和算入門


幕府天文方の山路主住に師事した和算家に武蔵国男衾郡 (現埼玉県深谷市) 出身の藤田貞資 (1734-1807) がいました。藤田が生まれた年は年号で言えば享保19年にあたりますが、この頃から日本人の数理科学研究の方向性や内容が少しずつ変わり始めた時期になるといえましょう。一言で言えば、西洋の数理科学技術の知識を僅かではありながら吸収できるようになったことが影響していると指摘できます。そうした学問環境の変化のなかで藤田は暦算学者として成長していったのでした。

藤田貞資の名前は、定資と書かれることもあります。通称を彦太夫、権平とし、字を子證、号を雄山と称しました。四乳主人も名乗りました。

生家は男衾郡本田村の郷士本田縫殿右衛門親天の第三子として生を受けましたが、宝暦6(1756)、新庄侯永井信濃守の家臣藤田定之の養子となり、藤田姓に変わります。宝暦12(1762)、山路主住の作暦御用の手伝い並びに測量方として幕府に召し抱えられることになりました。江戸幕府天文方御用手伝いへの抜擢ですから、間違いなく、若い頃から暦算学の研究に打ち込んでいたのでしょう。そうでなければ幕府への召し抱えなどは到底考えられません。しかし、このことが藤田家復帰の障害になったことは不運としかいいようがありません。それは、明和4(1767)、眼病のため天文方御用が困難になり、職を辞することになりますが、藤田家では別に養子を迎えていたため復帰が叶わなくなったのでした。その藤田家ですが、日本学士院に残る『御当家出勤系譜』(御当家とは有馬家のこと) によれば「後養子不埒之筋有之家断絶」と割書されていて、家断絶という残念な結果になっています。なにか、関孝和の養子新七郎のことを彷彿させるような感じがします。

帰る家のない藤田貞資は浪人(無職)になりますが、幸いにして、明和5 (1768)、久留米藩主有馬頼徸に二十人扶持で召し抱えられることになりました。有馬頼徸は暦算学の研究に熱心な大名でしたから、貞資の学力を認めての任用であったと思われます。その有馬は、明和6 (1769) に『拾璣算法』と題する高尚で難解な問題を含んだ算術書を刊行するほどの大名だったのです。この数学書の出版には藤田も絡んでいたと思われますが、あまり多くのことはわかりません。さて、先の『御当家出勤系譜』を読み続けていきますと、藤田は有馬家で大変重用されたことがわかります。そのことは藤田の能力と努力の賜といえますが、一方では、藩侯の寵愛もあったのでしょう。

文化4 (1807)、長の患いをもって、倅嘉言への家督相続が認められ、致仕します。同年3月、退道への改名が許されますが、86日病死、74歳でした。墓碑は江戸四谷南町西応寺にあって、法名は「證光院釈氏退道居士」としています。墓石には、資料の写真にみるような墓銘が刻まれています。参考にしてください。因みに、この写本は日本学士院が所蔵するものですが、藤田貞資の弟子であった群馬の和算家石田玄圭が著した『算法雑記』からの引用です。

藤田貞資の数学者としての業績は高く評価されておりませんが、教育者としては優れたものがあったようです。特に、この時代神社仏閣に盛んに奉納されるようになった算額集を初めて刊行したことは注目に値いします。まず、藤田の業績としての刊行著書を見ておきましょう。

 

天明元年(1781) 『精要算法』 上中下3

寛政元年(1789) 『神壁算法』 2

寛政4(1792) 『改正天元指南』 5

文化3(1806) 『続神壁算法』 1

 

 藤田の最初の著作といえる『精要算法』ですが、これに序文を与えた人たちを見ていると、この算法書に対する期待と同時に、有馬家から扶持を拝領する家臣の権威付けのような雰囲気が伝わってきます。それは、『精要算法』の書名が藩侯から賜れたとする一事でも察することができるのですが、最初の序文はつぎのような書き出しで始まっています。あまり難しくない漢文ですから原文のまま引用しておきます。

 

 藤田定資、字子證者、性頴悟、而好數學精絶、久留米羽林侯之臣也。属者(注:この頃、近頃の意)、著算法一書焉。侯、雅好數學、覧所著書、稱歎之、賜名精要算法。

 

原文中の「侯」とは藩主有馬頼徸のことを指しているのですが、同時に、藩主が数学を嗜んでいたこともこの文章からわかります。その有馬が藤田の著作をみて感嘆し、書名を『精要算法』としたとも教えてくれます。しかし、書名のヒントは関孝和の『括要算法』に有ったようにも思えます。関のそれは、「算法の要を括る」であり、藤田の書名は「算法の要を精しく」するの意と解することができるからです。「括」を「精」に一字変えただけのように見えますがどうでしょう。有馬も藤田も関孝和を「信奉」していたでしょうから、その力に肖ったといえば言い過ぎでしょうか。

序文の奥付年紀と著者は「安永庚子孟夏 経筵講官林信有」とあります。「安永庚子」は安永9 (1780) ですから、『精要算法』刊行の前年の孟夏すなわち4月に序文を与えたことになります。それは儒者林信有が将軍家の侍講になる2ヶ月まえのことでした。

序文の著者林信有は『寛政重修諸家譜』を覗いてみますと、なかなかの講官であったことがわかります。林家の系譜によれば、信有は仙助、百助と称しますが、寛保3 (1743)、父の林信智の遺跡を13歳で継ぎ、明和8 (1771)からは第五代林大学頭信言 (1721-1774) の見習いとして月々の講釈を務めるようになり、のち、布衣、法印法眼の次席に列せられ、天明元年623日からは将軍家の侍講を拝命したとあります。また、晩年には、命により西の丸での進講も務めたようで、系譜はその様子を次のように伝えています。

 

天明五年五月二十五日より西城の御座において進講す。七月十一日、四書をよみ終らせたまふにより、御料の御帷子(注:からびらの事)及び時服三領、黄金三枚をたまひ、十六日、五経一部を献す。

 

晩年は病がちで、御進講も容易でなかったように見えますが、天明5818日、55歳で没したようです。このような経歴の持ち主の林信有ですが、自分は数学は知らないといいながら、実は、山路主住の子之徽と親交があったことを認め、「今の著す所の書、これを観れば、則ち、其の術の精、知るべきのみ」とする賛辞を贈っていますから、まったくの数学音痴ではなかったように思われます。また、「経筵講官」とする冠の経筵」は、「けいえん」と読み、「天子が経書の講義を聴く席。また、経書を講ずる席」の意味にあたります。つまり、そのような立場にある講官であることを顕示していると言ってよいでしょう。

続く序文は 安永89月の年紀で、「久留米 田中一貫夫」が書いています。ほぼ最初の序文と同じ内容で書かれていますが、要は久留米藩が「総力」で支援しているとも読める文章になっています。最後に藤田の自序が載りますが、これの紹介は別の機会に譲ることにしましょう。

やや、序文のことが長くなりましたが、つぎに凡例を見てみましょう。凡例はつぎのような文章で始まっています。

 

凡例

今ノ算数ニ用ノ用アリ、無用ノ用アリ、無用ノ無用アリ。用ノ用ハ、貿買、貰貸、斗斛、丈尺、城郭、天官、時日、其他人事ニ益アルモノ総テ是ナリ。故ニ此書、上中巻ハ人ノ最モ卑シト思ヘル貿買、貰貸ノ類、日用ノ急ナル諸算書ニ見ヘサル我発明セルノ術コレヲ載セ、関家ノ禁秘尽ク此術中ニアラワス。無用ノ用ハ、題術及異形ノ適等、無極ノ術ノ類、是ナリ。此レ人事ノ急ニアラスト雖トモ、講習スレハ有用ノ佐助トナル。例ヘハ、裘褐、疏食、茅室、人以生クヘクシテ、冕、鼎食、城郭ハ其佐助ニシテ、ナクハアルヘカラサルカ如シ。故ニ此書下巻ハ、題術ノ初学ニ便ナルモノ其術文ノ煩ヲ去リ、簡ニ帰シテコレヲ載セ、其簡異形ノ適等、無極ノ術ヲ具ス。又、太極ハ算数ノ本源ナルヤ。上中下巻ノ術中ニ具ス無用ノ無用ハ、近時ノ算書ヲ見ルニ、題中ニ点線相混シ、平立相入ル。是レ数ニ迷テ、理ニ闇ク、実ヲ棄テ、虚ニ走リ、貿買、貰貸ノ類ノ中ニ於テ、算ニ達タル者ノ首ヲ疾シムルモノアルヲ知スシテ、甚卑キコトト思ヒ、己レノ奇巧ヲアラハシ、人ニ誇ラント欲スルノ具ニシテ、実ニ世ノ長物ナリ。故ニ是ノ如キモノ一モコレヲ載セス。

 

 この凡例で、数学に「有用の用あり」、「無用の用あり」、「無用の無用あり」と説く、有名な「数学三用論」がここに登場します。最初の「有用の用」は実用的な数学を指すのでしょう。ここでの実用数学とは実社会の様々な場面で必要となる数学を意味し、藤田は売買、貸借、度量衡、土木技術、天文観測、作暦などを例としてあげています。最後に、測量、天文観測、そして暦と続くところに藤田のもう一つの狙いがあるように感じられます。いずれにしても人々の日常生活に直結する数学ということになります。

二つ目が、一見役に立たないような数学だけれども、実は、人々の眼に見えないところで必要となる数学、これを「無用の用」と呼んでいます。そして、一見無用と思える数学を「講習」すればするほど「有用」の助けになると強調していることも含蓄があるように思えます。この「無用の用」という考えは、中国古代の哲人が称えたもので『老子』や『荘子』に例句を見ることが可能です。藤田はそれからこの語句を援用したと思われます。

最後が、「無用の無用」。これはなかなか厳しいことばですが、藤田は「近時ノ算書ヲ見ルニ、題中ニ点線相混シ、平立相入ル。是レ数ニ迷テ、理ニ闇ク、実ヲ棄テ、虚ニ走」るものと実例を挙げて、当世数学者の研究の稚拙さと暗愚を批判しています。一言でいえば、不用で無駄な数学研究ということになるのでしょうが、当時、どこかに「無用の無用」を楽しむ風潮があったのかも知れません。また、「無用の用」の延長上「無用の無用」があるようにも思えるのですが、藤田の深意は如何に。

 

  

写真資料『算法雑記』(日本学士院蔵)写真左の左頁から写真右頁へと読んでください。

 

                                     ( 以下、次号 )