和算入門


近世日本における算額奉納の風習は、17世紀中葉の寛文年間(16611672) に始まったと思われます。そのような奉納算額は、単発的な掲額ではなく、そこかしこの神社において観ることのできる日常的な風景になっていたようです。

福島の二本松藩にいた算学者礒村吉徳の弟子に村瀬義益(未詳) がいました。村瀬は延宝元年(1673) に『算法勿憚改』を出版していますが、これの巻之五の27丁オ~29丁オにかけて「目黒の好」と題する一文を掲載しました。「目黒」とは、東京都目黒区下目黒の天台宗泰叡山瀧泉寺のことで、不動明王を本尊とすることから目黒不動と呼ばれ、江戸三大不動また江戸五色不動の一つに挙げられる有名な寺院のことです。「好」は、この入門でも幾度となく紹介してきた解答なしのチャレンジ問題であることはご存じでしょう。ここにおいて著者の村瀬は、目黒のお不動さんに奉納された「好」の問題だけでなく、いろいろな「好」の問題が各地の神社に算額として奉納されていることやなぜ算額が奉納されるようになったのかなどについて詳細に語ってくれています。近世日本数学史に残る貴重な歴史的証言と言えますので、以下に村瀬の述べるところを引用してみたいと思います。ただし、引用文中の句読点は筆者が便宜的に施したものであることをお断りしておきます。

 

或人之云、武州目黒不動江参詣之節、宝前に数術を好て掛侍る。其好ミ法付也と。(中略)扨又時之はやり事にや、惣而爰かしこの神社に算法を記掛侍る事多シ。絵馬のことくならハ、諸願成就の文有べし。さなきときハ、勘智自讃か。いかなるゆへぞやはかりがたし。但、湯嶋の天神の御宝前に児童の手跡にて、古語詩歌などを書て掛侍る也。是ハ年の程よりおとなしきと賞てかけさせ侍ると見へたり。算術も此心にて、その人の勘智よりもよき工夫也とて、其師匠是ヲゆるしてかけさせ侍るか。その益有事をしらず。

 

村瀬の述べるところを要約すればつぎのようになりましょう。

 

「或人」の言うところによれば、武州目黒の不動尊へ参詣したところ「宝前に数術を好て掛」ける額があった。その額をよく見てみると「好み」に「法」(解答)を付けたものであった、と。

 

この後、村瀬は算額になった問題とその解答を批評したうえで、算額の奉納が流行していることや掲額に至る背景などを考察するのでした。村瀬の言うところの要約を続けましょう。

 

いま、数術を額にして奉納することがはやり事になっていて、江戸市中の神社に数術の額を数多く見ることができる。もし、数術の額が絵馬の意味で奉納されているのであれば諸願成就の願文が書かれるはずであるが、そのような文章がないことから察すれば、奉納者による自画自賛のための掲額かも知れない。しかし真意は測りかねる。湯嶋神社では児童が宝前に古語や詩歌を書いて奉納することがあるが、これは子どもの年齢に比して手跡が上達していることを賞めてのことである。算術の奉納もこれに似たものかも知れない。その人の数学的能力よりも解答に工夫があることを賞めて、師匠の許可を得て奉納しているのであろうか。ただし、どれだけ御利益があるかはわからない。

 

村瀬の言いようでは、算額を奉納することはいまや「はやり事」になっていて、江戸市中の神社に数多の算額を観ることができるようになっていたのでした。換言すれば、算額奉納は状態化していたと言えることになりましょう。ただし、このことは江戸だけでなく、京都や大坂でも同様だったようです。『算法勿憚改』は延宝元年に刊行された数学書ですから、「目黒の好」のことはそれ以前の寛文年間の状況を反映しているとみて良さそうです。この文章の冒頭に算額の奉納が17世紀中葉に始まったと記した理由がここにあります。

そして村瀬はなぜ算題を奉納するのかという難題の考察に挑みます。まず、算額が絵馬であれば古代からの風習にしたがって願文があるはずだが、それは書かれていない。しからば算額の奉納は多少数学ができる者の自画自賛のためかと揶揄しています。その一方で、江戸の町では菅原道真を祀る湯島神社 (湯島天満宮、通称湯島天神) に児童が古語や詩歌を書いて奉納することがあるが、これは児童の手跡や学力の向上を賞えてのことであるから、算額の奉納もその一種であるかも知れないと指摘します。しかし、奉納したからと言って「御利益」、言い換えれば数学力が伸長するとは限らないと冷ややかに言い放つところは、村瀬の偽らざる心情かも知れません。

『算法勿憚改』が伝えるような江戸での算額奉納の流行は地方にも広がっていたようです。同書の出版から10年後の天和3(1683) の仲夏(5)、栃木県佐野市の星宮神社に一面の算額が奉納されました。これは江戸の住人の村山庄兵衛吉重が奉納したものですが、現存する算額としては日本で最も古いものになります (写真1参照)

写真1 星宮神社複製算額

 

では、この星宮神社の算額はどのような内容のものだったのでしょうか。以下少し長くなりますが詳細に見ていくことにしましょう。まず、算額の冒頭に「算術成就所」と大書きされています。この書題からして、算額が奉納者村山による「数学成就」の祈願額であったことが推測できます。そして、この算額が数学成就祈願のためであったことは続く序文の中でも示されるのですが、村山はそのことをつぎのように綴っています。

それ万物は一より生ス。事々積テ、亦一也。其理大にして陰陽の変合五行つらなるの徳、なを数の一道をはなれす。故に、人性、日月の捨へからさるの元ならすや。然に、予、当社の地下にして出生、少年より此道をまなひ、漸其半にもいたらすといへとも、此三問に法術をあかし、其後に一箇の好を附事極。他をうかかふの難問にあらねは術式をまつとしはあらす。只徒に塵のみつもらん年月の未、数学の便ならんか。

 

村山の序文を解説しておきましょう。まず、万物は一より生じ、様々に変化してその結果は再び一に戻る、と言います。そして、万物の変化の理は広大にして陰陽五行の徳に連なり、五行の徳もまた数術と一体をなしているから、数術は人の性や日月の運転の変化と同様に捨て去ることのできない根元なのだと続けます。まさしく数術有用論を説いていると言っても過言ではないでしょう。こうした数術の有用性を強調した上で、村山の出自と星宮神社への算額奉納の理由を明らかにしていきます。ここにおいて村山は「予、当社の地下にして出自」であると公言します。「予」はいうまでもなく村山吉重のこと、「当社の地下」の「当社」は佐野市星宮神社のことであり、「地下」とは地元の人を意味しています。ですからこの文脈に従えば、村山は星宮神社の氏子の家に生まれた可能性があることになります。このように佐野の出身であることを明らかにした上で、あらためて「少年より此道をまなひ」と言っていますから、少年時代を佐野で過ごし、「此道」こと算術を学んだということになります。ただ、算術を学んだのが当地佐野であったのか、また他所であったのか、この辺のことは判然としませんが、少年期を佐野で過ごしたことが算額奉納の理由になったことは確かでしょう。そして、算額奉納の時期に親類縁者が星宮神社の周辺にいて、こうした縁者からの勧めもあって掲額に及んだことも考えられます。ともあれ、村山自身は何らかの理由で、場合に依れば算学修養のためかも知れませんが、江戸に出ることになったようです。江戸出府の背景も村山は多くを語っていませんから、推測する以外にありません。しかし、数学の修行を続けていたことは事実のようです。そうした研鑽努力の結果を「其半にもいたらすといへとも」すなわち道半ばにして未熟な者ではあるが、「此三問に法術をあかし、其後に一箇の好を附事」として、算額の奉納に及んだのだと言っています。おそらく、村山が修行していた時代に「三問」の「好み」(遺題) に出会ってこれを解くに成功したのでしょう。きっと嬉しかったに違いありません。そこで最後に自分が作った「好み」一問を加えて算額に仕立て、後学の回答を待つことにしたと述べて序文は終わっています。

 星宮神社の算額の問題は全部で4問載せられていますが、2問は土木・測量問題、残り2問は直角三角形に係わる問題になっています。それらのうちの最後の問題が問題のみで術文のない「好」になっています。そして、算額の最後に「武州江戸住 村山庄兵衛吉重」とは書かれますが、どのような系統に属する数学者であったかなどの情報は全く記していません。残念なことです。これらの4つの問題については、小山高専の教授であった松崎利雄先生が『栃木の算額』(筑波書林、2007)で詳説されていますので、以下に先生の著作をお借りして紹介することに致します。いずれの問題も図は省略しましたから、写真1に掲載した算額を参照するか、または先生の著作を繙いてみてください。

 1

馬踏(上の幅)3間、根置(下の輻) 6間、竪(高さ)4間、長さ80間の堤防を築く。人足を2,880人、採上場までの距離を6町として何日かかるか。ただし、11日に8里を歩き、1(1立方間)の土の荷数(1回に運ぶ上量が1)275とする。

   答 5日と4.3746…時

2問:

120間、横21.5間の長方形の土地に、図のように幅3間の道を開け、残りの面積を前・左・右の長方形に3等分するとき、各長方形の縦横の長さを求めよ。

3問:

=云和、×=云相乗とする2つの量が与えられたとき、各々の長さを求めよ。答 1703方程式を解いてを得る。

4(好み)

直角三角形内に円形の穴があるとき、( (外積)A、および股-鉤=BとするAB2つの量が与えられたとき、各々の長さを求めよ。

 

3問の答えには驚きますね。17世紀後半の日本の数学者は高次の方程式をどのようにして解くか、この難問の解決に腐心していました。後に「算聖」と称揚される関孝和は『発微算法』(1674年刊)を著したとき、第14問は1458次方程式を得て解くと言っていました。加えて補助の未知数を消去する方法を見付け出すことこそが数学の妙旨であり、数学者がもっとも学ぶべきことだとも強調していました。村山は1703次方程式を解けば、股の五乗根を得ると言うのですから、関の「演脱之法」を理解していたのでしょうか。推測の域を出ませんが興味深いところです。

 さて、村山吉重が佐野の出身であり、江戸に出て算術の修養に励んでいたことは先ほど述べた通りですが、ここで改めて星宮神社へ算額を奉納することになった経緯を顧みておくことにします。星宮神社の社史によりますと、同神社は社殿の破損が目立ってきたため、天和3(1683)の正月に関係者から寄付を集めて社殿の改修を行い、同年515日に棟上、同年524日に遷宮を行ったと伝えています。すると、村山による算額奉納は天和3年仲夏のことでしたから、掲額は星宮神社の新築遷宮に併せてのことだったとなります。この時期、村山は江戸にいて一角の数学者になっていたのでしょう。その村山が郷里の神社の新築遷宮の話を聞くに及んで、あるいは関係者が願い出たのかも知れませんが、いま江戸市中で流行っている算額奉納を行うことで遷宮に華を添えるようとしたのでしょう。そうした行動が、結果として、日本最古の算額が星宮神社に存在することになったのですから、何が縁になるのかまったく不思議な感じがするところです。

 いま、星宮神社の算額が日本で最も古いものと書きましたが、この当時奉納された算額でいま残っているものを列挙してみるとつぎのようになり、星宮神社のそれが最古であることが分かります。以下に5面だけ取り上げてみます。

 

1.天和3(1683)仲夏 佐野市星宮神社

    2.貞享3(1686)    京都市北野天満宮

    3.元禄4(1691) 5 京都市八坂神社(平成5年国指定重要文化財)

    4.元禄8(1695)正月 鶴岡市遠賀神社

    5.元禄14(1701) 8 武生市大塩八幡宮

 

実は、不幸にして星宮神社の算額は昭和50年の火災にあい焼焦してしまいました。しかし、不幸中の幸いであったことは、罹災はしたものの完全に焼失することはなく、算額の正面が炭化するだけで済んだことでした。ですから、判読は苦労しますが原文を直に見ることは可能なのです。そうした意味からも星宮神社の算額は現存していると言うことができるのです。また、被災する前の調査で全文を読み取っていたことも幸運でした。それらを基にして、現在では写真1に見るように、昭和58年に複製された算額が公開されるようになっています。この星宮神社の算額の歴史にも文化財保護の重要性を考える一コマが含まれていることは言うまでもないことでしょう。

17世紀の中頃から後半にかけて奉納された算額は、「好」に解答を付け、新たな問題を「好」として算額にしたものがほとんどのように見えます。残された古写本などを調査してみるとそのことがよく分かります。この事実は、裏を返せば数学者は他者の研究に注意を払い、常に鋭い視線を送っていたことにならないでしょうか。また、そうした最新の研究情報が交換できるネットワークができていたことも示唆しているようです。「好」対「好」による対決構造から抜けだし、全く異なる真の研究発表の場として算額が用いられるようになるのはもう少しあとの時代のことでした。それは、他方として、数学の大衆化という時代の変化とも関連していたように見えてきます。いわば算額が爆発的に全国の神社仏閣に奉納される時代の到来でもありました。ことに江戸時代後期における算額奉納の全国展開については次回触れることにいたします。

                             ( 以下次号 )