和算入門


和算入門(8) -『古今算法記』において用語円理を紹介する一文を書きましたが、今回、「和算の華」と呼ばれる江戸時代終わりの円理の研究状況を理解するために、改めてこの用語を取り上げてみたいと思います。

寛文11(1671)、京坂の和算家沢口一之が『古今算法記』を刊行しました。この算術書の内容を再び紹介することは避けますが、ここで注目すべきは著者の沢口が「円理」と称する用語を用いたことでした。円に係わる理論という意味でしょうが、古代中国の数学者も使用することのなかった新しい造語でした。沢口は同書の跋文でその新語のことをつぎのように説明しています。

 

 夫れ算道の理、総てこれを謂う、則ち方円の二なり。然るに方理は得易く、円理は明らめ難し。近世刊行する所の算書を閲するに、弧矢弦の法有と雖も、正術に非ず。故に謬り甚だ多し。---。円理測り難きこと和漢共相ひ似たり。既に算学啓蒙の如く古新密の三術有り。然りと雖も、予、竊にこれを考るに円理の妙術これ有ること明けし。故に、厚志有る人には面授すべし。これを以て根源記の内、円闕十六問は答術を除くのみ。

 

ここにおいて沢口は、数学の理論を方理と円理の二つに別け、前者の方理は簡単に導き出すことはできるが、後者の円理は大変難しいと嘆じたのでした。では、ここでの方理と円理はどのような内容を指しているのでしょうか。その真意は続く文章を読み解くことで分かってきます。そこで沢口は、近年出版された算術書では、円弧背の長さや矢、弦の長さを求める問題が出題されているが、正しい術を用いていないから悉く間違ってしまっていると非難します。そして、円の理を正確に測ることが困難なことは中国でも日本でも同じであるが、中国宋元代の数学者朱世傑が著した『算学啓蒙』には、古率、新率、密率の三術が取り上げられている、と述べて中国古人の業績に触れています。沢口は、それらがどのようなものか具体的に説明していませんが、『算学啓蒙』(史料1参照)を読めば三術は一目瞭然となります。引用しましょう。

 

古法の円率 

周三尺 径一尺

劉徽か新術 劉徽は乃ち魏人。この新術を立て、以て円の幽微を究む。

周一百五十五尺 径五十尺

冲之か密率 冲之、性は祖。乃ち宋南徐州の従事史。この密率を立て、また円の微を究む。

周二十二尺 径七尺

 

『算学啓蒙』は最後の祖冲之の円周率22/7を密率と称していますが、これは間違いで本来は約率と呼ばれる値です。密率は355/113を指す呼称だったのですが、古代中国では取り違えて記憶されてしまいました。理由は分かりませんが、『算学啓蒙』には本来の密率は登場していません。また、17世紀の初頭までに輸入された『算法統宗』にも見いだすことはできませんから、関孝和を含めた17世紀後半の日本の数学者たちは密率355/113が古代中国で発見されていたことに気づかなかったようです。関孝和の高足の建部賢弘はこの値を、後に『隋書律暦志』を読んで知り得たといっていますが、果たしてどうでしょう。彼ら発言の信憑性の担保はなかなか難しいところです。

 

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史料1 『算学啓蒙』(東北大学附属図書館林文庫より)

 

 また、跋文の最後で沢口は、自分はこれを研究して妙術を得た、教授を乞うものには面授すると豪語し、だから『算法根源記』の「好み」の問題では、円理に係わる問題16問の解答は載せなかったと断っています。この沢口の発言もどこまで信用出来るか、なかなか怪しいものがありそうです。

話をもとに戻しましょう。ここまでの議論で明らかなように、沢口一之の説いた円理とは円周率の計算法、あるいはその真値の意味で使われていることが分かります。

では方理とは何のことになるのでしょうか。円が曲線図形を指していると解釈すれば、方は直線図形ということになり、方形や多角形がその代表的図形になりましょう。この直線図形に関わる問題 (あるいは公式) は簡単に解決することができるといいますが、本当でしょうか。その真偽の探索は保留することにします。ただ、方理は容易とする認識が当時は一般的であったかも知れません。因みに、関孝和は方理や円理の用語を使用することはありませんでした。

 沢口一之からおよそ50年を経て用語「円理」が再登場することになります。『円理発起』がそれです。この写本の著者は蜂屋小十郎定章 (淡山とも称する) といいますが、自序の紀年は享保13(1728) 初秋下弦日になっています。また、蜂屋に請われて序文を寄せたのが中根元圭でした。元圭の紀年も享保13年、月は12月のことで、元圭が江戸での仕事を終えて帰洛直前のことでした。

 まず、蜂屋定章の序文からみておきましょう。

 

 蓋し、この円理は古人未発の真術にして、万世不易の定法なり。夫れ、中華において東漢の蔡氏始めて径の法を作る。是を以て古法の率となして、古人良久にこの法を用ふ。晋の孟氏、魏の劉徽共に径一周三一四の法を用ふ。宋の祖冲之円率を改正して、約密の二率を周(注:用の誤記か)ふ。元の李冶新術を作して、河洛の二数に付会して、自ら以へ為らく真積を得たりと。然ども、その数豈に深論するに足んや。如何そ、卒然として邪算を布して、後人をして惑を生せしむるや。然るに、明の朱載堉、彼の新術を尊信して、これを檴たりとなして楽書これを載たり。且つ本邦の算家に述る所ろの円術枚挙に遑ず。この一術においては和漢翕然として倶に真理を失ふ。ああ、難いかな、円の真理に至ることや。ここに一人建部賢弘悟了するなり、和漢未発の真術を。ああ、奇なり、妙なり。真に算術の神人なりと謂うべきなり。予、関子の高弟久留重孫の門下に游て、心を円中に棲すこと爰に年有り。この頃竊に賢弘の意を推考す。これにおいてこの書を作為して、算学を好むの士を令して明悟をせしめんと欲す。(以下略)

 

http://www.i-repository.net/contents/tohoku/wasan/l/f003/04/f003040006l.png?log=true&mid=undefined&d=1527494962123

史料2 『円理発起』の蜂屋定章の序文(東北大学附属図書館岡本文庫)

 

書名もそうですが、序文も冒頭から「円理」とでてきます。そして、蜂屋の文章はやや難解ですが、議論の中心を古代中国での円周率の計算の歴史においていて、明代の博学者朱載堉に至るまで及んでいます。しかし、蜂屋の視線はもうすこし先を見据えていようですが、その焦点は「ここに一人建部賢弘悟了するなり、和漢未発の真術を。ああ、奇なり、妙なり。真に算術の神人なりと謂うべきなり」とする建部の偉業を賛辞する件に合っているように思えます。その蜂屋が強調したいところを理解する上で、極めて示唆的であるのが中根元圭の序文です。すこし饒舌に陥るのですが、厭わず元圭の序文を見ることにしましょう。

 

数の明め難きは円を最となす。故に其の説、世に多端。劉宋の祖冲之環矩の術を以て、径一の周を得ること九位。曰く、三一四一五九二六五。これにおいて、約密の二率有り。以てこれを得る所のものに比すれば、皆梢に強しと雖も、然ども以て造次の用に足るは、また、可ならずや。元の李冶に至て、周髀算経円中方を容の文に拠て付会するに、河洛の説を以し、これを文るに周公の古法を以す。なお、其の意の以へ為らく、天地自然の真数を得たりと。而して祖を謗ること特に甚し。乃ち、其の立数を顧るに、密率より強きこと、また、更に一等何ぞ其の妄なるや。然れども後の学者これを察せず。滔滔として皆其の説に沿ふ。方の益々幽晦なる所以、悲かな。夫れ、今、我が国家文化百有余季、達者遞に興て発明閒出つして、其の尤も異なる者は惟り東都の建部君か。君、数に潜心して数十季、殆ど寝食を忘る。壬寅の春に方て、豁然として得ること有て、其の真数なるものを了す。以てこれを学者に示す。則ち愕然として謂そ、神かと。人をして如ことを得て雲霧を披て青天を観せしむは、ああ、君は実に千載の一人なり。已に抑も、また、君が日域の光なり。この頃、淡山先生、旁に其の秘を窺て、乃ち其の説を著す。

 

中根元圭による序文の前半は古代中国数学者による円周率の探索の歴史を語り、後段は建部賢弘の偉業を讃える文章で満ちあふれています。こうした表現は蜂屋と同じといえましょうが、ここにおいて元圭は建部を「神人なり」とも称賛したのでした。ですから建部は余程のことを為し遂げた数学者と観なければなりません。ではその偉業はなにかと問えば、元圭が「壬寅の春に方(あたり)て、豁然として得ること有て、其の真数なるものを了す」と指摘する文章にその偉業を知る鍵があります。「壬寅の春」は享保7(1722)年春のことで、この年の「孟春七日」に建部は序文を付けて、将軍徳川吉宗に『綴術算経』を献上しています。『綴術算経』は建部の数理哲学観を披瀝した数学書ということができますが、これの「円数拠数探数第十一」にあって円周率の算出方法をつぎのように述べていました。以下に原文を引用しますが、原文への振り仮名はすべて割愛しました。

 

始メ関氏増約ノ術ヲ以テ定周ヲ求ルコトヲ理会シテ、一遍ニシテ止ム。故ニ、十三万千七十二角ニ至ル截周ヲ求テ、十五六位ノ真数ヲ究メ得タリ。今、累遍増約ノ術ヲ用ルコトヲ探リ会シテ、千二十四角ニ至ル截周冪ヲ求テ四十余位ノ真数ヲ究ム。(中略)

砕約ノ術ヲ用テ径一尺ノ定周三尺一寸四一五九二六五三五八九七九三二三八四六二六四三三八三二七九五〇二八八四一九七一二強ヲ求得テ、零約ノ術ヲ以テ径周ノ率ヲ造ル。

 

ここにおいて建部賢弘は、関孝和の研究を推し進めて、累遍増約術を用いて正1024角形の截周冪から42桁の円周率を求めることに成功したと述べていました。『円理発起』の著者の蜂屋やこれに序文を与えた中根たちは、建部の卓抜した洞察力に驚くと同時に、42桁という驚異的な数値を算出したことに感嘆したのでした。なお、建部がここで導出した累遍増約術は、今日的にはRichardson外推法に相当するもので、Romberg法とも一致することが内外の研究者によって指摘されています。

建部の『綴術算経』ではもうひとつ重要な発見が披見されていました。それは円弧背の求長法に関するものでした。「弧数拠数探数第十二」がそれにあたります。いま、直径をd矢の長さをh弦の長さをaとして、円弧背の長さsを求めるのですが建部はd=10, h=10-5をもって計算に臨みました。結論を書けば、

 

 

となります。上記の建部が得た無限級数展開式を書き換えれば、

 

 

とする展開公式と一致することになります。

 さて、蜂屋定章の『円理発起』は冒頭でつぎのように問題を設定しています(史料3参照)。

 

http://www.i-repository.net/contents/tohoku/wasan/l/f003/04/f003040007l.png?log=true&mid=undefined&d=1527569358327

史料3『円理発起』の冒頭

 

いま、円径が一尺、大矢が二寸のとき、二斜の小矢を問う。答、二斜の小矢若干。

この問題設定に従って、綴術曰二斜、綴術曰四斜、綴術曰八斜、---と計算を進めて、各斜の長さを級数展開で表すことを試みています。そして最後に「求円周率術」と題して

 

假今、円径一尺、矢五寸、右術に因て背冪を求て、これを四して平方にこれを開けば、則ち円周を得るなり。

又云、円径一尺、矢一尺(注:寸の誤記)、右術に因て背冪を求む。これ則ち円周巾なり。平方にこれを開て、円周を得るなり。

 

としたのでした。

このように観てきますと、蜂屋の『円理発起』は円周率の計算に綴術を用いることが主眼であったように見受けられます。その意味では、最初に指摘したような沢口が『古今算法記』において規定した「円理」の概念を越えていないように思えてきます。しかし、大事なことは、関孝和がそうであったように円に内接する正多角形の外周を求めることから円周率に接近しようとしたのではなく、あくまでも円弧背の求長法から円周率を論じている点を見逃してはなりません。この事実は、建部の後継者たちが円弧背の研究で円理という用語を盛んに使ったことを思えば一層明らかといえましょう。則ち円理には円弧背の研究という新しい分野も含まれることになったのでした。

ここにおいて、用語円理は時代を一歩前に進めたといえるのですが、しかし、近世日本数学史のなかで用語円理が安定的に定着するのはまだ随分と先のことといわなければなりません。

 

                                 ( 以下、次号 )