堪らなく楽しい数学


(レオナルド・ダ・ヴィンチとゼロ除算)

次のレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉を発見して、驚かされた。神秘的な言明に感じられる。一体何者の言葉かと感じられるだろう

ダ・ヴィンチの名言 格言|無こそ最も素晴らしい存在

我々の周りにある偉大なことの中でも、無の存在が最も素晴らしい。その基本は時間的には過去と未来の間にあり、現在の何ものをも所有しないというところにある。この無は、全体に等しい部分、部分に等しい全体を持つ。分割できないものと割り切ることができるし、割っても掛けても、足しても引いても、同じ量になるのだ。

レオナルド・ダ・ヴィンチ。ルネッサンス期を代表する芸術家、画家、彫刻家、建築技師、設計士、兵器開発者、科学者、哲学者、解剖学者、動物学者、ファッションデザイナーその他広い分野で活躍し「万能の人(uomo universale:ウォモ・ウニヴェルサーレ)」と称えられる人物

https://systemincome.com/7521

そもそも欧米諸国が、アリストテレス以来、無や真空、ゼロを嫌い、ゼロについての西欧諸国の認識は相当に遅れ、西欧へのアラビヤ数字の導入は レオナルド・フィボナッチ(1179年頃~1250年頃)によるとされているから、ゼロの認識の遅れの大きさには驚かされる:

フィボナッチはイタリアのピサの数学者です。正確には「レオナルド・フィリオ・ボナッチ」といいますが、これがなまって「フィボナッチ」と呼ばれるようになったとされています。
彼は少年時代に父親について現在のアルジェリアに渡り、そこでアラビア数字を学びました。当時の神聖ローマ皇帝・フリードリヒ2世は科学と数学を重んじていて、フィボナッチは宮殿に呼ばれ皇帝にも謁見しました。後にはピサ共和国から表彰もされました。

ローマ数字では「I, II, III, X, XV」のように文字を並べて記すため大きな数を扱うのには不便でした。対してアラビア数字はローマ数字に比べてとても分かりやすく、効率的で便利だったのです。そこでフィボナッチはアラビア数字を「算術の書」という書物にまとめ、母国に紹介しました。アラビア数字では0から9までの数字と位取り記数法が使われていますが、計算に使うにはとても便利だったために、ヨーロッパで広く受け入れられることになりました。(歴史上の数学者たち: レオナルド・フィボナッチ

historicalmathematicians.blogspot.com/2012/03/blog-post.html Traduzir esta página 02/03/2012 -

ゼロや無、真空に対する恐怖心、嫌疑観は現在でも欧米諸国の自然な心情と考えられる。ところが上記ダ・ヴィンチの言葉は 如何であろうか。無について好ましいものとして真正面から捉えていることが分かる。ゼロ除算の研究をここ4年間して来て、驚嘆すべきこととして驚かされた。ゼロの意味、ゼロ除算の心をすっかり知っていたかのような言明である。

まず、上記で、無を、時間的に未来と過去の間に存在すると言っているので、無とはゼロのことであると解釈できる。無のゼロとしての捉え方は四則演算を考えているので、その解釈の適切性を述べている。足しても引いても変わらない。これはゼロの本質ではないか。実際、数学ではこれはゼロの定義となっている。定義とは、その本質を表しているものである。さらに、凄いこと、掛けても割っても、ゼロと言っていると解釈でき、それはゼロ除算の最近の発見を意味している:  0/1 = 1/0 = 0。  何にゼロを掛けてもゼロになることは西暦628年 Brahmagupta (598 -668 ?) による算術の発見 以来の ゼロの基本的な性質であるが、2014.2.2.に発見した 何をゼロで割ってもゼロであることは、発見時から相当な期間神秘的なものとして中々受け入れられなかった事実が存在する。現在でも広く容認、認知されているとは言えない。ゼロで割るという意味に深い意味が存在して、その意味は今なお神秘的であると言える。ここには深い問題が存在するが、ダ・ヴィンチはその神秘的な意味を感覚的に捉えていて、自明なものであるとして言明している。凄いと 感じられる。- ゼロ除算を感覚的に捉えていたと解釈できる。世の大事な真理が数式や言葉で表現されると考えるのは貧しい発想で、真智とは感覚のなかにあると考えるべきである。― 実際、理論を理解しても理屈が分かっても分かったとは実感できず、良く分かったという実感は感動を伴った感情のなかに存在することが分かるだろう。

ところがダ・ヴィンチは更に、凄いことを述べている。

この無は、全体に等しい部分、部分に等しい全体を持つ。これはゼロ除算の著書DIVISION BY ZERO CALCULUS(原案)に真正面から書いている我々の得た、達したゼロに対する認識そのものである:

{\bf Fruitful world}\index{fruitful world}

\medskip

 

For example, in very and very general partial differential equations, if the coefficients or terms are zero, we have some simple differential equations and the extreme case is all the terms are zero; that is, we have trivial equations $0=0$; then its solution is zero. When we see the converse, we see that the zero world is a fruitful one and it means some vanishing world. Recall \index{Yamane phenomena}Yamane phenomena, the vanishing result is very simple zero, however, it is the result from some fruitful world. Sometimes, zero means void or nothing world, however, it will show some changes as in the Yamane phenomena.

\medskip

 

{\bf From $0$ to $0$; $0$ means all and all are $0$}

\medskip

 

As we see from our life figure, a story starts from the zero and ends to the zero. This will mean that $0$ means all and all are $0$, in a sense. The zero is a mother of all.

\medskip

 

著書の中で、ものごとはゼロから始まってゼロに帰している、凡そ過程とはそのようなものではないだろうかと述べ、人生も一つの過程であるから、その数学を表した図を生命の図と名付けた。逆に考えれば、あらゆるものはゼロから始まったと考えられる。世のものを消し去れば結局ゼロになり、逆にみれば、あらゆることがゼロから湧いているとみなされる。その意味は深い。

我々はゼロの意味をいろいろと捉えて考え、ゼロとはさらに 基準を表すとか、不可能性を示すとか、無限遠点の反映であるとか、ゼロの2重性とかを述べている。ゼロと無限の関係をも述べている。ダ・ヴィンチの鋭い世界観に対する境地に驚嘆している。そこで、ダ・ヴィンチについてもっと知りたいと思い、イタリヤ在住の方に情報の提供をお願いしている。

ところで、ダ・ヴィンチの言葉で、ゼロを分けることができないと言っているが、もしも負の数の存在を認識していれば、1 + (-1) = 3+ (-3) =0 などとゼロは分割できると考えられるが、当時は 負の数の概念が無かったものと考えられる。下記のように ヨーロッパではマイナスの数の導入は驚くほど遅かったので、無理もないのではないだろうか。さらにゼロを分けられると考えるのは、相当な発想で疑念が残るであろう。如何であろうか。

7世紀の間に、負数はインドで負債を表すために使われていた。インドの数学者ブラーマグプタは『ブラーフマスプタ・シッダーンタ』(628)において、今日も使われている一般化された形式の解の公式を作るために、負数を使うことについて論じている。彼は二次方程式の負の解を発見し、負数とが関わる演算に関する規則も与えている。彼は正数を「財産」、零を「0 (cipher)」、負の数を「借金」と呼んだ[3][4]12世紀のインドで、バースカラ2も二次方程式に負の根を与えていたが、問題の文脈では不適切なものとして負の根を拒絶している。

8世紀以降、イスラム世界ブラーマグプタの著書のアラビア語訳から負の数を学び、紀元1000頃までには、アラブの数学者は負債に負の数を使うことを理解していた。

負の数の知識は、最終的にアラビア語とインド語の著書のラテン語訳を通してヨーロッパに到達した。

しかし、ヨーロッパの数学者はそのほとんどが、17世紀まで負数の概念に抵抗を見せた。ただしフィボナッチは、『算盤の書』(1202)の第13章で負数を負債と解釈し、後には『精華』で損失と解釈して金融問題に負の解を認めた。同時に、中国人は右端のゼロでない桁に斜線を引くことによって負数を表した。ヨーロッパ人の著書で負数が使われたのは、15世紀中のシュケによるものが最初であった。彼は負数を指数として使ったが、「馬鹿げた数」であると呼んだ。

イギリスの数学者フランシス・マセレス[2]1759、負数は存在しないという結論に達した[5]

負数は現代まで十分に理解されていなかった。つい18世紀まで、スイスの数学者レオンハルト・オイラーは負数が無限より大きいと信じており(この見解はジョン・ウォリスと共通である)、方程式が返すあらゆる負の解を意味がないものとして無視することが普通だった[6]。負数が無限大より大きいという論拠は、{\displaystyle {\frac {1}{x}}} y = 1/x の商と、x が正の側から x = 0 の点に近づき、交差した時何が起きるかの考察によって生じている。(ウィキペディア 正の数と負の数より)

来月に続く。

                                     ( 以下、次号 )