和算入門


藤田貞資は寛政元年(1789)に『神壁算法』2巻、文化3(1806)に『続神壁算法』を刊行しました。これら2冊はいずれも全国の神社仏閣に奉納された数学の絵馬、算額に載せられた問題を収録して世に公刊したものでした。この和算入門では算額のことについてはまだ触れていません。いずれ取り上げることになりますが、近世日本の数学の風習として、諸国の神社仏閣に算額を奉納する風習があったことを承知しておいてください。西洋世界や和算の本家にあたる中国数学などには生まれなかった特異な行為でした。

藤田貞資が活躍していた時代に、最上流を創設した会田安明との論争の影響もあって、諸国に算額を奉納することが一層盛んになりました。奉納先となる神社やお寺は有名無名を問いません。大都市もあれば山間僻地(ちょっと言葉は差別的ですが)の大小の寺社を奉納先に選んだのです。

奉納する数学者も千差万別でした。でも、先生が弟子を指導するという関係で奉納が進められたようですが、藤田貞資は門下生が奉納した算額を集めて、あるいは先生の藤田が掲額を指示した可能性もありますが、それらを算額集として刊行したのです。藤田らの刊行以前にも算額を紹介する数学書はありましたが、誌面の全部が算額一色で埋め尽くされることはなかったように思われます。その意味では、画期的な企画といえて、以後に出版される算額集のモデルになったように見えます。

 

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写真1 『神壁算法』の封面題(東北大学林文庫蔵)

 

参照文献として掲載した写真1の『神壁算法』は東北大学の林文庫が所蔵するものです。これの封面題(これは表紙の見返しに付けられた書名を意味する書誌学用語です)には「龍川先生撰 増刻 神壁算法」と「藍水先生著 解惑弁誤」とする二つの数学書のタイトルが書かれています。いま、筆者は萩野公剛氏の『神壁算法の初版本』(富士短期大学出版部、昭和42)で紹介された封面題も参照していますが、萩野氏が初版本とする『神壁算法』には「増刻」の二字こそありませんが、その左側に『解惑弁誤』は載せられていることは同じです。そして、荻野氏の本と写真1の刻印をよく見てみると、まったく同じ活字体であることが分かります。しかし、写真1の印字を改めてみて眺めてみますと、「増刻」の文字の筆遣いがやや細いようにも見えます。そのように見えてきますと、写真1の封面題に関しては初版の『神壁算法』の版木に「増刻」の二文字を埋め込んで刷ったのではないかと想像できます。

封面題の左側に載る「藍水先生著 解惑弁誤」と題する数学書のことは後で述べることにしますが、これは関流藤田派と最上流との間で論争が起きたとき、藤田の高弟であった神谷定令が会田安明を批判するために出版した数学書になります。なぜ、『神壁算法』に書名が出たのか、その背景は俄には分かりませんが、自派の宣伝の意味があったものと思えます。しかし、『解惑弁誤』は寛政2(1790)に版行されたといますので、例え予告であったとしても、寛政元年出版の『神壁算法』の扉に書名が書き込まれることには違和感を覚えます。

さて、『神壁算法』の序文は、寛政元年己酉三月の年紀をもって、東都にいた暦算家の源誠美が認めていました。源誠美は享和2年に『天時明解』を刊行し、『補註蒙求』20巻に撰注(年紀不明)を与えたことで知られた人物ですが、精しいことは分かっていません。ついでに言い添えれば、源は『続神壁算法』にも序文を寄せましたし、藤田貞資が没して後に建てられた「雄山藤田先生墓碑」にも友人として銘文を起こしています。藤田と源の親密さが窺えるところです。さて、その源の序文ですがつぎのように述べています。漢字のルビと注は筆者が付したものです。

 

わが日本近世の人、また頗る算計を好む者あり。然ども、その人、皆、本旨を解せず、(みだ)りに奇巧を設けて、精微を(ほこ)る。朝三暮四、(すう)()(注:利益の追求に走ること)を求名す。故にその説たるや、詳しきと雖ども、遺りあり、精しきと雖ども、多く(いつわ)る。

 

と述べて、現下の数学者を批判しています。その上で、

 

今、幸いに藤田貞資なる者、関孝和の道を山路氏に受け、数学に潛心すること三十年、自ら有得するが如く言う。精要算法、一び出でて、数術、大いにその九九の術におけるや古に復す。猶、雲霧を(ひら)きて、青天を覩るがごとし。(あに)、愉快ならずや。その門人、若し事を告げ、福を求める者有れば、板に算術を画き、廟堂の壁上に奉懸す。

 

と言い、藤田の指導の下で門弟達が「板に算術を画き、廟堂の壁上に奉懸」するようになったと指摘しています。問題の難易や板() の大小などは別にして様々な算額が奉納されたのでしょう。それらを集めて一書にしたものが『神壁算法』だと述べています。おそらく『神壁算法』出版以前には、紙などに問題を書いて奉納することもあったと考えられるのですが、ここで「板」にしたことの意義は大きかったといえます。なぜなら、板であっても風化は進みますが、紙面よりは遙かに残存する確率が高くなったのですから。

 この源誠美の序文のあと、編者の藤田嘉言の自序が続きます。嘉言は算額奉納の意味をつぎのように説明しています。

 

凡、人は願いありて欲する、則ち馬を画き廟堂に献して、以て上下神祇に祷る。これを絵馬と謂う。近世の人、巧を用い、茲に天象、地輿、人倫、技芸、珍宝、器用、花木、鳥獣の象を懸けて、廟堂を盛飾すること累々かな。目に盈かな。俗に謂うところの額にあらず。それ額は廟堂の扁署にして、神号を顕明する所以なり。何ぞ混すべきや。(ここ)に我が算徒、献するものあり。ともに皆算苑の栄華なり。好事は千里を遠しとせずして、至りて采采これを争う。(以下略)

 

まず、藤田嘉言は、古来、日本人は廟堂に絵馬を奉納して願掛けをしてきたが、近世に至って「天象、地輿、人倫、技芸、珍宝、器用、花木、鳥獣」なども飾られるようになったと指摘して、近世における扁額の奉納が多様化し変化したことを認めます。しかし、いま、自分たちが奉納する額はそのような華美装飾ものとは異なっていて、「我が算徒、献するものあり。ともに皆算苑の栄華なり」であると誇っています。「数学の華苑のもっとも美しきもの」とでもいうことでしょうか。「数学の華苑」はちょっとこそばゆいかも知れませんが、嘉言の自負心が表れていると一節といえると思います。

『神壁算法』の本文巻頭は、

 

 筑州米藩算学藤田権平貞資閲

   男 藤田門彌嘉言 編

   門人 城崎庄右衛門方弘

      神谷幸吉定令   同訂

 

となっています。『神壁算法』に跋文を与えた城崎方弘は「その子、嘉言、(せい)(どう)して既に通じ、箕裘(ききゅう)()ぎ、先緒を(ひろ)め、以て難きとなすに足るとせざるなり」と触れて、嘉言の数学者としての力を高く評価しています。「成童」は15歳以上の少年(一説には8歳以上)を指す言葉ですから、嘉言はその年齢に達していて実力も備わっていたと思えます。しかし、もしそうであるならば「閲者」として父貞資の名前を登場させる必要は無かったはずですから、実質的には父が後見役として主導した見るべきでしょう。なお、藤田貞資の所属を示す「米藩」とは筑後の久留米藩であることはいうまでもありません。

 

 

http://www.i-repository.net/contents/tohoku/wasan/l/a008/10/a008100010l.png?log=true&mid=undefined&d=1514372068246

写真2 『神壁算法』上巻1丁オ

 

http://www.i-repository.net/contents/tohoku/wasan/l/a008/10/a008100011l.png?log=true&mid=undefined&d=1514372167887

写真3 『神壁算法』上巻1丁ウ

 

『神壁算法』は諸国の神社仏閣に奉納された算額を集めたものでした。その劈頭を飾ったのが写真1に見る「遠州浜松諏訪社算法一事」でした。問題は1問ですが、奉納年は明和4(1767) 春二月、奉納者は「内藤紀伊守家士 江戸永田馬場住 水野徳右衛門源喜氏述之」でした。写真2は東都芝愛宕山に奉納された算額に続いています。以降、奥州堺社、相州小田原松原社、筑後州久留米高良山など各地で奉納された算額が収録されています。以前、筆者が『数学文化』(No.242016)において全国の算額を紹介した際、この『神壁算法』の算額を取り上げて、この中に出てくる算額で「最も古いものは明和2(1765) に遠州浜松諏訪神社に掲額された算額である」としました。ここで年紀を明和2(1765) と書いたことは間違いで、明和4年が正しいと訂正をさせて頂きます。

 先に紹介した荻野公剛氏は『神壁算法』の初版本と増刻本を調べられて、それぞれに掲載された算額がつぎのようになっていると報告しています。

 

  初版本 本文11面 附録10面  計 26

  増刻本 本文32面 附録16面  計 48

また、奉納の時期についても

  初版本 明和年間 本文1面  附録0面 増刻本 本文1面  附録0

      天明年間 本文14面 附録6面     本文14面 附録 6

      寛政年間 本文1面  附録4面本文17面 附録10

 

お気づきのように、天明年間から算額の掲額が増えていることが分かります。また、増刻本でも算額の奉納が急増していて、初版本に比してほぼ倍増しています。この要因は最上流との論争が活発になったことと無縁ではないと思われます。事実、『神壁算法』の下巻では、鈴木安旦こと会田安明(17471817) が、天明元年 (1781)、芝愛宕山神社に奉納した算額問題も取り上げられていて、ここにおいて古川氏清は「鈴木氏自問自答一條これを閲す。予、術を与う。大いに異なり」と指摘していました。また、古川のみならず、藤田の弟子の神谷定令も古川の解答に対して「鈴木氏を答するは特に不可なり」などと酷評していたのでした。この鈴木安旦の芝愛宕山神社への奉納算額の問題をめぐって関流・最上流論争が起きるのですが、その端

緒になっているのも『神壁算法』であったといえることになります。

http://www.i-repository.net/contents/tohoku/wasan/l/d085/02/d085020035l.png?log=true&mid=undefined&d=1513824534449

写真4 『神壁算法』上巻 左の頁から附録になる。

 

 写真4は『神壁算法』上巻末に付く附録です。なぜここに附録が付くのか、これも不思議なことですが、ここには10面の算額が収められています。その内の9面は神谷定令の門人、1面は城崎方弘の門人による算額になっています。神谷も城崎も藤田貞資の門人として『神壁算法』の編集に校訂者として加わりました。しかし、両名とも別に門人を抱えていたので「附録」として掲載に及んだものと思われますが、師と違いを示すのであれば、それぞれが算額集を出版すればよいはずです。しかし、そうしなかったことは神谷や城崎ら門人の算額集を収めることで、藤田派の勢いの大きさを顕示しようとしたと見做すこともできましょう。

 『神壁算法』下巻で気づくことが一つあります。それは大阪の和算家内田秀富門下の算額が載せられていることです。そこでは、洛陽の清水寺と泉州左海 (注:堺のことか) 天満宮に奉納された問題にいまだ解答が与えられていないので、摂陽住吉の神社と奥津軽弘府 (注:弘前のことか) 八幡宮へ答術を納めたと述べ、容術問題二問を載せて「内田秀富門派 浪華 妻野佳助重供合爪 維時天明第五乙巳秋林鐘吉旦」として容術問題2問と天明6(1786) に内田門人の妻野が掲げた問題1問が取り上げていました。内田は宅間流の鎌田俊清の学び、宝暦5(1755) に『算用手引草』刊行して、これにおいて正6角形の辺数を201326592角形まで求め、これからπを小数点以下17桁まで計算した人でした。大阪の宅間流の継承者といえます。藤田貞資らはそのような宅間派の算額にも注意を払っていたことが窺えて、大変興味面白いことといえましょう。

30年もよろしくお願いいたします。

 

                                              ( 以下、次号 )