近世日本数学史上大変有名な関流・最上流論争は、天明5年(1785) 晩秋刊行の鈴木安旦こと会田安明による『改精算法』と関流藤田派の高弟神谷定令による天明7年の『非改精算法』の刊行をもって始まったといってよいでしょう。火のないところに煙は起たぬと申しますから、これ以前から少しずつ燻っていたのもしれません。その一つが芝愛宕山に掲げられた算額問題でした。この2冊の数学書の出版後、藤田派では神谷定令が矢面に立って鈴木安旦の批判に応えることになりました。派閥の総帥である藤田貞資が前面に出ての論争を避けた背景には、よもや久留米藩有馬侯の数学指南役である藤田が論争に負けるとは思えませんが、万が一のことを慮って後陣に身を置く安全策をとったともいえましょう。
一方の鈴木安旦の怒りは治まりません。藤田貞資は勿論のこと、旧知の間柄でともの幕臣であった神谷定令に対して罵詈雑言を浴びせたのでした。もっとも、前稿で指摘したように、鈴木安明は数学者藤田貞資を大変尊敬していました。藤田を讃える文章は鈴木の著作の端々に出てきますが、生来の負けん気が感情を押さえきれず過激な言動に走らせたのでしょう。
ここで論争に係わる両者の対応の全般を一覧表にして示すことにしますが、この過程で鈴木安旦は会田安明と改名し、最上流を創始することになりますので、一覧表中では最上流会田派と記すことにしました。
関流・最上流論争関係年表
出版年 |
関流藤田派 |
最上流会田派 |
備考 |
天明元年(1781) |
藤田貞資『精要算法』刊(5月) |
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天明元年(1781) |
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芝愛宕山へ算額奉納(12月) |
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天明2年(1782) |
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安明、鈴木家の養子 |
天明4年(1784) |
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古川へ反論(8月) |
古川氏清、会田の問題を批判(1月) |
天明5年(1785) |
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『改精算法』刊(晩秋) 『当世塵劫記』刊(晩秋) |
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天明6年(1786) |
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田沼意次失脚 |
天明7年(1787) |
神谷定令『非改精算法』刊(9月) 藤田貞資『非改正論』稿 |
『改精算法改正論』刊(初夏)
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徳川家斉11代将軍就任、松平定信の改正の改革始まる。 会田、御普請役を罷免 天明の打ち壊し発生
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天明8年(1788) |
藤田貞資『非解惑算法』稿 |
『解惑算法』刊(9月) |
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寛政元年(1789) |
藤田貞資『神壁算法』刊(3月) 藤田嘉言『掌中勾股規矩要領』刊 |
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寛政2年(1790) |
神谷定令『解惑弁誤』刊(1月) |
『解惑非弁誤』(不詳)稿 |
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寛政5年(1793) |
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松平定信老中辞任 |
寛政7年(1795) |
改正天元指南刊(1月) |
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伊能忠敬、高橋至時に師事 |
寛政8年(1796) |
神谷定令『解惑弁誤』刊(増刻、6月) |
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寛政9年(1797) |
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『算法古今通覧』刊(11月) |
高橋至時『寛政暦法』 |
寛政10年(1798) |
藤田嘉言『再訂算法』刊(1月) |
『算法廓如』刊(11月) |
近藤重蔵、蝦夷地探検 |
寛政11年(1799) |
神谷定令『揆乱算法』刊(7月)稿 |
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寛政12年(1800) |
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伊能忠敬、第一次全国測量開始(蝦夷地測量) |
寛政13年(1801) |
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『算法非揆乱』刊(1月) |
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享和2年(1802) |
神谷定令『福成算法』(6月)稿 |
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享和3年(1803) |
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高橋至時『ラランデ暦書管見』著 |
文化3年(1806) |
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『掃清算法』稿 |
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文化4年(1807) |
藤田嘉言『続神壁算法』刊(1月) |
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藤田貞資没。浄輪寺で関百年祭 |
文化7年(1810) |
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『算法天生法指南』刊(11月) |
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文化14年(1817) |
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『増補当世塵劫記』刊 |
会田安明没 山口和『道中日記』始まる。 |
鈴木安旦こと会田安明(1747-1817) は延享4年2月に山形七日町で生を受けました。幼名を重松といいました。宝暦12年(1762) の16歳の時、地元の算学者岡崎安之の門に入り「八算ニ入テ天元演段ニ至ルマデ」を凡そ2年で学んだと自著の『算法天生法』の序文で語っています。しかし、岡崎先生からそれ以上のことは学べなかったようで、算学修行のため、明和6年(1769) 9月、23歳の時、江戸に出て、旗本鈴木清左衛門の家に入り、鈴木安彦を称するようになりました。安旦の名は明和3年頃にはすでに使っていたようですが、鈴木家に入ってから後は、勿論のこと鈴木安旦を名乗りました。
会田安明の自叙伝ともいうべき『自在物談』を読みますと、鈴木家は幕府の御普請役を務めていたとしています。この役職は水利土木工事の現場監督官のようなもので、関東郡代の指揮のもと各地に出張して工事を担当していました。先の自伝には、会田は担当役人として、下野の小貝川筋の福岡堰、岡堰、虫q堰や鬼怒川筋修理、上州館林領用水配や上利根川通徳川郷辺の川除などに携わったと書いています。中巻の「礫て戦の事」には渡良瀬川周辺の集落の奇習を紹介する記事があります。原文を引いてみましょう。
礫(注:つぶて)戦の事
渡良瀬川は上州と野州の堺川なり。其川を隔て上州は只上村( 注:現群馬県太田市只上。只上はただかりと読む)、此村の鎮守は八幡宮なり。野州は小俣村( 注:現栃木県足利市小俣) にて、鎮守は諏訪明神なり。両鎮守の神戦とてむかしより五月五日に川を隔て、両村の百姓共大勢出て、石を打合なり。其石にあたりて、血を出す方は負と成りて、其年の作物よろしからずと云伝ふる也。故に、双方の若者とも互ひに負じといさんで打合、勝を取て豊作ならん事を願ふなり。予、ひととせ館林領へ用水配に掛りし頃、只上村に近処し、此神戦を見物せり。(以下略)
現在もこのような風習が残っているとは聞きませんが、5月5日端午の節句の日に、渡良瀬川を挟んで只上村と小俣村で投石合戦があったとは面白いですね。会田は、この合戦を見物するために、わざわざ任務地の館林から出向いたというのですから、忙中閑ありということなのでしょうか。
写真1 『解惑算法』の封面題(東北大学附属図書館蔵書より)
しかし、鈴木安明の幕府御普請役も、天明7年(1787)、11代将軍徳川家斉が就任するに及んで、「御代替」を契機とした人員整理が行われ、非役となり浪人生活を余儀なくされたようでした。この頃の安明といえば、すでに藤田派との論争に突入していましたから、これを期に算学者としての本格的な研究に突き進んでいったと思われます。安明が鈴木姓から会田姓に戻ったのもこの頃のようです。また、関流に対抗する最上流を立ち上げ、関孝和の自由亭に対する自在亭の号を名乗るようになったのも同時期と思われます。これらのことは天明8年(1788) に刊行した『解惑算法』に載る情報が教えてくれます。写真1は『解惑算法』の表紙見返しの封面題ですが、ここには「自在先生」と「最上流」とする文字が書き加えられています。また、内題の直下も「自在 会田算左衛門安明子貫」と書かれていて、この頃から算左衛門を名乗ったことも見えてきます。
写真2 『解惑非弁誤』(東北大学附属図書館蔵書より)の1丁オ
写真3 『解惑非弁誤』(同上)の1丁ウ-2丁オ
天明5年の関流・最上流論争開始から、研究と著作に明け暮れた会田安明は生涯に稿本600巻の著述に及んだと伝えられています。これは驚異的な冊数と言わなければなりません。
写真2と3は会田安明による『解惑非弁誤』と題する稿本です。これまで両派の論争では刊行書に注目が集まり、稿本については余り関心が寄せられませんでした。『解惑非弁誤』もそうした一冊です。この写本の成立年代は分かりませんが、写真3に載る安明の発言によって、この稿本が神谷による寛政2年出版の『解惑弁誤』のあとに書かれたものであることが分かります。重要な記事ですので引用しておきましょう。安明の発言は一段文字が下がった所になりますが、本文では神谷が『解惑弁誤』において、つぎのように述べたことが引用されます。
ココニ於テ先生安明ガ邪ヲ正シテ非改正論及ビ非解惑算法ヲ作リ、門人ヲシテアヤマラザラシメント欲ス。門人是ヲ上木スルコトヲ請フトイヘドモ、先生敢テ許サズ。予、竊ニ其意ヲ偸(ぬす)ミ、其一端ヲ記シテ左ニ列ス
これに対して会田はつぎのように反駁するのでした。
曰、定資非改正論及ビ非解惑算法ヲ作ル者ハ尤然也。此、即、門人ヘノ申訳ケ也。憐ムベシ。貞資門人ヲシテ邪路ニ至ラシムコトヲ然ト雖ドモ、門人皆ナ南山ノ猿ニアラズ。智アル人ハ其不善ナルコトヲ知ルベシ。
文中の定資は藤田貞資のことで『非改正論』は天明7年の成稿、『非解惑算法』は天明8年の稿と伝わっています。安明はこれらが藤田の門人に対する言い訳だと反発しているのです。詳論は兎も角刊行に及ばなかった論争のための稿本が会田にもあったことがこれで分かります。
20数年に及んだ関流との戦いも文化4年(1807)の藤田貞資の没をもって収束に向かったようです。写真4は論争末期の享和2年(1802) に神谷定令が稿本として遺した『福成算法』の最後の頁になります。ここでは、数学論争とは無縁の人格攻撃が見えています。
写真4 『福成算法』(東北大学蔵)最終丁
闇迷闇迷 愚哉闇迷 闇迷已前 已無闇迷
闇迷以後 当無闇迷 闇迷闇迷 愚哉闇迷
神谷が言う「闇迷」が会田安明を指していることは言うまでもありません。
関流・最上流論争の関係一覧表の中で指摘はしていませんが、実は、論争の中期頃の1780年から1789年、及び1790年から1799年の間に全国で奉納された算額数を調べて見ますと、前期が105面、後期が123面になることが分かっています。この数はその10年前の1770から1779年の数と比較して3. 3倍、3.9倍となります。こうした算額奉納様子が分かるようになったのも寛政元年に発刊された『神壁算法』や文化14年の『続神壁算法』の出版によるといっても過言ではありません。このことは全国的に数学に関心が高まったことを示す一つの証拠と見做すことが可能です。まさしく関流。最上流論争の効果といってよいと思われるのです。加えて注目したいことは、算額の奉納が以前より増して全国規模で展開されるようになったことが見えてくることです。その一例は写真5に見える算額をあげることができましょう。
写真5 『続神壁算法』(東北大学附属図書館蔵)より
これは文化4年刊の『続神壁算法』に収録された算額ですが、文化3年 (1806)正月、石州津和野の数学者堀田二介泉尹が「蝦夷国ニーカツフ義経社」に奉納したものとなっています。これまでの日本人の地理意識では蝦夷すなわち北海道に関する意識は大変希薄でした。確かに、江戸時代の支配層と一部商人たちの中には、北方警固の重要性やアイヌとの交易の必要から蝦夷について若干なりとも知識があったと思いますが、それが一般の人々まで広く浸透していたとは考えられません。伊能忠敬の第一次全国測量は寛政12年 (1800) に始まります。実は、堀田はその前年に幕府に命じられて蝦夷地の探検に携わっていたのです。それは北方の国際環境が大きく変わろうとしていた時期でした。ロシアの南下に対応する措置として寛政10年には近藤重蔵(最上徳内)によるエトロフ島の調査もされていました。堀田の調査はそうした北方対策の一貫でもあったのでした。算額に「日本」と書かれることは、アジアのなかの日本という意識の表れと見ることができましょう。ただ、残念なことは「蝦夷国ニーカツフ義経社」がどこの神社なのか分からないことです。ひょっとすると未奉納の算額だった可能性も考えられますが、確かなことは分かりません。この時期の算額奉納のようすと堀田泉尹のことは拙論『算額を世界文化遺産に』(『数学文化』、No.24. 2015) で紹介しましたので参照してください。
会田安明の最上流では算額集を出版した形跡はないようです。しかし、会田が門人に檄を飛ばして全国に奉納された算額、特に関流の算額を徹底的に調査して批判を加えたノートが遺されています。それら『増刻神壁算法評林』『算法他流諸国之標題集』『他流東都之標題集』『越後国諸堂社諸流奉額集』など枚挙に暇がないほどです。このことは、他方として、地方にいる門人たちの他流派の数学への関心を喚起したようで、結果として江戸での批判合戦が地方に波及する効果をもたらしたように思えてきます。
さらにいえば、論争の終末期に最上流数学教典と呼んでもよい『算法天生法指南』が著されたことも特筆すべきことでしょう。最上流の天生法は術文の冒頭に「混沌一」を置くことしています。これは関流の常套句の「天元一」と同意ですが、会田の門人たちは競って『算法天生法指南』を学び、数学研究に励んだのでした。
( 以下、次号 )