第7代将軍に就任しますが、建部たちは遺命によってこの幼少の将軍を支えることになりました。しかし、家継もわずか8歳にして夭逝してしまいます。この家継の時代の正徳41026日に賢弘は布衣の官位を授けられています。江戸時代の武家社会では位階が四位の狩衣に対して、お目見え以上の六位相当を布衣(ほい)と呼びましたが、そう誰でもがもらえる官位ではありませんでした。

 

 第8代将軍は紀州藩主徳川吉宗 (1684-1751) が襲封しました。紀州家は徳川御三家の一藩ですから、世継ぎが途絶えたいま紀州藩が将軍職を継承することになにも不思議はないのですが、水戸藩や尾張藩を押さえての登場、家康以来の直系将軍が途絶えての吉宗の登板を考えると、研究者がこれを第2次徳川政権の誕生と呼ぶことも頷けるところです。いかに衝撃が大きかったがわかる呼称だと思います。

さて、建部賢弘は吉宗の将軍職にともなって、享保元年516日、寄合に列することになりました。御小納戸役を解かれて、非役になったのです。そのような賢弘が吉宗に召し出されることになった経緯を語る史料が残されています。宝暦元年(1751)、将軍吉宗が亡くなると、吉宗の側に仕えていた源政武(不詳) は、彼の人柄や事跡、逸話などを伝えるために『仰高録』を著しました。そこにつぎのような逸話が載せられています。

 

 徳庿御壮年の御頃より算法の理御通し被遊、依日月、五星運行之事、年久御考有之。天學者渋川助左衛門弟子に猪飼文次郎と申者へ御尋有之候得ハ、懦にして其理を解し得さるゆへ、御通暁無之。其後、寄合建部彦次郎算術古今の独歩、暦算等の理通轍の事、浦上弥五左衛門吹嘘之。於是弥五左衛門、台命を奉り彦次郎を宅に招き、御尋の條〃述之、彦次郎得たる所の御尋ゆへ、微妙子細に書記し弥五左衛門に属す。弥五左衛門即入御覧候処、数年の御不審一時に御解被遊 (以下略)

 

吉宗は33歳で8代将軍に就任しました。その吉宗は、壮年の頃より算法に通暁し、天文学にも深い関心を抱いていましたが、将軍就任後、幕府天文方渋川助左衛門 (渋川春海のこと) の弟子猪飼文次郎に暦学について下問したところ、その返答が曖昧であったため、よく理解することができなかった。その後、御小納戸役の浦上弥五左衛門が寄合の建部彦次郎は算術にあっては古今独歩の人で、暦学にも通轍していると吉宗に推挙したところ、彦次郎に尋ねるようとの台命が下された。そこで、浦上弥五左衛門は自宅に建部彦次郎を招き、あれこれと質問したところ、彦次郎は台命であるからと断って、質問に対する返答を詳細に書状に認めて浦上に渡した。これによって吉宗の数年に渉る暦算の疑問は氷解した。

 以上が『仰高録』の伝える賢弘と吉宗の出会いの一コマです。両者の仲介役となった浦上弥五左衛門は、紀州藩士でしたが吉宗の将軍職就任に伴って入城し、御小納戸役を拝命した500俵取りの家臣でした。賢弘もそれまでは御小納戸役でしたから、浦上と会話する機会はあったと思われます。そして何らかの機会に、浦上は賢弘が算術や暦算に精通していることを知ったのでしょう。あるいは賢弘の暦算家としての評判をすでに知っていた可能性もあります。いずれにしてもこれを機に賢弘は将軍吉宗に勤仕することになりました。

 

吉宗の最初の命は精密な日本国絵図の作成であったようです。賢弘が残した『日本絵図仕立候一件』と題する写本には享保4 (1719) に台命が下ったと述べています。以来、賢弘は諸国に出掛けて測量をおこなった様ですが、『新訂寛政重修諸家譜』によれば、享保5313日、「仰をうけて武蔵(むさし)国妙見山牟禮(くにめうけんさんむれい)等の地を検す」と記されています。これら以外の場所にも出掛けたと思われますが、詳細はわかりません。享保4年に始まった国絵図の作成は享保8 (1723) に『日本国総図』( 別名『享保日本図』)として一応完成したようです。しかし、賢弘はこの絵図に不満を抱いていたようで、諸国の絵図を単に寄せ集めて修訂するのではなく、方位や距離の測定に加えて経度や緯度の精確な観測をもってあたるべきだと主張しているのがそれを表しています。ですから、その後も地図の精度をあげる努力をしていたようです。

 

地図作成の一件に深入りしましたが、建部の役務のことに戻りましょう。享保6 (1721) 211日、建部賢弘は寄合から二の丸御留守居を拝命いたします。留守居は城主不在の際、城の警固を担当する役職です。二の丸の警固役ですが、これは重要な地位といわなければなりません。享保631日には養子佐助をお目見えさせています。このとき将軍から銀馬代を頂戴していますから、これも凄いことと思えます。享保15515日、二の丸御留守居から本城の御留守居役となります。享保1731日、広敷御用人、享保18211日、病気のため御役御免を申し出ますが、同年124日には隠居料300俵が支給されました。これも破格と扱いといえましょう。元文元年720日、永眠。


余談ですが、3代の将軍に仕えた建部賢弘の姿は、拙著『三人の徳川将軍に仕えた暦算家建部賢弘』( 和算研究所紀要、No.152015 ) に詳しく書かれています。是非、参照してください。                  

 

   ( 以下、次号 )