和算入門


前回の「用語円理をめぐって(1)」では、沢口一之の『古今算法記』に初出した「円理」の意味について考察し、そこから建部賢弘の『綴術算経』さらには蜂屋定章の『円理発起』と繋げて用語円理と研究の変化・発展を窺いました。

実は、その後資料を調べていて、京坂の数学者田中由真も用語「円理」を使って議論していることが分かりました。実質的な内容は沢口のそれと変わりはないのですが、用語の拡がり、あるいは浸透といっても良いのですが、という観点からは紹介しておく必要があると感じました。そこで、前回の補遺として、田中の議論を掘り下げてみたいと思います。

田中由真については「和算入門(14)-『発微算法』と批判」で若干取り上げましたので、ご記憶の読者も居られようと思います。延宝2 (1674) 年、関孝和が沢口一之の『古今算法記』に載る遺題15問を解いて、『発微算法』を刊行しますと、田中の弟子たちは関の解法は間違いだらけだと非難したのでした。弟子とは佐治一平と松田正則ですが、彼らは著書『算法入門』の中で、自分たちは洛陽の田中由真の門下生であると公言していました。

田中由真の著作として沢山の写本が伝わっていますが、なかでもよく知れているのが『算学紛解』(成立年紀不詳) でしょう。この写本は全七巻から成り、田中の数学研究の集大成と呼べるものです。しかし、田中の存命中に全てが揃っていたかどうかは検討の余地がありましょう。

さて、『算学紛解』(東北大学平山文庫MA/386) の目録に依れば、同書の巻之七の目次は『円率俗解』『円率論』『求定率』『円率俗解二』『円率俗解三』『求立円全積』の6本の論文から成るとしており、この巻之七が円率あるいは円理に係わる研究であることが分かります。その第一の論文『円率俗解』の冒頭で田中はつぎのように述べています。少し引用が長くなりますが、ちょっと大事な議論と思われますので、厭わず紹介します。なお引用文中の[ ]内の文字は筆者が便宜的に補ったもので、{ }は原著者の左注になります。左注は補足説明の役割を持つ記法です。漢字の振り仮名は煩雑になりますので省きました。

 

夫、一切ノ形アルモノハ皆方円ノ二形ニツヽマル。然ルニ算法ニ依テ其積ヲ計ント欲スルニ、方理ハ暁シ易ク、円理ハ求メ難シ。和漢ノ算書、古今ニ多シト雖モ円率ノ定法マチ々ニシテ一定ナラス。コノ故ニ、イマタ密積ヲ記スモノナシ。況ヤ平円ノ截積、玉闕ノ弧積等ニ於テヲヤ。尤モ書々ニ記ス所ノ法術ニ随テコレヲ試ルニ、其積各原ノ全積ニ合セス。其合セサル則ハ、是即[チ]邪法ナルモノナリ。予モ数学ヲ好ムコト年アリ。コノ故ニ、時々円理ノ適中セル法ヲ考フト雖モ、未タ敢テ其真術ヲ覚知セス。アア、只コレ恐クハ方ナルモノハ地ニ属シテ、適前ニ彰ルヽ故[ニ]求メ易ク、円ナルモノハ天ニ属シテ、眼力ニ及ハサル虚空ナル故ニ求メ難キ理ナルカ。且ツ又、下愚ノ拙キ故、思慮ノ至ラサルシテ、タトヘハ窺フ管ノ細キヲ忘レテ、天ノ小サキヲ{カト}疑イ、釣瓶ノ縄ノ短キヲハカラスシテ井ノ晞キタルカト思フニ似タルナラン。然ルニ少ノ因ル所有テ、今茲ニ其欲セル趣意ヲ記セハ、既ニ六巻トナル。是則チ垜疊、盈朒、方程、諸約等ノ術ニ依テ求ル所ナリ。其一二ノ巻ハ平円全積ノ論ヲ記シ、第三ノ巻ハ平円截積ノ求ヤウヲ記シ、第四[ノ巻]ハ立円ノ全積ヲ論シ、第五ノ巻ハ玉闕ノ積ヲ求ル手段ヲ記シ、第六[ノ巻]ニ及テ弧皮平積ノ法ヲ記セリ。是尤モ円理ノ精法ニ中ラスト雖モ遠カラズシテ、若シ初心ノタメ少キ補トモナランカシ。猶、後学ノ人予ガ記ス所ノ意旨ニ心附、円ノ理ヲ発明シテ正法顕サハ幸甚ナランノミ。

 

書き出しの「一切ノ形アルモノハ皆方円ノ二形ニツヽマル」とする表現は沢口一之の『古今算法』での議論を彷彿させます。「方理ハ暁シ易ク、円理ハ求メ難シ」と指摘する箇所も沢口のそれと同然と言えましょう。しかし、沢口は円理の根幹になる円周率の求め方が難しいと指摘していたのに対して、田中は「円率」が定まらないからこれに関連する全ての求積問題において「密積」すなわち精緻な積() が得られない、従ってそれらの解法は邪法であると批判しています。このような論評から窺いますと田中の円理に対する視線は、単純に円周率だけを見ているのではなく、円や球の求積全般に係わる解法にも広がっているように思えてきます。この視線は、後に続く文章で、自分も長く数学の研究をしているが、「円理ノ適中セル法ヲ考フト雖モ、未タ敢テ其真術ヲ覚知セス」と白状するところに現れていると言えましょう。では、なぜそんなに難しいのか、その原因はどこにあるのかの反問では、方は地に属するから求めやすく、円は天に属し眼力の及ばない虚空に理があるからだ、と主張します。ここの件は古代中国の数学書『周髀算経』で称えられた「天円地方」説に酷似いたします。いや、酷似ではなくその儘と言っていいでしょう。そして、難しい問題が解決できないのは、自分の能力が至らないからだと卑下しますが、ここは謙遜なのでしょう。数学的才能がなければこのような論考は作れませんから。

このように述べた上で、円理に関して得る所があって6巻にまとめたと言い、それらの解法は「垜疊、盈朒、方程、諸約等ノ術」に因っているとも付記しています。そして、6巻の全容はつぎのようになると言います。

 

第一、二巻 平円全積

第三巻   平円截積

第四巻立円全積

第五巻   玉闕積 

第六巻   弧皮平積

 

 これら第一巻から第六巻に見られる求積論が『円率俗解』で取り上げられた研究課題と言うことになるのでしょうか。実際に『円率俗解』(東北大学林文庫915) 巻之一をめくってみますと、上記で引用した序文に続く本文は、「田中由真述之」と署名し、「円率論」と題して、円周率の計算法を紹介しています。この「円率論」は序文の言う第一、二巻の「平円全積」と見ることも可能ですが、「全積」と書くとこから推測すれば全円の求積を論じた内容で、「円率」とは異なるように思えます。

実は驚くことに、『円率俗解』巻之一の「円率論」は、関孝和の『括要算法』巻貞「求円周率術」で著された「円率解」をその儘引用しているのです。「環矩図」も全く同じですし、続く131072角形に至る勾、股、弦、周の値も『括要算法』を踏襲しています。「求定周」の加速法による定周の計算も関のそれと完全に一致するのです。この事実は何を示しているのでしょうか。田中は「円率」に関する関と同じアイデアを持っていた、田中が関から「円率」を教わった、あるいは関が田中から教わったか、さらに田中は『括要算法』の「円率解」を「円率論」としてそのまま採用(論文の盗用?)した、などの推論が成り立ちますが、どれが正しいかは分かりません。ただ、田中の系統に属する若い数学者が『算学紛解』の写本を作成したとき、この円周率に関する論文は『括要算法』にあるから要らないと断じて、書写しなかった事実の持つ意味は大きいと言えるでしょう。

そして『円率俗解』はこの「円率論」を書き残しただけで終わっています。序文で広言した円や球に関する求積論は何処に行ったのでしょうか。新たな史料の出現が俟たれる所です。それらが見つかれば田中由真の「円理」論ももっと鮮明になるのでしょうが。また、目録が指示した残り5本の論文も見つかりません。

余談ですが田中由真墓碑調査について報告しておきます。6月初旬に開催された日本数学史学会総会(同志社大学寒梅館)に久しぶりに出席してきました。その午後、学会を抜け出して岡崎黒谷の勢至堂の墓地を訪ねて、田中由真の墓石の探索を行いました。筆者はこれまでも二度調査をしましたが見つからず、今回が三度目の挑戦でした。

 

写真 田中由真墓碑()と田中文瑟墓碑()

 

初回は中根元圭の墓碑を探すことが目的でした。無事、調査が終了した後、勢至堂の住職に田中由真の墓石の所在を尋ねてみました。すると住職は「知らない、田中由真って誰?」と問うてきたのでした。ですが、住職は写真左側の田中文瑟なら知っていると言って案内してくれたのですが、そのとき筆者は由真墓碑に関する十分な情報を持ち合わせていなかったこと、夏の夕暮れが迫っていたことなどもあって調査は断念せざるを得ませんでした。

 二回目は、田中文瑟の墓碑は「由真の墓より十数歩離れた地に墓石があり」とする情報を頼りに調査に出掛けましたが、今度は文瑟の墓碑の位置が分からず、広大な墓域をうろうろするだけで徒労に終わりました。炎天下の夏の墓地調査は過酷です。

 三度目は、やはり文瑟墓碑の位置の記憶を頼りに探していると、偶然にも見つけることができました。感激でした。詳細は避けますが平成26年に勢至堂の住職が写真の場所に、由真の墓碑を探しあてて移し、同時に由真の長男文瑟の墓碑も移設したようです。やっとの邂逅の感激もそっちのけで、時間もあまりないことから、早速墓碑の碑文調査に取り掛かりました。肉眼と写真で写し取ったものが以下の文章です。

 

「右側面」

    宿坊 

       勢至堂

 

「正面」

     田中十郎兵衛

(梵字)         由眞墓

 

「左側面」

先生姓源名由眞以田中為稱世京城人也少小穎悟甚精算術

擧世所識門人幾三千近世以算術鳴世者多出其門早喪父事

母孝不幸家貧年長不娶有人言配者則曰為貧娶妻而友使母

至飢豈所安乎母没後始娶青山氏生男名秀松時先生年五十

四謂吾老矣恐不能直傳業於是養門生川嶋由□□□以傳其

「背面」

業尋生二男曰平八曰乙五郎皆幼在家今茲享保四年夏患痰

飲十月二十一日庚申遂卽世年六十九葬于洛東黒谷門人相

共欲立碣記其歳月請之余余亦為先生之餘緒故不得辭述其

梗概云歳之十二月戊申中根方目謹著

           門弟中

           伊藤長左衛門祐将拜書

           江州日野

           安井伊右衛門秀近

 

文中のは墓石が剥離して文字が読めないところですが、過去の調査で「易為適」の三文字が入ることが分かっています。そして、『明治前日本数学史』が紹介していた文章に幾つかの誤りがあることも判明いたしました。それらがこの調査で訂正できたことを大変嬉しく思うところです。と同時にこれを機に田中由真の研究が前進することを願ってやまないと思うのは筆者だけでしょうか。

 

                       ( 以下、次号 )