和算入門


 藤田貞資と会田安明との間に始まった論争を、やや冗長になりましたが、史料に沿いながら紹介してきました。関流の実質的な論者は藤田の弟子の神谷定令でしたから、神谷・会田論争と呼ぶべきかも知れませんが、歴史的には両流派間の論争といえますので、およそ20年におよぶ藤田派と会田派の応酬を関流・最上流論争と呼称しています。

 先に指摘しましたところですが、両者の論争は数学的には不毛であったと評価されていますが、他方として、周辺の数学者に与えた影響は想像以上のものがあったと思われます。最大の効果は、論争が多くの人々に数学への関心を持たせたことであり、結果としてたくさんの数学愛好家を生み出したこと、そして論争が本拠地の江戸だけでなく地方にも波及し、国の隅々にまで数学が浸透したことだと思います。

 筆者は群馬県桐生市に住んでいますが、江戸での両派の対立を受けてのことでしょう、当地でも両派による算額奉納が行われ、解法の優劣が競われたことを窺わす事例が見いだすことができます。算額奉納の舞台は桐生天満宮でした。

 国立公文書館の内閣文庫に『賽祠神算』(請求番号194-179)と題する写本が現存しています。書名にある「賽」は「報いまつる、神からの祝福」あるいは「優劣を競う」という意味があります。「祠」は、承知のように、「神々をまつる社」のことです。ですから、書名の意味は諸国の神社仏閣に掲額された算額集ということになりましょう。全7巻です。写本は文政13年の序文を持ち、編集者は至誠賛化流の数学者中村時万になっています。中村は至誠賛化流の創始者古川氏清に師事して研鑽を積みました。なお、読者諸氏は古川がどのような人物であるか記憶に新しいところと思います。ある意味で関流・最上流論争の切っ掛けを作った数学者であったことは「和算入門(42)」で紹介しました。参照してみてください。

桐生天満宮の算額を紹介する前に、少し回り道になりますが、この『賽祠神算』の成立に係わった人々を視ておきたいと思います。その理由は関係者がいずれも幕臣であったことにあります。と同時に、これまでの日本数学史では注目されてこなかった事実だからこそです。

『賽祠神算』の序文は、中村時万(序文中では中村永錫と呼ばれる)の友人宮崎成身が文政13(1830)6月に寄せています。実は、著者の宮崎は中村と同じ門流に身を置いた算学者でした。そのことを宮崎は序文において認めていますが、その途次にあって最近の算学研究と算額奉納の流行の様子をつぎのように描いています。

 

ちか頃、賽祠神算七巻を輯めて、予に序を需める。受けてこの一つを視て、則ちこの一つを感じ、則ちこれを歎じる。それ天下に数を学ぶの士多々林の如し。

 

宮崎は、文政年間の数学界の状況を「天下に数を学ぶの士多々林の如し」と伝えています。今日とは比較にならないほど算学研究は活況を呈していたのでしょう。その事実に宮崎は驚愕の色を隠すことはできなかったようです。このことも関流・最上流論争の影響に一端と見做すことができるでしょう。その上で宮崎は「余、昔、古川先生に従いて学ぶ」と告白しています。この一行で編者の中村と序文の著者宮崎が同門の志であったことが判明することになります。

宮崎成身(生没年不詳)は、初名を成之、字は信卿、通称は太一郎、次郎太夫と称し、号は百拙斎、栗軒を名乗った旗本でした。幕府での役職は、小十人頭を勤め、後に持弓之頭を拝命しています。その一方で、『教令類纂』や『通航一覧』など幕府の編纂事業にも従事しました。前者の編纂書は江戸幕府の法令集であり、後者は外交や通商政策史を整理した集成書になります。また、文政13年から30年以上に亘って政治、事件、災害などさまざまな出来事を史料や情報にもとづいて『視聴草』(みききぐさ)178冊を著しました。『視聴草』は宮崎にとっての一大編述事業であったといえます。このような業績をもつ文人宮崎成身ですが、実は、算学にも精通していたのでした。このことは江戸時代の文人研究にあって留意すべき視点になると思います。

『賽祠神算』にはもう一人、後序を書いた人物が登場します。村井量令です。村井には『群書備考』や『切支丹御退治記』(49)の著作があることで知られています。また、江戸幕府は、文化7(1810)年、大学頭林述斎の建議を入れて昌平坂学問所に史局を設けますが、ここにおいて地誌の編纂が開始されます。その結果、『新編武蔵国風土記稿』、『御府内備考』『新編相模国風土記稿』などが完成しますが、それら編者の一人に村井量令の名前を認めることができます。なお、先述の『切支丹御退治記』の序文は文政10(1827)年仲春に書かれていますが、そこでは「邨井量令一甫識」とありますから、一甫が号であったようです。しかし、村井の生涯については、上記のような業績以外よく分かっていません。

さて、その村井は後序を「文政十三年龍集庚寅季秋重陽節」に書いていますが、その際「愚弟村井量令于昌平学院講堂」と書き添えていました。この記述からみれば、序文の筆記の時、村井は昌平坂学問所にいて、この講堂において一文を認めたことになります。このような記述や上記の業績から視ると、村井は生粋の文人と評したくなりますが、彼も算学の修養を積んだことのある一人でした。後序のなかで村井は、永錫と一緒に不求古川先生の門人として数学を学んだといい、学院にあって修史の編輯を為したとも強調しています。このような発言は、修史は勿論だが、算学のことも分かることを誇示したかったようにも見えてきます。

このように視てきますと、『賽祠神算』の周りには、三人の幕臣がいて、しかも彼らは同門の志であったことが判然となります。その意味では、最初の序文を書いた宮崎が「数を学ぶの士多々林の如し」と記述したことは、彼らをも含んだ描写ともいえなくもありません。それは同時に江戸幕府内の旗本・御家人層への数学の広まりを指した言葉であったかとも推測できましょう。

 さて、ここまで『賽祠神算』を取り巻く人々について紹介してきましたが、つぎにこの写本の編輯方針について、編者の中村時万の考え方を探っておきたいと思います。凡例に編集方針のことが書かれています。それによれば、中村は享保2年から文政11年までの算額をこの写本に収録したと言います。そして、その算額奉納の起源について、

 

凡そ算題を板面に画き、堂社の壁上に掲げ、其の学術を励ますこと、正徳年間に起こり、今に至るまで衰廃せず。

 

といっています。筆者の和算入門の記事では算額のことをまだ取り上げていませんので、読者は詳しくは承知していないかも知れませんが、算額奉納の風習が顕著になったのは寛文年間のことであって、中村がいう正徳年間より50年ほど以前のことになります。中村はその事実を知らなかった可能性があります。とはいえ強く非難する必要はないでしょう。その一方で、以来、掲額の風習が廃れることはなかったと指摘していることは貴重な時代の証言といえるでしょう。では、どのような算額をこの算額集に収録したかと聴けば、中村は、

 

其の題可にして、簡然たることなきものは人是を棄て顧みず。是人の善を掩うふにあらずや。予、是を惜しむこと久し。因て各所に奉納する算題を写し玉石を論ぜず輯集して後学の一助とす。

 

というのです。中村が言わんとしていることは「算額の問題と解法は正しいが、特に解法が迂遠なものは棄て去られてしまう。そのことを惜しんで、諸国の神社仏閣に奉納された算額の玉石を嫌わず編輯して一書とし、後学の研究の一助とする」と要約できましょう。このような方針で諸国の神社仏閣に奉掲された算学を、流派を越えて収録した一冊が『賽祠神算』だったのです。

 

写真1 『賽祠神算』収録の桐生天満宮奉納算額(1)

(国立公文書館蔵)

 

長々と『賽祠神算』を取り巻く人物と当時の数学環境について語ってきましたが、ここからは桐生天満宮に奉納された算額を紹介していくことにします。『賽祠神算』巻之四を開きますと、つぎの問題が記録されています(写真1参照)

まず、問題の全文を見ておきましょう。ただし、図および術文は省略しますので掲載の写真を参照してください。

 

 上州桐生町天満宮

今有平円交勾股弦如図、其隙容三等円、只云大円径一尺、問等円径幾何。

 答曰 等円径二寸七分五厘八毛八糸弱

(術文略)

 関流 石田一徳子門人

  上州佐位郡 大沢熊古子祥

 文化六龍集己巳二月

 

 算額の問題の要旨は「図のように、直角三角形の二つの頂点が大円に内接し、且つ直角三角形と大円の間に生ずるそれぞれの空間に直径の等しい円を三個内接させるとする。このとき、大円の直径を一尺(10)とすれば、等円の直径は幾らか」となります。答は27588糸弱と導かれています。

 この問題を桐生天満宮に掲げたのは、上州群馬郡高井村にいて医師として、また、暦算家として活動していた石田玄圭 (?-1817) の門人大沢子祥でした。師匠の石田玄圭は江戸に出て、藤田貞資のもとで勉強して、関流五伝の免許を修得した数学者でした。大沢による算額の奉納は文化6(1809)2月ですが、いまのところこれが桐生地域で奉納された算額でもっとも古いものになります。残念なことは、この算額が現存していないことです。

 

写真2 『賽祠神算』収録の桐生天満宮奉納算額(2)

 

 ところが『賽祠神算』には大沢子祥の算額に続けて、同天満宮へ同じ問題で奉納した大川栄信の算額も収録してあるのです。大川の答は等円径27分有奇となっていますが、実質的に大沢の答と違いはありません。奉納年と奉納者はつぎのように記録されています(この算額も現存していません)

 

 文化六巳年十月

       下野小俣村

   最上流 大川茂八栄信

 

 奉納者の大川栄信は桐生に隣接する下野国足利の小俣村に住まう最上流の数学者でした。しかも奉納は、大沢の奉掲から8ヶ月後の10月のことです。『賽祠神算』には大川による批判めいた言葉は書き留められていませんが(あるいは奉納時に張り紙などで大沢批判をした可能性も考えられますが)、言外に自分の解法が優れているのだと主張しているのです。答は同じなのですが、等円の直径を求める式は大川のそれは大変簡略化されているのです。ちょっと両者の式の違いを見ておきましょう。

いま、図で与えられた大円の直径をD、等円の直径をdとすれば、大沢の術文は、

 

 2{2336d3D2+768d5+296D4d(2176d4D+1200D3d2+24D5)}2

{413D4d+3312d3D2+1088d5(3072d4D+1696D3d2+44D5)}2=0

 

となり、これを展開すれば10次方程式を得ることになります。そして、ここから「斜率」を用いれば5次方程式になると大沢は述べています。「斜率」はのことです。これに対して大川の術文は、

 

 

      

となり、3次方程式で答が求まるとしています。つまり、最初からを使えば大きく次数を下げることができ、簡潔な式を導くことができると断言したのでした。明らかな大沢批判、言葉を換えれば関流の解法に対する批判と指摘することができましょう。このように方程式の次数を下げて、術文を簡潔に導くという精神は最上流の流祖会田安明が強く主張してきたところと合致しています。

 大沢子祥の師は石田玄圭であり、藤田貞資の門人でした。大川栄信は最上流の会田安明の直弟子でした。このように捉えますと、江戸での両派の論争が地方に及んだといえなくもありません。確かにそのような側面があったことは否定できませんが、こうした固定的な見方をしますと当時の数学環境や研究状況の全般を見失ってしまう恐れがあります。

 文化文政年間の上州は、小野栄重と石田玄圭、いずれも関流の数学者ですが、上州各地の寺社に算額を盛んに奉納し、数学の普及と門派の宣伝に努めていました。隣国の小俣にいた大川栄信は、桐生地区へ最上流を広めた最初の数学者でした。ですから、流派の浸透あるいは大川塾の拡大に必至であったことはいうまでもありません。そのような状況のなかで、大沢の問題は、大川数学の優位性を認め指す格好の題材になったといっても過言はないとおもいます。これに、江戸の論争が係わっていたとすればなおさらのことです。ですが、これも既に指摘した通り、論争の一方の当事者藤田貞資は文化4年に亡くなり、これ以降論争は沈静化していくことになりました。大沢の掲額は文化6年であったことを改めて強調しておきたいと思います。

そして、もう一点指摘しておきたいことは、この時代の数学者の批判的精神の顕在化についてです。数学者間の論争は近世初頭にすでに顕れていました。このことは関孝和の数学が無理解者によって批判されたことに象徴できると思います。しかし、近世初頭のようなやみくもな批判ではなく、正当かつ健全な批判精神がこの時代には育っていたことです。古川が会田の芝愛宕山の算額問題を批判したことまさにその好例だったといえましょう。幸か不幸かこれが関流・最上流論争に繋がっていくこになるのですが。数学者による他者の問題と解答批判は日常的に交わされていたのです。こうした批判と再検討が数学の進歩。発展に繋がっているわけですから、大川栄信による大沢子祥批判は流派を越えた数学者としての純粋な批判と捉える方が正しい見方ということができると思えてなりません。

                                                  ( 以下、次号 )