和算入門


元年(1781)12月、東都北本所表町に居住していた和算家鈴木安旦が芝愛宕山に一枚の算額を奉納しました。この時、鈴木が奉納した問題は『神壁算法』下巻の「所懸于東都愛宕山者一十四事」の中に収録されていますが、資料として掲載した写真12がそれにあたります。

 

 

写真1 『神壁算法』下巻「所懸于東都愛宕山者一十四事」

(京都大学理学部数学教室蔵)

 

写真2 『神壁算法』下巻(同上)

 

鈴木が取り上げた問題はつぎのようなものでした。現代語で書いておきましょう。

 

いま、金21382分永133文をもって米23355斗を買うとする。只云、初米(最初に買う米)より各回に買う米の量は28斗ずつ少なく、又云、初米より各回に買う米の価格は1石毎に価格を永17(永は永楽銭のこと、1=1000)ずつ少なくする。別云、買う毎の1石あたりの価格の合計は132分永150(13.650)とする。では、買う毎の米1石あたりの価格と石数は各いくらか。

 答曰 (写真1参照)

術曰

言米×別言=

只云×又云×4200+甲=

(乙-云金)只云=丙

(云金2×2云米÷乙+丙)÷2云金=初石数

 

 何ともややこしい問題で、術文に出てくる4200についてもその意味が説明されておらずよく分かりません。この問題と術文を検討された藤井康生氏によりますと、解法は米を買う回数nに関する4次方程式の整数解を求めることに帰結するが、術文は分かり難く、不適切と論難されています(藤井康生「会田と神谷との論争-愛宕山算題-」、第13回全国和算研究大会資料、平成29年、pp.23-24)

さて『神壁算法』下巻は上記のような鈴木安旦の問題を掲載していたのですが、これはいうまでもなく批判の対象になりました。当時の数学者には、現代と同じ数学に対する感性があって、他者の算題や術文を議論すること、あるいは批判することは数学の発展にとって有益で有るという感覚が育っていました。ですから、鈴木安旦の問題と術文に疑問を抱いた数学者が出現し、論評あるいは批判をすることはある意味当然のことでした。

鈴木安旦の問題に最初に批判の声をあげたのは和算家古川氏清だったようです。『神壁算法』下巻の「所懸于東都愛宕山者一十四事」のなかに、鈴木のこの問題に対する天明4年正月の武江住人古川氏清による「鈴木氏自問自答一條閲之、與予 (注:古川のこと) 術大異矣」とする批判とあわせて改題と術文が載せられていました。

古川氏清 (1758-1820) は、字を珺璋、号を不休と称した和算家で、算学は中西流、久留島流、関流を修めて至誠賛化流という一派を形成したなかなかの人物でした。文化13(1816) には勘定奉行の要職を勤めた直参の旗本でもあったのです。そのような大家が鈴木の算問に関心を示し、批判に及んだのですから余程の印象があったように思われます。

古川氏清の批判に関連した一冊の写本が残されています。『古川氏算額論』と題するノートです。写本の冒頭に自叙が寄せられていますが、これは鈴木安旦が誌したもののようです。ここにおいて鈴木は古川の批判に対して反駁するのですが、それがどうであったのか鈴木の言い分を読む下し文にして少しを曳いて見ましょう。

 

天明二年寅正月九日、予、自問自答の額芝愛宕山ヘ奉納す。然るに、同四年正月、古川氏清、別術なりとこれを名け約術を以てこれを答エ、則ち同山ヘ奉納するなり。予、同年八月二日、これを視る。予、曰く、古川氏清は先年予と度々算術を試み論す。然るに、氏清、邪術迂遠術等を以てこれを答ふること度々有り。未だ算道中をも得ず人なり。然るに、今この額を視る。則ち、大いに上達すと言ふべし。然れども、未だ足らざること有り。予、納る額は全術を用る。則ち、三乗方の定式なり。而してその術迂遠なり。故に、予、帰除の建術を以てこれを答る。その術額の如し。この術もまた全術にあらずと雖ども、模を全術の如し。ただ、定率(額面進位)、多少に依るのみ。今、氏清、約術を以てこれを答るは、その意如何に。凡そ、全術これ有る題はこれを答るに約術を以てこれを為すべからざるものなり。---

氏清答術これを閲るに、術中天地人を視る。遍約術に依りて数を得る。また、天地人と名くとこれ有り。この文如何に。凡そ、剩一術、歉一術なるものは等数を有る。則ち、すでにこれを約るなり。然りと雖ども、左数右数は等数を以てこれを約るに、人数は(氏清術中用る所の名なり)、等数を以てこれを約ることあたらざること有り。然らば則ち、遍約術には有るべからず。故に、予、約術を用る。---

 天明四年辰八月八日 誌之

    東都算学士      鈴木安旦子貫誌之

 

そして、この写本の裏表紙見返しには

 

 今日、子貫この書を携えて来る。予、則ちこれを写し畢る

    天明甲辰秋九月朔     古川氏清珺璋 誌之

 

と古川による識語が書かれています。「天明甲辰」は天明4 (1784) のことです。この識語によれば、鈴木安旦は自分の解法が正しいことを主張するために、古川氏清の解法を批判するノート、則ち『古川氏算額論』を携えて古川宅を訪ねたというのですから、鈴木の立腹が如何ほどのものであったかが計れるところです。またこのノートによれば、天明4年の正月に古川による批判の算額が芝愛宕山へ奉納されたと書かれていますが、鈴木がこれを視たのが同年8月というのは少し遅い気がします。鈴木はなにか公務で多忙の身だったのでしょうか。あるいは江戸に居なかったのかも知れません。さらに、鈴木安旦が芝愛宕山神社へ算額を奉納した時期は、天明2年寅正月9日だと言っています。『神壁算法』の記録では天明元年丑12月とありましたが、どちらが正しいのでしょう。今となってはよく分からないところですが、実際に奉納した年月が翌月の1月だったのかも知れません。 

さて、鈴木安旦の反論は読んで戴けばおわかりの通りですが、「定率(額面進位)、多少に依るのみ」と述べるところは、例の数値4200を指していると思われます。これには鈴木も説明が不足していることを認めて、多少反省するところもあったように見えます。そして、問題の結論は「三乗方の定式なり」、則ち4次方程式を解くことだとも認めています。こうしたことよりもさらに興味深いことは、鈴木も古川も数学研究を通じた昵懇の間柄だったことです。「先年予(注:鈴木のこと)と度々算術を試み論す。然るに、氏清、邪術迂遠術等を以てこれを答ふること度々有り」と指摘する文章がその証左になりましょう。両者は算学研究を通じて交流が有ったのですが、鈴木から視れば古川は「未だ算道中をも得ず人なり」だったのです。そのような人物から批判されたのですから腹に据えかねるなにかが沸き立ったのかも知れません。しかし、その一方で、古川の批判的な術文を視て「大いに上達すと言ふべし」と持ち上げているところは、反面として滑稽さ(可笑しさ)が見える気がします。先述しましたが、古川氏清は勘定奉行を勤める高官の旗本でした。御家人株を買って士分の籍を得た鈴木から視れば古川は雲上人にも等しい人物なのですが、そのような大家高官であっても臆すことなく噛みついていくところに鈴木安旦の人柄が表れているといえましょう。激昂攻撃型の性格(現代で言えばクレーマー?)だったように思えます。このことは後に続く行動と発言を拾っていきますと浮かび上がってくるところです。

更に、『神壁算法』の同所には、天明53月の年紀をもって、関流四伝藤田権平貞資門人神谷幸吉定令が「古川氏又并鈴木氏所懸算題一章」を改めて検討するにおよび、「鈴木氏の答は特に不可なり」と酷評するとともに鈴木の問題の改訂とその答術が載せられたのでした。神谷の言によれば、それらは算額にして奉納したとありますから、鈴木安旦の問題は改めて公衆の面前で批判に晒されたことになったのでしょう。ある意味余程注目されたということもできるかも知れません。

こうした批判に対して、鈴木安旦は『改精算法』と題する算書の出版をもって応えました。

この算書の序文の年紀と巻末の刊記は天明5(1785) 4月になっていますが、凡例にあたる「精要算法答術之論」は天明36月の日付で書かれたことになっています。もし、後者の年紀が正しいとするならば、鈴木による『改精算法』の出版はかなり早くから準備されていたことになります。そして、ここにおいて鈴木は、字を彦助、姓を安明と名乗っています。号が子貫であることは変わりません。鈴木安明の登場といえましょう。

さて、その鈴木安明は『改精算法』を出版して何を主張したかと問えば、藤田貞資は立派な数学者ではあるけれども、名著の名を恣にしている『精要算法』を詳細に調べてみると、問題が病題であるものや術文が迂遠なものも含まれている、だからそれらを指摘して改題・改術を示すことにした、と言うのです。これの「目次」を視ますと(写真3参照)

 

「精要算法」

上巻 第二十、第二十二、第二十六

 中巻 第七、第九、第二十四、第二十五

 下巻 一十三、第二十、第二十一、第二十三、第三十三、第五十

 

が取り上げられています。鈴木はこれら13問が駄目だと言うのです。例えば上巻第二十は「この題は等数有り。故に迂遠なり。今、等数を省き、簡術を施す」と指摘して改題、改術に及んでいるのです。ただ、鈴木は上記のように改正が必要な問題を指摘してはいますが、他方では、『精要算法』が優れた算書であることを称賛することも忘れてはいません。「精要算法答術之論」の中において、つぎのように触れています。曰く、「関孝和以来達算の士が輩出されているけれども、なかでも、(藤田)定資の時代に至て諸術の迂遠なものは悉く簡易な術に帰られていった。これによって、いまださまざまな算書が著すところに迂遠の術は多いけれども、ただ、精要算法だけは迂遠な術少ない」と。なかなか微妙ですが、それでもなお改術を必要とすると主張していることになるのでしょう。

余談ですが、鈴木安明が『精要算法』の問題番号を挙げて指摘する姿は、関流の始祖関孝和が『発微算法』を刊行したとき、京都の佐治一平門人松田正則が『算法入門』において逐一問題番号を取り上げて可否を論じた方法に似ているようです。ことによれば、鈴木安明は関流の大家藤田を刺激するためにそのような方法を真似たのかも知れません。

 

写真3『改精算法』(東北大学附属図書館蔵林集書)の目次(右頁)

 

こうした鈴木安明による出版攻勢に対して、藤田門下でも対抗策が立てられました。出版には出版を以て対峙するということでした。眼には眼、歯に歯でしょうか。天明7(1787) 9月、藤田貞資門人神谷幸吉定令の名をもって『非改精算法』が出されました(写真4参照)。これの序文は、何と大家安島直円が書いているのです。安島は『精要算法』の校訂者として巻末には跋文も寄せていましたから(「和算入門(40)-関流四伝藤田貞資と数学の大衆化(2)参照」)、鈴木安明の批判に憤りを感じての寄稿であったと思われます。ここにおいて安島は藤田の『精要算法』を称揚する一方で、自分が誤りを見落としたことを悔やむとともに、鈴木安明の『改精算法』をつぎのように難じています。安島の序文を抜粋しましょう。

 

写真4『非改精算法』の扉と序(東北大学附属図書館蔵林集書)

 

非改精算法序

安永己亥、藤田貞資、精要算法を述造す。余と貞資社盟の厚を以て、これを注意校正す。謂く、人、間然すること無しと。剞劂氏に命じ、以て海内に流布す。近ごろ、或語に余曰く、鈴木安明は精要算法十三条を駁刺し、以て世に博む。名づけて曰く、改精算法。余、この言を聞く。愕然、歎息して曰く、ああ、貞資謬邪する所有り。余も、また、漏邪する所有り。往くは追ふべからず。---いまし、梢かにその畛域を窺うに、大抵は簡易を求め訪ね、却て精密を遺す。妄り一偏の見に随い、或いは滞述を設け、或いは題辞を改め、或いは答対を異にす。これ皆義に悖り、正しきを害して、貞資を誣るものなり。---

天明丙午朔旦冬至 安直円 序

 

文中の「間然」は欠点を指摘して非難することの意味で、『論語』の泰伯第8に登場します。「畛域」は境目のこと、転じてのぞき見るの意でしょう。さて、安島による鈴木安明批判を簡単に振り返っておきましょう。安島は『改精算法』の出版に驚いて、それを購入し、鈴木の改題等を点検してみたけれども、結局は彼による我田引水的な議論に終始していて、その批判は道理に適ったものではなく、却って正しいものにも難癖をつけており、ただ貞資を罪に陥れようとしているのだ、と断じたのでした。

また、『非改精算法』の自叙を読んでいますと、藤田派と鈴木安明が対立した理由にもう一つの要因があったことが分かります。自叙は天明6(1786)10月に神谷定令が書いていますが、そのなかで神谷はつぎのようなことを暴露しています。

 

--- 此書世に行はれば、正法、邪法に覆はるるのみならず、後世初学の為に甚だ害あるを以て、予、また、精要の是にして、改精の非なる所以を記して世に広めんとす。書成て先生に折衷す。先生これを止めて曰く、嚮(さき)に安明汝を介として来り、予に従て数を学ばんことを請うといへども、故ありて許さず。今や此書を世に広めは、汝知己の不臧を訏くに似たり。矧(いわん)や安明、東都愛宕山に懸る所の自問自答の術の不善なる衆の知る処なれば、改精の非にして、精要の是なることは見る者分辨せんと。---

 天明六年丙午十月 

         藍水 神谷定令元卿

 

この神谷の発言によれば、鈴木も神谷も知己の仲だったのですね。どこで拗れたかと窺えば、安明が神谷を介して藤田貞資門下への入門を願い出たところ、「故ありて許さ」なれなかったことが直接の原因だったようです。おそらく藤田は芝愛宕山へ奉納した鈴木の自問自答に誤りがあるから、これを訂正しなさいと命じたのでしょう。先に触れたように、激昂攻撃型の人格をもつ鈴木安明にすれば、そうした高慢な態度をとった藤田が許せなかったのでしょう。これが『精要算法』のあら探しに繋がったものと思われます。

また、『非改精算法』は『改精算法』の跋文で、安明が一日5000問の作問について言及した記事も非難しています。以下に引用しておきましょう。

 

改精算法跋ノ評

 此跋は南山先生精要の跋に云う所を譏誚するなり。然れども題を設るを難しとす。術を施すはこれに次ぐとは久留島先生の語なり。先生もまた名家なり。初学の輩の評すべき所にあるず。然るに題は得やすくして、術を施すはなを易しと云う。妄意に病題も辨ぜず。設くることは易かるべし。術もまた滞術、重術或は答数を得ざるの術を施すこと、猶やすきことなり。安明既に本源の算題万万億を得たりと云うこと、たとへ妄意に題を設るとも万万億の題は如何ぞ得べけんや。凡人出生より毎日五千の題を吐くとも五十年を経て((注:彼の意)未だ五十歳に至らず)、億の数に至らず。僧尼の念珠するが如く、題を設くるとも毎日五千の題は得べからず。数量を知らざる言にして、算家慎むべきことなり。

 

もうお分かりと思いますが、鈴木安旦、安明は後の会田安明のことです。既述の様に互いが算学書の出版もって応酬する論争を20年に亘って展開することになりました。世に言う関流・最上流論争です。歴史的評価では、数学的には不毛の論争と揶揄されていますが、決して負の遺産だけが残った論争であったとは思えません。次回そのことについて触れてみたいと思います。

                 ( 以下、次号 )