さて、松永良弼の『方円算経』の解説はひとまずおくことにいたします。話題を変えて近世日本数学史における証明について考えてみたいと思います。近世日本の数学では解答に証明が付けられることは全くといっていいほどありません。このことは近代以前の東アジア数学の典型的特徴といってよいのですが、では、直感だけにたより、証明を無視していたと断言することも危険です。この点に関して、つまり東アジアの数学証明の在り方については伝統的数学文化圏の数学思考法の枠組みの中での再検証が日中数学史家の手によって始められています。その研究成果に期待したいところです。
実は、松永良弼の著作のなかには証明が載せられた問題もあります。稀少な事例といえますので取り上げてみたいと思います。成立年紀不明の著作に『円中三原適等』があります。これは「松永良弼著述」とありますから、名字が寺内から松永へ代わった後の著述になると思われますが、この数学写本のなかに初等幾何に関する証明が登場しているのです。原文を引用しますが、全問3問のうち第1問の問題と図はつぎのようになります。
今如図、円中容二斜、卯ヲ云、乙ヲ云、辰ヲ云。問角斜。
答曰
術曰、列卯乗乙為実。以辰除之得角、合問。
この問題は、左の図において直交する二本の弦が与えられ、交点で切り結ばれる
線分を卯、乙、角、辰とし、卯、乙、辰が与えられたとき、線分角の長さを求め
よ、というもので、
答は、
で求まるとしています。この術文に続けて、「解曰」としてこの式が成り立つことの証明が載せられています。そのための図解もあります。少し、現代的に書き換えながら原文を見てみましょう。
解曰、如図円中容二斜、卯因乙者角因辰ナル解、如左。
辰巳和冪之形 子丑+子2 … 甲位
此式、亢ヲ勾ト見、氐ヲ股ト見、子丑和ヲ長弦ト見、
子ヲ短弦ト見テ、得ル辰巳ノ和冪。
小矢ノ形 子-卯 … 乙位
小矢、則上ノ矢ナリ。
下ノ矢ノ形 卯+丑+子乗乙位為巳冪
巳冪形 子丑+子2-丑卯-卯2以減甲位、為巳二段辰
一段和因辰、則角ノ因ル辰ナリ。
第1問はここまでです。ここまでの計算過程はつぎのように理解できます。
まず、辰巳和冪之形ですが、これは
(辰+巳)2
を表していますが、図形の相似から
(辰+巳)2=子丑+子2 … (甲位)
とする書き換えができます。この式の説明が文中の「此式、亢ヲ勾ト見、氐ヲ股ト見、…」の部分にあたります。また、小矢は、
小矢=子-卯 … (乙位)
で得られます。下の矢の形すなわち(卯+丑+子)に乙位を掛かれば、
(子-卯)(卯+丑+子)=AB2=巳2
となります。この式は、上の図にAB(=巳)の記号を容れて置きましたが、つまりはBを直角に持つ直角三角形(直径=上の矢+下の矢)を想定して、相似比から導いているようです。
巳2を展開しますと、
巳2=子丑+子2-丑卯-卯2
これを以て、甲位から減じれば、
辰2+2辰巳=丑卯+卯2
従って
辰(辰+2巳)=卯(丑+卯)
を得る。故に、
角×辰=卯×乙
更に、この関係式が成り立つための別証が図解と併せて以下のよう続きます。先出の問題でもそうですが、この時代、等号を表す記号(=)はまだありませんので、そのことを承知のうえで以下の「解」を見てください。最初に説明した問題に=記号が無いことも同様です。
解
申×亥=卯×径 …東 申×丙=辰×径 …冬
丙×戌=乙×径 …江 戌×亥=角×径 …支
東江相乗者為径冪因卯因乙=申丙戌亥 …右
冬支相乗者為径冪因角因辰=申丙戌亥 …左
此式見左右適等也。故卯因乙者角因辰
このあと、2問続きますが、繁雑になりますので以下では問題と結果だけを紹介し、若干の解説を与えるだけに留めたいと思います。図も省略します。
第2問はつぎのように与えられています。
今如図、円中容三斜、小斜云、中斜云、大斜云、問円径。
答曰。
術曰、別求中勾、列小斜乗中斜為実、以中勾除之、得円径。
この問題は、円に内接する三角形ABCが与えられ、頂点Bから対辺ACに下ろした垂線の長さをBDとするとき、円の直径を求めよということになります。術文は、
(AB×BC)÷BD=円径
となっていますが、これはAB×BC=円径×BDであることを表しています。
第3問はつぎのように与えられています。
今如図、円中容二斜、甲斜若干、乙斜若干、丙斜若干、問丁斜。
答曰。
術曰、列甲斜乗乙斜、得数以丙斜除之、得丁斜、合問。
問題は、第1問が円内に二直線が直交する場合であったのに対して、ここでは直交しないときの線分の長さを求めることを問うています。術文は、
甲斜×乙斜=丙斜×丁斜
で求まるといっています。これは、ほうべきの定理になりますね。
これら3問の証明では、相似比と三平方の定理が使われますが、その善し悪しは別にして、初等幾何の問題であっても証明という発想が顕在したことは特筆すべきできごとであったといえましょう。その一方で、問題や術文などを詳細に観察していると少し面白いことに気がつきます。第1問と2問では、問題の条件として使われる用語が「云」であるのに対して、第3問では「若干」が使われています。著者のなかでなにか意識変化があったのでしょうか。また、「適等」という用語は式の左辺と右辺が等しいことを意味していますが、江戸時代末にはこれが方程式でも一般的に使われるようになります。
松永良弼の幾何学研究では『求積後編』と題する論文があります。この論文は『大成算経』の「求積」で扱われなかった、特殊な立体図形の体積の求め方を論じたものですが、ここには正多面体と準正多面体が登場します。また、星形正多面体の議論もあります。では、証明はと問えば、残念ながらありません。このちぐはぐさがなんとももどかしいところです。『求積後編』の成立年紀は不明ですけれども、梅文鼎の『暦算全書』の影響のもとに表された一冊であることは間違いありません。以下では内容を簡単に紹介することにします。
第一は拗台です。拗はねじる、ねじれるの意味ですが、単純にいえば、ここでは立体を構成する側面の図形が互い違いなっているものを指しています。内容的には、三角拗台、四角拗台、五角拗台の求積が議論の中心になります。第二は雑形で、綦馬台、三斜錐が取り上げられています。第一も第二も計算はなかなか厄介です。第三が等面です。ここでは三角四等面(正四面体)、三角八等面(正八面体)、三角二十等面(正二十面体)、五角十二等面(正十二面体)の体積計算がおこなわれています。正四面体は出ていませんが、自明の理だったのでしょう。ところが、五角十二等面の求積公式が示されたあとに面白い立体が登場しています。問題を挙げておきましょう。
今有三角六十等面、方面各一十寸、問積
これは「正六十面体」の体積を求めよといっているのですが、どのような立体形になっているのでしょうか。松永はこれをつぎのように説明しています。
解曰、是五角十二等面之外接出五角錐之方、梁均等者也。
この説明によれば、「三角六十等面」は五角十二等面(正十二面体)の各面に、この一面と同じ正五角形を底面にもち、かつ斜辺の長さが正五角形の一辺に等しい正五角錐を十二面に貼り付けた立体だ、といっているのです。星形あるいはこんぺい糖のような立体といえるでしょうか。この説明に続けて松永はつぎのようなことも指摘しています。
故楞有高起者(六十梁者在于外)、楞有伏者(三十梁者却在于内)形不同于前諸等面也。
最初に出てくる漢字の楞は梁に同じです。ですから、この文章の意味は、正五角錐が五角十二等面体の外側に突起している場合の星形の楞は60梁を数えるが、角錐が五角十二等面体の内側に突出した場合の楞は30梁の星形となる、したがって、この正多面体の外側あるいは内側に付置する星形の立体は等面体とは同じではない、ということになります。松永が星形の辺数が多面体の外側に付けられる場合と内側のそれとで辺数が変わることに着目したことは注意を要するでしょう。そして、さらに一言付しています。
田村氏豊矩当作此図、以示予。故為作此術。
この発言から、最後の多面体は田村豊矩という人物が作図して松永に示したことを契機として研究したものであることも分かります。田村豊矩は『算術珍好大海集』という算題集を編纂した数学者でありますが、多くことは分かっていません。でも、作図したとあることは興味深いですね。
正多面体が正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の5種類に限られていることが分かっていれば、最後の三角六十面体のような議論は起きなかったと思われます。ですから、のちの近世日本の数学者は、三角六十等面のように我が儘に正多面体の外側に立体を付けることは正しくないと非難することになりました。これは準正多面体の場合も同然となります。このように非難したのは関流四伝の藤田貞資でした。
さて、第四が混象台です。混は混ざる、象はかたちの意味です。ですから、混象台は形が混ざった立体の意味になります。ここでは、これが準正多面体を表しています。形だけ紹介することにしますが、立体はすべて準正多面体を構成する角面とその面数で表現されています。なお、( )書きは原文にある補助説明です。
(1) 三角四面六角四面等台(六角切子)
(2) 三角八面四角六面等台(方切子)
(3) 四角六面六角八面等台
(4) 三角二十面五角十二面等台
(5) 五角十二面六角二十面等台
(6) 三角二十面十角十二面等台
(7) 三角八面八角六面等台(八角切子)
以上7体ですが、アルキメデスが研究した準正多面体の数と比較すると我が国のそれは少ないようです。ところで、サッカーボールの模様は上のどれに当たるでしょうか。
松永良弼が多面体の研究をおこなう以前の近世日本数学でも正多面体と準正多面体の研究はありました。蕎麦形や切子と呼ばれるものがそれにあたります。双対原理にもやや関心をもった感もありますが、とくに発展はしませんでした。勿論、オイラーの定理に到達することもありませんでした。オイラーの定理は、面数をF、頂点の数をV、辺数をEとするとき、F+V-E=2とする関係が成り立つことを指します。しかし、近世日本の数学者がこうした諸量の関係に関心を抱くよりも、如何に正確な求積公式を得るか、いかに精密な体積計算をするかという点に集中していたところにも、東アジアの数学的特徴を見いだすことができると思えます。『求積後編』の最後にそれらの求積公式が一覧されていることもその現れでしょう。
松永がこのような正多面体と準正多面体に関心を抱く以前に西洋でもこれら立体の研究が盛んにおこなわれていました。かれらの研究には星形多面体も含まれていましたし、それの内側の場合の研究もおこなわれていました。それらはイラスト付きで解説されていましたから、ひょっとすると松永も『暦算全書』以外の西洋の研究書物に触発されて研究を進めたのかも知れません。勿論、その前提として『求積』があったことは間違いないのですが。ちなみに『暦算全書』の準正多面体の研究は僅かに2個でした。1つは「方燈体」、もう1つが「円燈体」と呼ばれる立体です。前者は日本の数学者が「切子」と呼んだもので、後者は松永の呼称では「五角十二面六角二十面等台」にあたります。
( 以下、次号 )