和算入門(38)


 松永良弼が活きた時代は、関・建部が開拓した数学の新たな展開を迎える時機にあたっていました。その一方で、断片的ではありますが、オランダや中国を経由して西洋の天文・暦算学の新知識が伝わってくる時代でもありました。西洋の新科学知識の導入に道を開いたのは8代将軍徳川吉宗でした。このことは『和算入門』(30)~(33)の「漢訳西洋暦算書の受容」で紙幅を割きましたので、ここでは触れないことにします。ようは時代が変わり始めていたことを心の片隅に留めておいて頂きたいのです。

 松永良弼が継承・発展させた関流数学を「正統」にして受け継いだのは江戸幕府天文方の山路主住(1704-1772)でした。山路によって、関孝和―荒木村英―松永良弼―山路主住とする関流の系統が確立したといっても過言ではありません。荒木は初伝。松永が二伝となりますので、山路は関流正統の三伝ということになりましょう。実は、こうした関流数学の系譜を免許状として成立させたのも山路だといわれています。もっともこうした系譜を整理したのも松永といわれますが、師の意図を汲んで明確にしたのが山路であったことは確かなのでしょう。そのような意味において、山路は江戸中期の近世日本数学にとって重要な位置を占めていた人物といえることになります。

 まず、山路主住の立ち位置を理解するために、彼の経歴を見ることにします。その山路について『明治前日本数学史』第三巻は、『天文方代々記』や『寛政重修諸家譜』を参照しながら彼の事跡や生涯をとても詳しく紹介しています。因みに『天文方代々記』とは、江戸幕府による天文方の任命と各天文方の業績と功績ならびに褒賞など、さまざまなことを記録したもので、江戸幕府天文方研究の基本史料と呼べるものです。いま、そのことはさておき、『明治前日本数学史』で詳説された山路主住の足跡を要約してみると、つぎのようになりましょう。要約といいましたが、筆者による若干の補足が入っていることも承知置きください。

 

山路主住は通稱彌左衞門と称し、字は君樹、連貝軒あるいは聽雨を名乗る。享保9(1724)正月、松前主馬組御徒に召し出され、同18(1733)2月支配勘定を拝命。元文4(1739)8月、36歳の時、小普請組入に命ぜられる。寬延元年(1748)8月、45歳にして、澁川六藏則休および西川忠次郎正休を補佐する天文方御用手伝仰せ付けられ、3人扶持を拝領。同28月、2人扶持が増加され5人扶持となる。同32月、渋川六蔵(1750年没)と西川正休が上京するに及んで従いて赴く、同年5月、仙洞御崩御(桜町天皇、1720-1750、在位1735-1747)のため京都測量を中断して帰府する。宝暦元年(1751)正月、再び渋川図書(六蔵の弟、1750年天文方)、西川らとともに上京するが、宝暦37月、小普請組に入り、同57月、関東秋分測量に従事するため帰府。さらに同年9月、渋川図書の上京に随行し、同年10月、関東冬至測量のため江戸に帰る。同年12月、京都改暦御用を勤めたことにより金30両を頂戴する。宝暦6年正月、渋川図書とともに上京。同76月、京都御用が終わり帰府。

明和元年(1764)61歳のとき、幕府天文方に就任し、100俵を支給される。扶持米は従前通り留まる。座順は澁川図書の次席となる。安永元年(1772)1211日病没。69歳。

 

 一読してお分かりと思いますが、山路主住は江戸と京都を幾度となく往復したことがわかります。体力的には大変な旅であったと思われますが、それもこれも8代将軍吉宗に悲願であった江戸幕府の手による改暦の苦難だったのです。改暦の先頭に立ったのが、天文方の渋川家と西川家であり、彼らを補佐したのが山路であったのです。その理由は、渋川家の暦学力が十分でなかったことによると思われます。また、側面からは仙台藩の戸板保佑や新庄藩の安島直円なども援助も受けたようです。

このような困苦のもとに成立したのが『宝暦甲戌暦』(略称『宝暦暦』:ほうりゃくれき)ですが、暦の成立は甲戌年、すなわち宝暦4年であったのですが、改暦の頒布は翌5(1755)の正月からとなりました。ここに『貞享暦』から『宝暦暦』(史料1参照)への改暦がなったことになります。しかし、将軍吉宗の死や幕府天文方の暦学力不足などの理由から、改暦の実権は京都の土御門家に握られていました。その土御門家の暦力も有名無実化しており、ほとんど改暦の力にはなりませんでした。その結果としてできあがった『宝暦暦』の精度は『貞享暦』よりも劣ることになり、日食などの予報を外してしまうことになりました。このことがつぎの改暦への導因となるのですが、幕府は大坂にいた高橋至時を出府させて事業を推し進めることになりました。これが『寛政暦書』となります。

 

 

史料1 宝暦5年頒布の『宝暦暦』(国立天文台所蔵史料より)

 

また、興味深いことは、『寛政重修諸家譜』の山路家の項を見ると、山路家は惣右衛門久長が御徒に属して主住に至ったといい、主住について「御徒をつとめ、支配勘定となり、後勤務によろしからずとて、つとめをゆるされ、其ののち天文方のことをたすけ勤む」と誌すことです。勤務先の支配勘定での勤務がよくないとは一体どういうことでしょう。支配勘定は江戸幕府の役職の一つで、勘定所で実務をこなす勘定奉行配下の役人を指します。もちろん上司は勘定方になりますが、配下の役人は実務での高い計算能力が問われたはずです。主住が勘定支配に属したのは享保18年で、彼の30歳頃にあたります。この時期主住は相当の数学力を身につけていたはずですから、計算力が劣る理由をもって「勤務によろしからず」とする批判の対象にはならなかったはずです。別に原因があってのことになりましょうが、そこには実務計算よりも天文暦学の理論計算をしたいという態度が顕れてのことであったかも知れません。あるいは人間的に高慢で、人を見下すところが勤務に表れていたことも考えられます。これらの推論は筆者の邪推ですから、あまり信用しないでください。ただ、こうしたことが背景にあって、長く暦学研究の「補佐」に甘んじなければならなかったのであり、最晩年正式に天文方に就任しても席次が渋川図書の後であったこともそのことを示唆しているように思えます。

ところで、関流三伝を名乗る山路主住はどのような数学的薫陶を受けたのでしょうか。山路自身はそのことを直接語っていませんが、弟子の藤田貞資(1734-1807)が天明元年(1781)に著した『精要算法』で、断片的ではありますが、そのことを書いています。藤田の記述を読み下しにして示しておきましょう。

 

我が先師、山路先生主住始め業を中根子に受け、後に久留島子に師とし事へ、最後に松永子に弟子たり。先生、沈審頴悟、且つ資性篤実なり。即ち、三君子悉く帳中の秘を授けて、遺すことなし、と云う。

 

藤田の発言によれば、山路主住の最初の先生は中根子であったといいます。これは恐らく中根元圭を指しているのでしょう。息子の諺循では物足りない気がします。元圭は享保18(1733)に亡くなっていますから、元圭による指導は、主住の支配勘定勤務以前ということになります。その頃の中根元圭は徳川吉宗からしばしば暦算上の下問を受け、京都から参勤を以て御用を勤めていました。また、元圭は、享保12年に、江戸で弟子を採っても良いとする官許を得ていましたが、これでは主住の入門は少し遅いかも知れません。ことによれば、中根が建部賢弘と昵懇の間柄になった享保5年頃からのことであった可能性も考えられます。

久留島義太の生涯は詳しくわかっていません。父は村上佐助義寄、通称を喜内と称し、備中松山藩の人で200石を受けていたといいます。主君の水谷家の断絶後、姓を久留島に改め大坂に移り住み、その後江戸に出たといわれます。数学の多くは独学で熟達し、江戸で算術道場を開いていたのですが、磐城平藩主内藤政樹に認められ、10人扶持で召し抱えられました。このことは松永良弼の事跡の紹介のところで僅かに触れてあります。参考にしてください。宝暦4(1754)に内藤侯を致仕し、江戸にて宝暦7年になくなったようです。数学力に関しては奇才と称されるほどの実力の持ち主だったようです。山路が久留島から直接教授を受けるとなれば、延享4(1747)に久留島が内藤侯にしたがって日向延岡に出向く直前までのことであったかも知れません。

松永良弼は、初め荒木村英に師事し、後中根元圭から薫陶を受けた人物です。詳しくは『和算入門』(34)-(36)で紹介した松永良弼の記事を見てください。

さて、弟子の藤田貞資から観た山路主住は、物事を深く考え、鋭敏な能力を持つ数学者で、性向は、誠実にして思いやりのある人と映っていたようです。こうした評価は、先の『寛政重修諸家譜』が「勤務によろしからず」とするところと齟齬をきたすように思えますが、どちらが正しいかはわかりません。とくに『寛政重修諸家譜』が指摘するような記事についての裏付け情報が欲しいところです。

さて、『明治前日本数学史』では山路主住の数学著作をたくさん列挙していますが、惜しいことには数学の刊行書が一冊も見当たらないことです。写本は大量に残されているのですが、それらの内容についての評価も高くありません。なぜ山路の学力が高くなかったのか、その原因は計り知れませんが、この原稿の冒頭で紹介した山路の生涯と関係があるのかも知れません。山路は江戸幕府の命に従って改暦事業に奔走していました。たびたびの江戸と京都の往来、対朝廷対策、観測測量など肉体的にも精神的にも苦労の多い任務を遂行していました。したがって、静かに数学研究に没頭し、研究成果を刊行書として公開する時間的余裕などはなかった、と思えてならないのです。

もう一つの理由もあったでしょう。それは、師の松永良弼と連携しながら関流数学の継承と発展に勤めることでした。別の言い方をすれば関流数学の権威付け工作といえるかも知れません。それが政治的に意味するところは、京都の保守派に対峙して、松永・山路が正統な関流数学の継承者であることを自他共に認めさせることであったと考えられる。敢えて言えば、京都には建部賢弘―中根元圭の系統意識が強く残っていたことによるといえましょう。また、免許制度の確立も大きな理由になったと思われます。関流数学の免許制度は、三上義夫の研究によって、山路の時代に整えられたことが判明しています。そして、免許制度の成立は、他方として、その教程課程の整備も求められることになります。所謂、『三部抄』や『七部書』などの関流数学の教本の制定であったと思えます。

このように観てきますと、山路主住の近世日本数学史における功績は、『宝暦暦』への改暦と関流数学の体制の確立にあったといっても過言ではないでしょう。

【余話】

 913日から18日にかけて、中国内蒙古自治区の呼和浩特(Hohhot、フフホト、省都)にある内蒙古師範大学に赴きました。目的は、中国科学史・数学史研究の大家であった李迪(Li Di, 1927-2006)先生の生誕90年を記念して開催された「科学技術史一流学科建設与発展学術研討会」に招かれたこと、そしてこの記念集会と併せて開かれたThe 13th International Symposium on the History of Mathematics in East Asia(13回東アジア数学史国際会議、ISHMEA)へ出席するためでした。李迪先生は私にとって学問上の大恩人で、その恩恵は計り知れないものがありました。師範大学訪問時には、先生の書斎で自由に研究することも許されました。図書館の書庫への出入りも認めて頂けました。勿論、美味しいモンゴル料理への食事にも誘われたこともしばしばです。そのような先生と思い出は尽きないものがあります。

そうした先生との縁で研討会に呼ばれたのですが、先生の偉業と思い出を「李迪先生、 ISHME and ISHMEA(914日、全体で2番目の講演)と題して話しました。大会場はほぼ満席で、大学学長、中国自然科学史研究所長、数学史学会長など各界の面々が出席するなかでの講演でしたが、私は、李迪先生そして道脇義正先生が果たされた国際学術交流の役割と意義、およびその発展について「漢字文化圏と近隣諸国における数学史と数学教育国際シンポジウム」(ISHME)をキーワードにして報告いたしました。914日からは第13ISHMEAが開かれました。これも関係者で会場は一杯でしたが、なかでも学部生と院生の出席が目立っていました。関心の高さが窺われますが、それは教授陣の指導の賜ともいえましょう。いいことですね。ここでの私の発表は「The Chinese Classic that was quoted at theDoryōkō-ko”≪度量衡考≫of WogyūSorai(荻生徂徠)」と題するものでした。内容について多くを語る必要はないと思いますが、近世儒学者の数理への関心は一面として侮れないものがあります。ここでの話題の中心は度量衡ですが、側面として音楽論があることを忘れてはなりません。荻生徂徠は七弦琴を弾くほどの人物だったのです。

実は、余話の本題はここからになります。第13ISHMEA916日の午後に終えた私たちは、フフホトから荒涼とした岩肌の陰山山脈に沿って走る高速道路に乗って西に向かい、包頭(パオトウ、Baotou)の南に位置する多斯(オルドス、Ordos)へ往きました。目的はまったくの観光で、オルドスの町の見学とチンギス・ハーン廟を訪ねることでした。チンギス・ハーン廟を訪ねるのは私は2回目になるのですが、恥ずかしながらぼんやりとした記憶しかなく、改めての訪問となった次第です。17日の午前中、オルドスの旧跡を見学しました。その一つに「郡王府」がありました。ここは清朝末期の郡長王子の住居で、子弟の教育にも使われ学校としても機能していたようです。私は、そうした説明には耳を傾けず、もっぱら建物の構造や装飾などを観ていました。そこで眼に飛び込んできたのが写真1の装飾柱でした。王子の居宅は柔らかい石を煉瓦状にして積み上げた壁で囲まれて

いました。

 

  写真1「郡王府」の装飾 

 

 

  写真2 拡大図

 

その外壁や居宅のあちらこちらに装飾柱が付けられていましたが、写真1では二本の装飾柱のまん中に一枚岩に彫られた龍のレリーフが浮き上がっています。これの両側の柱の天辺には幾何学模様をもつ立体が付けられていたのです。これには驚きました。写真2がその拡大写真です。『和算入門』(36)-松永良弼(3)で、松永の『求積後編』に載る正多面体と準正多面体を取り上げたことがありますが、その際、近世日本の数学者が「切子」と呼んでいた準正多面体の一つを紹介しました。それは一つの頂点に正三角形と正四角形が二個ずつ集まり[3,4,3,4]で頂点を閉じているものでした。まさか、中国の内陸部で斯様な立体幾何モデルに出会うとは実に意外だったのです。この立体との出会いは、ある意味、今回の中国旅行において、私にとって大きな収穫になりました。

 

            ( 以下、次号 )