和算入門


 和算を数学文化史の観点から覗いてみますと、世界に類例を見ない特性を持っていることがわかります。算額の奉納、「好み」(遺題) の継承、遊歴教授、免許状の発給などがそれにあたります。いずれも西洋世界や和算の母国中国では誕生しなかった文化現象と指摘することができましょう。

この小稿「和算入門」も回を重ねてきましたが、ただいたずらに冗長な情報を読者諸氏に提供することもそろそろ終わりにしなければならないと思っています。そこで、終章に至る前に和算のもつ文化的特性について触れて、その特異性の意味と何故そうした文化が発生したのかを考えてみることにします。最初に、算額を取り上げることにします。もっとも皆さんにとって算額という用語は既になじみになっていると思います。何故なら、この小稿でもしばしば数学発展の背景の一つとして用いてきたツールでしたから。

日本には神社仏閣へ絵馬を奉納する風習が古くから育っていました。起原は、社寺に馬を奉納して諸事を祈願することだったのですが、馬の献納は大変でしたので、換えて簡便な絵馬になったといわれています。では、諸事祈願の内容はと問いますと、時代や場所によって多種多用であったと指摘できます。物騒な話ですが、戦時に際しての願掛けといえば、戦勝祈願、武運長久や武芸上達、さらには戦勝記念として絵馬を奉納したようです。一方、平和な時代では学問成就、商売繁盛、家内安全や病気平癒など個人の願いが額になって奉納されました。現代では交通安全などもありましょう。

讃岐の金比羅宮では航海の安全を願う絵馬が奉納されています。境内の絵馬堂には全国各地の海運関係者が奉納した大小たくさんの船の絵馬が見られるのですが、ちょっとした船の博物館的な趣が味わえます。船の絵馬といえば、寛永11(1633)、京都東山の清水寺に奉納された角倉了以ら一族による御朱印船図 (重要文化財指定)は、時代としての価値や美術品としての重要性は筆頭にあがるかも知れません。絵馬は、この年にベトナムの東京(トンキン)に派遣された御朱印船を描いているのですが、戸時代初期の国際貿易の様子と貿易船の構造がよく分かる貴重なものになっています。やはり、寛永9(1632) に同寺に奉納された末吉船の絵馬もいうまでもありません。彼らは貿易の成功と航海の安全を願っての奉納に及んだのでした。

武芸では剣術試合の結果などが木刀や弓矢とともに額にして奉納されました。京都東山にある三十三間堂では境内で行われた矢通しの結果(本数)が額にして講堂内に掲げられています。これらの額を見ていますと、江戸時代にたくさんの強者が通し矢に挑んだことがよくわかります。三十三間堂での矢通しは現在でも重要な年中行事として行われていることは皆さんも承知のことと存じます。また、鉄砲による的当て競射の結果も額になりました。銅板や鉄板に刻まれた弾痕を額にしたのでした。

俳句の額もあります。これも江戸時代から盛んに奉納されていたようで、夥しいほどの額が全国に掲げられているのですが、風化が激しく読めなくなったものがほとんどですけれども、日本人に染みついた俳句文化の奥深さが窺えるようです。句額で筆者が最近驚いたのは、埼玉県児玉郡神川町にある金纉神社の手水場に立派な額が掛かっているのですが、それがなんと現代俳句の巨匠金子兜太とその門下生によるものだったことでした。金子氏は埼玉県出身ですから、なにかを記念しての奉掲であったかも知れませんが、それにしても現代俳句も近世の掲額習慣を継承しているのだと感じ入ったのでした。

 

写真1 京都北野天満宮境内の絵馬

 

上記のように、現代でも絵馬奉納の風習は続いるのですが、ある意味では現在がもっとも盛んな時代といえるかも知れません。写真1は京都の北野天満宮境内で見られる絵馬奉納の風景です。ほとんどが受験生による合格祈願の絵馬で、その数は計り知れません。北野天満宮は学問の神様と崇められる菅原道真公が祀られていますので、全国の受験生が殺到して絵馬を奉納していくのです。まさしく現代絵馬奉納の象徴といえる光景かも知れません。

しかし、注意しておかなければならないことは、奉納絵馬は願掛けが終われば(満願成就すれば)、美術品的価値が認められる絵馬を除いて、そのほとんどが下ろされ焼却される運命にあったことです。ですから、世の中には失われた絵馬がたくさんあったという事実が存在します。

算額は一言でいえば、数学の絵馬です。額面に問題と答え、そして術文が書き込まれました。幾何学の問題では図形も描かれるのですが、図は赤、緑、青、白など鮮やかな色をもって彩られるものありました。人目を惹くための工夫といえましょう。代数の問題では額面に方程式を表すための算木を貼り付けたものもありますが、これもやはり人の目を惹きつけようとする奉納者の意図が見え隠れしているといえます。問題や術文は、東アジアの伝統数学の様式に従って漢文で書かれるものがほとんどです。しかし、なかには平仮名や片仮名書きで問題などを書いたものもあります。この小稿『和算入門』(2)で漢文と片仮名書き、そして平仮名混じり文の歴史的役割の違いについて触れたことがありますが、算額にもそうした傾向が表れているかも知れません。こうした側面からの分析は今後の研究課題といえます。

また、額面には問題だけでなく、序文、奉納者名、奉納年紀、門人や後援者の氏名が書かれ、加えて揮毫に及んだ人物の名前が記されるのも常でした。勿論、揮毫者の立派な落款も捺されました。特に、門人や後援者については額面全体に彼らの居住地と名前がびっしりと書かれているものもあって、見る者を威圧する感のある額もあります。額縁にも意匠が凝らされました。算盤を額縁の全体に貼り巡らせたものもあれば、額縁が彫刻による龍の文様で仕上げられているものも存在しています。こうなりますと最早数学の絵馬ではなく、美術品としての価値をもつ算額といえることになりましょう。

 

写真2 北野天満宮絵馬所の内側

 

先に挙げた京都の清水寺や北野天満宮など全国的に有名な神社には算額が多く奉納されました。その一例を紹介しましょう。写真2は北野天満宮の境内にある絵馬所の内側の写真なのですが、大小たくさんの絵馬が掛かっていることが見て取れます。しかし、内部はあまり光が入ってきませんので、どうような絵馬であるのかの判断はなかなか難しくなります。風化が進んだ絵馬はなおさらのことです。

 

写真3 北野天満宮貞享3年奉納の算額

 

 昭和57(1982)、小山高等専門学校教授の松崎利雄先生はこの絵馬所を訪ねた際、奇妙な額があることに気づかれました。写真2のちょうど真ん中あたりにある額がそれで、先生には算額のように見えたのでした。このとき先生は公務中であったため即時の調査が叶わず、在京の研究者に連絡し調査を依頼したところ、算額であることが判明したのでした(上の写真3)

この算額は、貞享3(1686)、今西小七郎重之、飯田武助正成と木下某の三人によって奉納されたもので、当時和算家の間で流行していた「好み」の問題を解いて奉納に及んだものでした。これが算額であると気がつかれなかった大きな理由は、貞享3年に今西らが奉納した額の上に、宝暦4(1754) 11月、絵師の奥村傳次郎が金箔地に梅林を行く牛に跨がる笛吹童子の絵を絵馬として奉納したために、もとの算題がまったく隠れてしまったことによりました。いわば算額の再利用だったのですが(再利用は算額だけに限らないかも知れませんが)、その表面の絵具が剥落したことによって、下地となった算額の問題が部分的ではありますが、出現し発見に及んだのです。消えゆく算額の中にあっては幸運な事例といえるかも知れません。そして、発見が比較的近年であったことの理由は、笛吹童子の絵の下に算題があるとは誰も想像しなかったことにもありますが、この額が絵馬所の高いところに掲げられていたことも見落としの一因になったといえましょう。こうした調査の結果、貞享3年、北野天満宮奉納算額は現存する算額の中で2番目に古いものであることも分かりました。では、最も古い算額はどこにあるのでしょうか。栃木県佐野市の星宮神社に現存する算額がそれになります。星宮神社の算額については次回取り上げることにいたしましょう。

なお、北野天満宮絵馬所にはもう一面算額が掛かっています。明治12(1879)8月、京都の算学者で正五位の官位を持つ三室戸治光と豊後臼杵の算学者新名重内、及びその門下生によって奉納されたものなのですが、幾何学問題を扱った算額になっています。この額は絵馬所内部でも低いところに掛かっていますから、すぐに見付けることができます。機会があれば是非訪ねてみてください。

先ほど算額の奉納先が全国の有名な神社仏閣といいましたが、誤解を招かないために付言しておきますと、算額は諸国の僻村のお堂などにも、さらには自邸の祠などにも奉納されていた事実があります。更には板に細工を施すことが主になりますが、紙片に書き綴って奉納することもあったようです。また、算額と呼べるかどうか難しい側面もありますが、庚申塔などの一種として石塔に算題を刻んだものありました。寺社の格天井にも描かれました。このように見てきますと、近世日本数学は多様な展開をしていたということが可能です。このような小事は一見見落としがちですが、近世日本数学の特性を理解する上での重要なファクターになり得ると承知しておく必要があるでしょう。

                                 ( 以下、次号 )