和算入門(34)


 これまで梅文鼎の『暦算全書』の輸入に関連して、近世日本数学での漢訳西洋暦算書の受容問題を4回に渉って論じてきました。我が国への漢訳西洋暦算書の影響は計り知れないものがありますが、一端この問題については筆を置き、和算の紹介に立ち返りたいと存じます。でも随所で触れることをお断りしておきます。

 関孝和から建部賢弘へと発展させられた数学は、京都の中根元圭に継承されたと思われますが、その一方で、荒木村英の弟子であった松永良弼にも伝承され、やがて発展の道を辿ることになったと思われます。今回の「和算入門」では、その松永良弼につて取り上げて視ることにいたしましょう。

 松永良弼の生年はわかりませんが、延享元(1744)年に亡くなったことは知られています。生年は元禄5(1692)年頃ではないかと推測されてはいますが、はっきりとした根拠があるわけではありません。松永は寺内平八郎といい、後に松永権平と改め、さらに安右衛門と名乗ったようです。号もたくさん使用していて、東岡、龍池、探玄子や源翼などと署名することもあったようです。

 松永の学統について確かなことをいうのは難しいのですが、若い頃に関孝和の門弟であった荒木村英に師事して学んでいたことは間違いありません。『和算入門』(23)で紹介しましたが、荒木は江戸の南鍋町に算学塾を開いていたようですから、ここに通って教えを受けたものと思われます。また、荒木の名前は正徳2年に関孝和先生の遺稿を集めて『括要算法』を出版していましたから、算者としての名声は高まっていたかも知れません。そして、山口和篤らが書き残した『交式解』には、関先生の『解伏題之法』の換五式が間違っているとことを伝える伝聞がありますが、そこにはつぎのように書かれていました。

 

享保三年春、江府荒木氏亭ニ於テ、寺内小傳云、解伏題換五式ノ交式相違アリト、荒木先生ニコレヲ聞ク。

 

この記録の核心は、荒木と寺内小傳、すなわち松永良弼との関係と「解伏題換五式」の誤りを伝えているところにあります。江府荒木氏亭においてと書いていますから、南鍋町の荒木塾でのことを指しているのでしょうか。『交式解』の著者は、享保3(1718)年に荒木先生からそのことを聞いたといっていますから、松永が『解伏題之法』に誤りがある事実を荒木先生につたえたのはそれ以前になりましょう。松永には正徳5(1715)年に著した『解伏題交式斜乗之諺解』と題するノートがあります。ここで「換五式」が間違っていることを指摘していますので、間違いの発見はこれ以前であった可能性があります。こうした記録から見て、荒木と松永はそこそこ濃密な師弟関係にあったことを窺わせるとともに、松永にかなりの数学力がついていたことを推測させます。これは裏返せば、先生の荒木は『解伏題之法』に誤りがあることに気づかなかったことを示唆していることになりましょう。そして、この頃の松永は寺内小傳を名乗っていたことも知れることになります。因みに『解伏題交式斜乗之諺解』の奥付は、

 

正徳第五歳次乙未寅月子日 寺内良弼 重訂之

 

とあります。「重訂」の意味を考慮しますと「解伏題」換五式の誤りの発見は正徳5年以前であったといっても間違いはないでしょう。

 もう少し松永良弼の経歴を述べておきましょう。松永は、享保17(1732)12月、磐城国平藩主内藤政樹(1703-1766)に仕え、63人扶持を給わったようです。享保202月には74人扶持となり、寛保2(1742)年の時には405人扶持と昇給していったようです。そして、寛保4623日に病死。これらのことは内藤家の『由緒書』で知られるところで、また、同家の別の文書には、松永が内藤家に仕えることになった理由を「算術巧者」であったからと記しています。「書物抔之講釈」なども担当したようです。博学だったのでしょうか。誰に算術を教え、書物講釈などをおこなったかといえば、もちろんそれは藩主内藤政樹であったことはいうまでもないでしょう。内藤家では、享保15年に奇才と謳われた久留島喜内義太(?-1757)を算術家として召し抱えていましたが、その久留島の推薦で松永良弼の任官が決まったように思われます。もっとも内藤家では、松永の「算術は喜内抔程には無御座候」と伝わっていますけれども、藩主の内藤には松永に何か期するものがあったのかも知れません。

 内藤政樹は磐城平藩第6代藩主でありました。しかし、領内で発生した大規模な「元文百姓一揆」への対応が幕府によって問題視され、延享4(1747)年、日向延岡藩に転封になりました。松永の没年は延享元(1744)年ですから、それは藩主が延岡へ転封になる3年前であったことになります。したがって、松永良弼が内藤政樹へ算術教授をおこなった期間は、享保17年から延享元年までの12年間になります。

松永良弼と藩主内藤政樹との間に『絳老餘算』と題する大部な算術書が編纂されています。これ冒頭には、

 

仰松軒君撰 臣松永良弼奉教編次 山路主住同校

 

とあります。編纂年記はありませんが、仰松軒は内藤政樹の号であることはいうまでもありません。つづく識語から、内藤の家臣である松永が算術を進講して編集したものが本書であることを教えてくれます。また、このとき松永の門人として山路主住(1704-1772)がいたことは注意をしておく必要がありましょう。

この『絳老餘算』のなかで筆者がとくに惹かれることは、「草術」6巻の内の巻2に現れる用語「楕円」についてです。同巻「巻之二下」は算題を「求積」と称して、様々な平面図形の面積を求める問題を列挙しているのですが、第23問目が楕円の求積になっています(写真参照)。問題文などを翻刻しておきましょう

 

廿三

一 楕円有、長径一尺二寸、短径九寸、積幾何と問

答曰 八十四寸八分二厘三毛二糸

術曰 長と短と相乗して得る数に円積法を乗して積を得、問に合す

但し、是を側円と云、又、促円とも縮円とも云。又、次の帯直円と異なり。

 

http://www.i-repository.net/contents/tohoku/wasan/l/f026/02/f026020034l.png?log=true&mid=undefined&d=1496107438048

写真1 『絳老餘算』草術巻二下の「求積」問題

 

 近世日本の数学では楕円は側円と呼ばれてきました。もちろん、側円に代わる別の用語もありましたが、関流では側円が一般的でした。享保11年に中国清朝から『暦算全書』が伝わったことはすでに詳論いたしましたが、実は、用語楕円もこのとき『暦算全書』の用例に伴って我が国に移入されました。『暦算全書』の訓点和訳を担当したのは中根元圭、その訓点和訳本に序文をつけて8代将軍徳川吉宗に献上したのは建部賢弘でした。それは享保13年と享保18(1733)年のことでした。以来、『暦算全書』の天文暦学と数学は日本の数学者の間に広まっていくようになりますが、用語楕円もその一つになりました。ただし、楕円の作図や焦点などの研究はもう少しあとのことになります。刊本での最初の用語用例は、明和6(1769)年の有馬頼徸の『拾璣算法』でしたが、写本では『絳老餘算』が最初であったと思われます。

もっとも全ての和算家が側円から楕円に切り替えたわけではありません。古い時代からの用語を使う人もいました。しかし、時代と共に新用語を好む人々も出てくるようになりますが、転換期は幕末を俟たなければならないといえます。ちなみに、先ほどの楕円の求積問題の補足の最後に付いていた用語「帯直円」ですが、これは円の直径に対して平行に、同じ矢の長さで両側を切り落とした図形を指しています。

 

                ( 以下、次号 )