和算入門(25)


建部賢弘の甲府藩および幕臣としてのキャリアは前回報告いたしました。この回は、数学業績を紹介することにします。まず、数学者としての賢弘を一言で表せば「関孝和を超えた男」とでもいえましょう。関先生が果たせなかった仕事を、簡単であったとはいいませんが、成し遂げたところに偉業があるといえます。

 建部賢弘が関先生の塾に入門したのは延宝4 (1676) のことでした。兄賢明と一緒に関先生の門を叩いたと『建部隼之助賢明伝』に書いています。関先生は延宝2年に『発微算法』を刊行して、数学者として世に知られるようになりました。それから2年後に建部兄弟は入門したのですが、賢明は16歳、賢弘は13歳、関先生は30歳前半の頃であったと思われます。そこから賢弘は切磋琢磨し関門下で頭角を現し、業績を上げていくことになります。

 

天和3(1683)9月、『研幾算法』を単著で上梓しました。これは関先生の『発微算法』が天和元年(1681)に刊行された佐治一平・松田正則の『算法入門』において、

 

發微算法一十五術の内

第六鈎股弦の好み、天元一を立、鈎と為し、一十七乗方にこれを開く。第八鈎股弦の好み、天元一を立、鈎股弦の三和、立方に開き、見商と為し、一十七乗方にこれを開く。第九鈎股弦の好み、天元一を立、圓径と為し、五乗の方にこれを開く。

右三箇正術也 初學者の及ぶべからず、此術分明なること、是可なり。

右十二箇の術誤也。此趣改こと全く数学を励に有らざる。後の勘者欺くべき所、後世に恐るべき一つ。又、初学者の惑ふべき一つ(後略)

 

と強烈な批判に晒されたことへの反論として出版されたものでした。その出版意図を賢弘は序文でつぎのように述べています。

 

研幾算法序

(前略) 近間刊スル所ノ算法入門ニ發微算法ヲ議シテ差誤有リト以為ナリ。(中略)彼ノ書 (筆者注:算法入門のこと)ニ数学乗除往来四十九問ノ答術ヲ載ルヲ視ルニ、或ハ牽強シテ、而シテ正ヲ失、或ハ乖戻シテ、而シテ眞ヲ錯マル多クハ以テ無稽ノ妄術ナリ(後略)

   天和癸亥七月哉生明序   源姓建部氏賢弘

 

賢弘が述べていることを平たくいえば、

 

『発微算法』に載った解法は間違っているといっているけど、あなたたちの『数学乗除往来』遺題49問の解答を点検してみると、とんでもない勘違いや誤りを犯していて、見るに堪えられない代物だ

 

ということになりましょう。賢弘の指摘もなかなか辛辣です。それはそれとして、『数学乗除往来』の遺題49問に正しい解答を与えようとしたのものが『研幾算法』になるわけです。このような出版の経緯に至る背景も面白いのですが、これの凡例に関孝和 (あるいは関孝和門下の?) の数学研究の到達点が開陳されていることも興味深いところです。すこし触れておきましょう。凡例はつぎのようにあります。

 

凡例

○第一問本書ニ圓率、周三百五十五尺径一百一十三尺ヲ用ルト二云フ、故ニ此ノ率ニ合スル術ヲ以テ之ヲ記ス (中略)

○第四十九問、本書ニ宣明、授時、大衍、紀元、統天ノ五暦共之ヲ問フト云、今、題数ヲ出スニ因テ、而シテ宣明暦ノ法ヲ以テ之ヲ術ス、則チ是レ翦管術ナリ、故ニ餘ノ四暦ノ術贅セズ、乃チ授時暦ハ積年ヲ用ヒズ、至元辛巳ヲ以テ元トナシ、上考下算シテ、之ヲ距算ト謂フナリ

○弧法第一問、第四十八問、環矩ノ術第四問、零約術第四問、本書ニ之分ヲ以テ之作ルト云フハ謬也、圓率第十三問、遍約術第十三問、翦管術第四十九問、右師傳ノ秘訣也、別書ニ之ヲ載ス

 

引用した凡例の最初の事項は円周率の近似分数355/113について言及しています。『数学乗除往来』の第1問や第4問はこの値が重要な意味を持ちました。そのため建部は『数学乗除往来』の著者池田正意が採用したこの値をもって術を施すというのです。第4問を例にとってみますと、まず、原著者の池田はつぎのように触れていました。問題は漢文で書かれていますが読み下しにして示しましょう。

 

(筆者注:円の図略)

 今、平円アリ。積周(セキトシュウ)之分(シフン)ヲ以テコレヲ作ル。或イハ径一ニシテ周三一四二、或イハ径七尺ニシテ周二十二尺、或イハ径五十ニシテ周一百五十七尺。師丞子ハ径一百一十三尺ニシテ周三百五十五尺ト云々。此ノ如ク観ル術ヲ問フ。

 

 池田のいうところを敷衍すれば、

 

円の面積とこれの周長を求める計算は近似分数を以て求めることになるが、円周率は円の周長 /円の直径の比で表すことができる。この値は、ある人は3.142 / 1とし、ある人は22 / 7あるいは157 / 50とする。わたしの師の丞子は355 / 113であるという。このような近似分数がどうのようにして得られるのか、またそこから導かれる円の面積と周長に係わる術を問う。

 

となりましょう。この一文で大変惹かれる部分は、著者の池田昌意がわが師を「丞子」と呼んでいることと円周率の近似分数355/113が師によって得られた値であること主張していることです。「丞子」とは誰かが問題になりますが、建部賢弘は「径一而周三一四二」が「隅田氏臆見」であると答えていますので、「丞子」は隅田江雲と見てよいと思われます。余談ですが、隅田江雲には、池田昌意(古郡彦左衛門)、佐藤正興、小堀市郎右衛門などの門人がいました。円周率の近似分数355/113は大変精度のよいものですが、関孝和の研究以前に知られていたことになり、日中数学交流史の再考を促す一文になっている可能性があります。

ところで、建部賢弘は第4問にどのような解答を与えたのでしょうか。建部の解答は漢文で書かれていますので読み下し文にして示しておきます。

 

(問題と図は写真1を参照)

今、圓率アリ、或ハ径一、周三一四二。或ハ周二十二尺、径七尺。或ハ周一百五十七尺、径五十尺。或ハ周三百五十五尺、径一百一十三尺。此ノ諸率ノ如ク求ル術如何ヲ問フ。

 答曰、環矩術ニ依テ径一ノ定周ヲ得テ、零約ノ術ヲ以テ諸率ヲ得ルナリ。零約ニ内外親疎ノ異アリ。外ニシテ疎ナルモノハ周二十二尺、径七尺。内ニシテ疎ナルモノハ周一百五十七尺、径五十尺。外ニシテ親ナルモノハ周三百五十五尺、径一百一十三尺ナリ。径一、周三一四二ハ隅田氏ノ臆見ナリ。蓋シ、不盡ヲ収一シテ、コレヲ作ル。零約ノ術ヲ以テコレヲ得ルモノニアラズ。右ノ諸率ト同ク論ズベカラズ。

 

http://www.i-repository.net/contents/tohoku/wasan/l/k011/03/k011030009l.png?log=true&mid=undefined&d=1472555053137

             

写真1 『研幾算法』第4

 

ちょっと奇妙なことは、建部が「径一周三一四二ハ隅田氏ノ臆見ナリ」といっていることです。池田は「師丞子ハ径一百一十三尺ニシテ周三百五十五尺ト云々」と指摘しているのですが、あえてこれを否定しているように発言をしていることです。真意はわかりませんが、近似分数355/113の先取権問題が絡んでいたのでしょうか。それから、πの近似分数について、

 

π<22 / 7=外疎

  内疎=157 / 50π

π355 / 113=外親

 

と指摘していることも重要でしょう。これは内外親疎の言葉を借りていますが、不等号を用いて表していることと等価になります。もっとも、不等号のアイデアは古代中国数学に出現していましたが、この時代に日本人も自由に(?)使えるようになっていたことを想像させます。

 引用した凡例の第2項は暦術の問題に関する関門下の反応を表しています。この時代数学者だけでなく儒学者たちも暦学に関心を抱いていましたが、凡例の第2項とこれに関わる問題第49問は関先生とその門下生にも暦学に強い関心があったことを窺わせています。まず、『数学乗除往来』の第49問を引いて見ましょう。

 

四十九

 今有如左見行草一行六段、是知積年問術

    乃宣明ト授時ト大衍ト紀元ト統天ト五暦共ニ同断

 天正冬至    大餘五十六  小一千八百三十○

 立春没日    餘五十○  小三万○二百八十五

 天正入交汎日  大餘○四ツ  小七千六百五十○秒二百八十八

 小寒ノ土用   餘廿三   小五千百三十五秒一

 十一月経朔滅日 餘○二ツ  小千三百○二

 経朔大五十六小七百九十九

 入気大雪大十四 小三千二百○四秒五

 同朓三ツ

 入暦進退    進餘十○小千二百三十三秒廿二

 朓二千八百五十八

 合朔餘五十六 小三千六百五十四

 宣明暦 章歳三百○六万八千○五十五(注:一年の長さ)

 授時暦 歳實三百六十五万二千四百二十五分

 大衍暦 歳實一百二十四万一千八百五十分

 紀元暦 周天分二百六十六万○八十五

 統天暦 歳實四億三千八百四十万

     愚作於渾儀北極見

 長崎 三十二度太  津軽三十九度半弱

 薩摩 三十度少   武江 三十六度半強

 五星之内観於大白、大凡二百七十日在於東、二百七十日在於西、四十日不見也

 

以上は池田正意が提出した遺題第49問の原文そのままですが、若干のコメントを附しておけば、文中にいう「渾儀」とは天体観測器具を指しますから、著者の池田は観測器具を造って緯度の観測を行っていた可能があります。また、各地の緯度は池田が計測したものであるかどうかはわかりませんが、これに続く「五星」は水、金、火、木、土の5惑星を意味しています。そのうち「大白」は金星にあたります。

では、建部賢弘はこれにどのような解答を与えたのでしょう。建部の術文から見ると、宣明暦の積年は天正冬至、経朔、入暦進退、入交汎日の四つの条件から求めることができると結論づけたことが分かります。では、その解法ですが、これについて藤井康生氏が詳細に検討されているので、同氏の研究からその骨子を紹介することにします。繁雑になるので暦術の用語についていちいち解説を与えないことをお断りしておきます。

 

 いま、求める宣明暦の積年(暦元から経過した年数)n、天正冬至をa、閏余(=天正冬至-経朔)b、入暦進退+閏余をc、入交汎日+閏余をdとしたとき、nはつぎの連立合同式で求められることになります。すなわち、

 

3068055na (mod504000)       (旬周)    …

3068055nb (mod248057)         (章月)  

3068055×100nc (mod23145819)         (暦周)  

3068055×10000nd (mod2285826512)    (終率)  

 

 以上の4式を満たすnを求めることが問題の主旨になるのですが、建部の術文はつぎの式で与えられています。

 

  n={(a÷45)×1161203480339144104197019b×2846976758354554943454400

  (c÷3)×1628313789026324860107200(d÷16)×1929851125232030242648000}

                                     mod 3062274306521877552862400

 

関先生も暦学に関心を持っていたようですが、この第49問に解答を与えたのは建部賢弘自身であったと思われます。享保2(1722)賢弘が八代将軍徳川吉宗献呈した『綴術算経』を紐解きますと、つぎのような一文に眼が及びます。

 

 (前略)亦吾、(ワカ)カリシ時、(ショ)(フン)(アリ)テ宣明暦天正ノ気朔轉交ノ四件ノ分数ヲ以テ、積年ヲ求ル段数ヲ為シ畢テ(後略)

 

いわば内部告発のような発言ですから、ことの信憑性については慎重な判断が求められますが、文面からは建部が若かりし頃に翦管術を用いて宣明暦の積年問題を解決した、と素直に述懐する姿が滲んでいるように思えます。加えて、建部が『研幾算法』の序文において第49問は翦管術を用いて解く問題であると公言していましたから、この術文は建部のものと考えてよいと思われます。

 そして凡例の最後ですがここには関孝和の到達点の全てが列挙されています。重要なことは「右師傳ノ秘訣也、別書ニ之ヲ載ス」と述べることです。「別書」が関先生の自筆ノート、あるいは建部賢弘もしくはその他の門人によるノートであるのかは判然としませんが関先生の数学業績が「ある形をもって」纏められていたことは歴史的に意味あることといえましょう。

 

『研幾算法』をめぐる議論の最後になりますが、この時代の数学業績が先生自身のものであるのか弟子によるものであるのか、なかなか区別がつかないことは再三触れてきました。『研幾算法』の序文は建部賢弘が書いていますが、本文の冒頭は「数学乗除往来之答術」と記すだけで、著者もしくは編者がだれであるのか、責任の所在は明記していません。出版の後押しに関先生があったことは確実でしょう。なぜなら関先生の『発微算法』が攻撃されたのですか。ただ、『数学乗除往来』の遺題の解答がすべて建部賢弘であったとすることはどうでしょう。賢弘の数学的才能を見込んだ先生が斯界にデビューさせるために、賢弘の名前を冠して上梓したという可能性は考えられなくもありません。それにしても一考の余地があると思えます。

 

最後に、注意しておかなければならないことは、『研幾算法』が発刊された年の夏に『算法大成』の編纂作業が始まっていたという事実です。関孝和門下にその他の門下生がいたのですが、この偉業に加わったのは先生と建部賢明・賢弘の3人であったことです。ここにも建部賢弘の天才としての片鱗が見え隠れしているといえるでしょう。実に、賢弘20歳のことでした。

 

              ( 以下、次号 )