和算入門(29)


2017年 新春 今年も宜しくお願いいたします。

 

建部賢弘と中根元圭の近世日本数学史上における業績は語り尽くせないのですが、この和算入門(29)では、8代将軍徳川吉宗の対外政策あるいは数理科学政策に関連した彼らの業績を紹介したいと思います。

 

 享保5(1720)1月、徳川吉宗は開幕以来の祖法ともいうべき「禁書令」を部分的に解除いたしました。ここにいう「禁書令」とは、日本国内にキリスト教が広がることを恐れた江戸幕府が、寛永7(1630)年、イエズス会宣教師にかかわる書籍の輸入を全面的に禁止した政策を指します。

16世紀末の中国明では、イタリア人宣教師マテオ・リッチ(Matteo Ricci,中国名利瑪竇,1552-1610)の入華以来、たくさんのイエズス会宣教師が来訪しキリスト教の布教に努めていました。このときマテオ・リッチらは、布教活動を有利に展開するため中国の進歩的な知識人の協力を得て、キリスト教の教義書だけでなく道徳や文学などの人文科学書、地理学、天文学、数学や技術にかかわる数理科学技術書などをつぎつぎと中国語(漢語)に翻訳いたしました。西洋の宗教と道徳、数理科学技術の優位性をもってキリスト教の布教に役立たせようとしたのです。なかでも崇禎2( 1629)年頃に刊行された『天学初函』(李之藻編)は、それら西洋の学術・思想書を集めた漢語訳の叢書とよべるもので、著作の多くにマテオ・リッチがかかわっていました。『天学初函』は理編と器編の二編に分かれていますが、それらはつぎのような書籍からなっていました(『名古屋市蓬左文庫漢籍分類目録』を参照)。ただし、煩雑になりますので以下では、著者名などは割愛し、書名と巻数のみを紹介することにします。

 

天学初函 

器編 十一種

泰西水法 六巻、渾蓋通憲図説 二巻、幾何原本 六巻、表度説 一巻、天問略 一巻、簡平儀説 一巻、同文算指前編 二巻、(同文算指)通編 八巻、圜容較義 一巻、測量法義 一巻、句股義 一巻

理編 九種                                                                          

霊言蠡勺 二巻、西学発凡 一巻、弁学遺牘 一巻、交友論 一巻、重刻二十五言 一巻、畸人十編 二巻、職方外記 五巻、天主実義 二巻、七克 七巻

 

因みに、『泰西水法』は読んで字の如く西洋の灌漑水利技術を紹介した土木技術書になります。『幾何原本』はユークリッドの『原論』を翻訳したものですが、このときの翻訳は前半の6巻までで、残りは19世紀に至って訳されることになります。『幾何原本』では定義を「界説」と訳出していますが、冒頭は「点」とは何かから始まっています。『同文算指』は、マテオ・リッチがローマ学院時代に学んだときの先生クラヴィウス(Christoph Clavius, 1538-1612)が著した『実用算術概要』(Epitome arithmeticæ practicæ, 1583年刊)を底本としながら、中国の古典的問題などを盛り込んだ算術書です。『職方外記』は世界の五大陸の地誌を紹介した地理書になります。

先に触れた「禁書令」は、どうもマテオ・リッチと『天学初函』を標的にしていた観がありますが、いづれにしてもキリスト教 ( 特にカソリックですが) に対する警戒感から関連書籍の輸入が全面的な禁止となりました。輸入書物の検査は長崎で行われましたが、「禁書」が発見された場合は、中国の商船 ( 商人) に対して持ち帰りを命じる、または当該書の焼却、あるいは該当記述箇所の墨消しなどの処置をもって対応したようです。しかし、「禁書」の発令当初は書物検査も比較的緩やかで、検査官の目をすり抜けて国内に入ってきた禁書書籍もあったようです。余談ですが、尾張徳川家は寛永9 (1632) 年に『天学初函』6024冊を購入しています。尾張徳川家の文庫を蓬左文庫と呼びますが、文庫の購入目録によれば『天学初函』は「寛永九年買本」と記録されています。「禁書令」の実施から2年後のことでしたが、徳川本家筋には厳密な監督が及んでいなかったのかも知れません。

徳川吉宗は将軍職就任以前から天文暦学に強い関心を抱いていました。そのことは吉宗の事跡を記した『仰高録』に、吉宗の家臣の浦上弥五左衛門直方が建部賢弘を訪ね、暦数の問答に及んだ下りによく表れていると思います。そして、吉宗も自身の手による改暦を考えていたようで、そのためにはどうしても新しい天文情報が必要で、その必要に迫られての「禁書令」に至ったように思われます。幕府の紅葉山文庫の書物奉行であった近藤正齋が調査した『好書故事』には、

 

享保五年庚子正月天文暦数ノコト御穿鑿ニ依テ西洋天文書ノ禁ヲ弛ラル

 

と記していますから、吉宗の意向が強かったことを窺わせています。また、江戸幕府の書物方が記した『日記』によれば、緩和令に伴って『天学初函』を構成する書籍群にあって、つぎの書籍が禁書の指定から解除されたことを伝えています。

 

圜容較義、渾蓋通憲図説、測量法義、測量法義異同、簡平儀記、勾股義、幾何原本、同文算指前編、同文算指通編、交友論、泰西水法

右者享保五子年ヨリ、西洋人著述之書タリトモ邪法教化之儀サヘ不記書ハ御搆無之旨被仰出、其以来右之十一種追々持渡邪法教化之文曾て無御座ニ付、商売ニ出申候。

 

 この「禁書令」の緩和に関連して、誰が徳川吉宗に助言・進言をしたかをめぐって長い間議論が交わされてきました。意見の多くは『徳川実紀』第九篇「有徳院御実記附録」巻十五に見える記事を根拠に「中根元圭進言説」が支持されてきました。確かに「有徳院御実記附録」には、寛永七年来の「禁書令」が緩和されるに至る経過や建部賢弘・中根元圭の業績や役割、天文方の猪飼豊次郎、長崎奉行荻原美雅などの仕事が詳細に記録されています。一読しただけでは記事に問題はないように思われます、しかし、記述内容を詳細に検討してみますと、記録者の事実誤認や時間経緯の錯誤などが随分と見受けられ、記録としての信頼性が揺らぐものになっています。筆者は、吉宗政権下での建部や中根の仕事を過少評価するつもりは毛頭ありません。彼らが重要な位置にいたことは間違いありませんし、それなりの影響力はあったと思います。しかし、この「禁書令」の緩和に関して、建部と中根がどのように関与したかをはっきりと示す証拠が見つかっていない以上、彼らの役割を強く主張することには慎重でありたいと思っています。

 享保5年の緩和令から6年後の享保11 (1726) 年に『暦算全書』が舶載されました。これもちょっと奇妙は話なのですが、長崎の書物改役や書籍問屋などが残した記録を見る限り、この6年間に目立った天文暦算書の輸入はありません。満を持しての部分緩和であったはずですから、吉宗の希望に沿った書籍輸入があってもおかしくはないのですが、記録としては残されていません。紅葉山文庫にもそれらしき書籍は見当たりません。いずれにしても『暦算全書』が「禁書令」緩和後に輸入された本格的な、しかも大部な暦算書になりました。

 『暦算全書』は、清朝中期を代表する暦算家梅文鼎 (1633-1721、写真1参照) の著作を、友人の魏荔彤が集めて雍正元 (1723) 年に刊行した天文暦算学の一大全集でした。著者の梅文鼎は、中国の古典暦算学に精通するだけでなく、明末に伝わった西洋の天文暦学も積極的に吸収した開明的な研究者でした。ですから、梅文鼎の著作には当時としての最新の天文暦算情報が取り込まれていました。さて、その『暦算全書』ですが、享保11年に我が国に伝わったものは雍正2年に刊行された全集で、計30種の著作が輯録されていました。雍正元年板と比較して、全集としての構成に大きな相違はないのですが、雍正2年版は、解説図が未記入であったり、あるいは伏せ字があったり、さらには墨書き文章が含まれるなど、ちょっと小首をかしげたくなる版面構成になっていました。このことは留意しておく必要がありましょう。

書誌的問題はさておき、『暦算全書』は「法原」「法数」「暦学」「算学」の四部で構成されています。ここでは「暦学」を除いて、以下に書名と巻数を紹介しておきましょう。

 

 法原

 平三角挙要  五巻

 勾股闡微   四巻

 弧三角挙要  五巻

 壍堵測量   二巻

 方円冪積   一巻

 幾何補編   一巻

 解八線之根

 法数

 割円八線之表 二巻

 算学

 古算演略   一巻

 筆算     五巻

 籌算     七巻

 度算釋例   二巻

 方程論    六巻

 少広拾遺   一巻

 

「法原」の『平三角挙要』と『弧三角挙要』は、平面と球面三角法の原理と応用問題が載せられています。ですから、三角法の基本定理である正弦定理や余弦定理も登場することになります。球面三角法では極三角形の議論もあります。『幾何補編』は正多面体と準正多面体の求積法を三角法で解説したものです。『解八線之根』では三角関数表の作成原理を紹介していますが、これに関連して倍角公式や半角公式が証明されています。

「法数」の『割円八線之表』は三角関数表そのものになりますが、これは『崇禎暦書』で使用された表がそのまま使われています。三角関数表が我が国に伝わる経緯についてはちょっとしたトラブルがありました。重要なことですから少し触れておきましょう。実は、雍正2年板の『暦算全書』の目録には『割円八線之表 二巻』と載せるだけで、表に関する情報は一切記載されていません。これを雍正元年板の目録で見てみますと

 

割円八線之表 一巻 続出

 

とあって、書名と巻数に続けて「続出」の二字が書き加えられています。要するに、全書の出版時に三角関数表は「未完」であるから、後日出版すると案内されていたのです。このとき未掲載であった理由について、物故された李迪先生は、表の作成は大変で、出版の時に間に合わなかったのだろうと推測されました。確かにそのような理由も考えられますが、梅文鼎に三角関数の小表があったことを考えますと、かならずしもそうとはいえないようです。それは兎も角、雍正2年板の『暦算全書』にも三角関数表は含まれていなかったのでした。三角関数表がなければ、公式と応用は理解できても計算はできません。表を自分で作ればよいのですが、それではとても厄介です。そこで江戸幕府は中国商人に『割円八線之表』の入手を命じたのでした。享保12年春、三角関数表が緊急輸入(?) されました(写真2参照)。幕府書物方『日記』は、

 

 暦算全書去午年持渡差上其節、内八線之表一冊不持渡候。當春差越、今度差上ル由、入日記ニアリ。

 〇割円八線之表  一冊 但シ刻板之手本共ニ十月八日納ル。

 

と伝えています。このとき中国から持ち込まれた三角関数表が『崇禎暦書』に含まれるものだったのです。もっとも梅文鼎が作成した三角関数表の小表も同時に伝わりましたが、このことはあまりよく知られていません。

 さて、この時舶載された『暦算全書』と『割円八線之表』はどのように扱われたのでしょうか。書物方『日記』によりますと、いずれも建部賢弘へ拝借されたと記録されています。しかも、

 

 長崎ヨリ来リ

 午十一月五日御預ケニ成候旨之仰渡有之

暦算全書 四十冊 四帙

未十月廿六日御預ケニ成候旨之仰渡有之

割円八線之表 二冊 一帙

 

と記録されていますので、幕府上層部の命令で建部賢弘に拝借されたことが分かります。命じた人物は徳川吉宗に他ならないでしょう。建部への拝借後の扱いについても、建部賢弘の『暦算全書』の訳本に付した序文やその他の発言から分かるのですが、『暦算全書』の訓点和訳を中根元圭が担当しました。訓点和訳は当初建部賢弘に命じられたのでしょうが、建部は中国語の古典と暦学に造詣のある中根元圭にその任にあたらせたようです。

 京都・江戸の参勤による勤仕を命じられていた中根元圭は『暦算全書』の訓点和訳に取りかかりました。途中経過は不明ですが、享保13年の冬に訓点和訳は終わったようです。このことは享保13年に蜂屋定章が著した『円理発起』に序文を求められた中根元圭の発言に表れています。実質2年ほどで訓点を終えたのですから、中根元圭の漢文力と暦学力には驚嘆というほかはありません。また、江戸幕府の日記である『柳営日次記』の享保13129日の條は、

  

享保十三年十二月九日

二丸御留守居

 時服三       建部彦次郎

 右者御書物御用相勤候ニ付被下候旨讃岐守出座

 

銀座 

銀三枚      中根丈右衛門 

此度建部彦次郎エ被仰付候処御書物手伝仕、骨折候ニ付被下之

 

と記録しています。翻訳の労をねぎらい報奨金が建部賢弘と中根元圭に与えられたのです。

そして、これもまた不思議なのですが、享保13年に完成した『暦算全書』の訓点和訳本がどこに保管されていたのかよく分かりません。おそらく将軍吉宗の膝元にあったと思いたいのですが、記録では見つかりません。それから、5年後の享保18年に建部賢弘は訓点和訳本に序文をつけて将軍への献上に及んでいます。このことも江戸幕府書物方『日記』から見ておきますと、享保18516日の日付で、つぎのように書いています。なお、文中( )の書名は筆者が加筆したものです。

 

新規御預ケ

〇新写暦算全書(新写訳本暦算全書) 四十三冊

〇同序(新写訳本暦算全書叙)     一冊

〇新写割円八線之表 二冊

     右、浅黄土佐紙表紙、糸紫、白紙書、外題三品トモニ

 右写、建部彦次郎へ被仰付、中根元圭点付ル。

 序ハ彦次郎へ被仰付候由。

 

さて、訓点和訳の任を終えて京都に帰った中根元圭ですが、その後元圭は『八線表算法解義』を著しています。この著作の成立年紀は不明ですが、元圭の弟子の幸田親盈が享保17年仲夏にこれの解説書である『八線表解義術意』を著していますから、『八線表算法解義』はそれ以前の成立と見なせます。『八線表算法解義』は、日本人として初めて三角法の原理を解説し、これをもって『授時暦』研究に応用しようとした記念碑的著作といえます。また、同じ年、元圭は吉宗の命を受けて、月と太陽までの距離の計算にも挑みました。勿論、三角法を使ってですが、データとしては月の影の長さを利用しました。元圭の計算では正確な距離の値は得られませんでしたが、果敢な挑戦であったといえましょう。でも、この時の観測が災いしたのかも知れません、元圭は翌享保189月に没しました。享年72歳でした。

現在、長崎に舶載され、江戸幕府に届いた雍正2年板の『暦算全書』と『割円八線之表』は国立公文書館の内閣文庫に保存されていますが、一方、『新写訳本暦算全書』『新写訳本暦算全書叙』『新写割円八線之表』は宮内庁書陵部に収蔵されています。

 

 

 

 

写真1 安徽省宜城梅文鼎記念館前の立像

右は内蒙古師範大学郭世栄教授

 

 

 写真2 『割円八線之表』(内閣文庫蔵)

 

         ( 以下、次号)