和算入門


これまで用語円理の変遷を3回に渉って見てきました。恐らく、見落としの史料があると思えますので、これまでの議論はいずれ修正を迫られる可能性があります。

さて、用語円理を巡る問題はひとまず置くとして、これ以後、幕末の円理を築いた人々について取り上げてみたいと思います。これまでもしばしば言及してきましたが、まずもって紹介しなければならない和算家は安島直円 (あじま なおのぶ、1732-1798) でしょう。安島直円は、通称を万蔵、字を伯規とし、南山と号しました。享保17(1732)、江戸の新庄藩邸に生まれ、寛政10(1798) 45日、江戸藩邸で没したと伝わります。享年67歳。直円は、数学者として大きな足跡を残しますが、本務は新庄藩の藩士として勤務することにありました。その経歴を振り返っておきますと、直円の父庄右衛門は、宝暦元年102日、新知行80石を受けますが、御勘定預を命じられたとき、別に役料3人扶持を給わったといわれています。このような経歴を見ますと父庄衛門の役務は藩の会計官だったことになりましょう。直円は宝暦4(1754) に父の跡式を相続し、同665日、吟味役並に御金元方兼帯を拝命、同12519日には御勘定預となり、やはり役料3人扶持を拝受したと言われます。これは父と同格になったことを意味しています。近世の武家社会では父を越え、家運を隆盛させることが嫡子としての使命になっていました。その直円は、天明5114日には郡奉行格となり、天明71215日に百石を受け、父の禄高を超えたのでした。これはある意味、新庄藩の藩士として、また、数学者としても直円は父を越えたと言えますので、一角の人物であったことが想像できます。

このような経歴をもつ安島でしたが、数学は、初め中西流の入江広忠に学び、後に関流三伝の山路主住に師事しました。彼は、山路の門下生として、関流四伝の免許を得る数学者に大成するのですが、同門には藤田貞資がいました。いうまでもなく、藤田も関流四伝の免許を山路から受けるのですが、実力は安島の方が遙かに抜きん出ていたようです。そのことは別にして、同門の縁があってのことでしょう、藤田が天明元年(1781)に『精要算法』を上梓したとき、安島はこれに序文を寄せたのでした。このことは「和算入門(40)-関流四伝藤田貞資と数学の大衆化(2)」においてやや精しく論じましたので、改めて取り上げることはいたしません。藤田と昵懇の間柄であった安島ですが、彼が「先生」と呼んで尊敬していたのは久留島義太と山路主住の二人だけと言われています。

久留島は延岡の内藤侯に仕えていて、宝暦4年に江戸に帰って来ていましたから、この時分久留島に教授を願ったのでしょうか。宝暦4年は安島が23歳の時にあたります。幕府天文方の山路主住も宝暦4年に『宝暦暦』 (ほうじゃくれき) を作りますが、この暦の精度はよくなく、世の批判に耐えられるものではありませんでした。『宝暦暦』に対する批判の声が聞こえる中、山路は藤田貞資を天文方手伝いとして登用し改暦に臨みました。宝暦12(1762) のことです。しかし、有力な手伝いと思えた藤田も、明和4(1767)、眼病を理由に天文方手伝を辞してしまいました。なにか両者の間に軋轢があったのかも知れません。そのことを連想させる任官の一件が翌年に起きています。藤田貞資は久留米藩有馬侯に召し抱えられたのでした。天文方は推歩だけでなく観測も業務とするといえば、眼病は天文方手伝いを辞任する立派な理由になりましょう。しかし、直ちに久留米藩任官となれば背景に何かがあったと勘ぐりたくなるのが人情ではないでしょうか。こうした詮索はさておき、山路の周辺に有能な人材がいなくなったのは事実ですから、その窮状を救ったのが安島だったのかも知れません。安島の研究に天文暦学のノートが沢山残されていることが、それを想起させるのですが、事実として確認できる記録がないことはとても残念なことです。明和4年は安島が36歳の働き盛りの頃にあたります。

さて、安島直円の数学上の業績は多岐に渡りますが、整理するとつぎのように纏めることができると思われます。

1. 円理の研究をさらに発展させたこと。

安島の著作に『弧背術解』(史料1参照) があります。ここにおいて安島は円の弧背の長さを定積分の考え方で求めることに成功しています。定積分のアイデアは松永良弼の球の体積を求める計算法に認めることができますが、安島は松永の求積法を刷新する画期的な方法を提示したのでした。

    史料1『弧背術解』(東北大学蔵)  史料2『弧背術解』第1丁オ

 

 『明治前日本数学史』第四巻は安島の求長法を精しく紹介していますが、その解説に導かれながら史料2の図形を用いて簡単に触れてみたいと思います。いま、与えられた弦を2n等分する(「截弦為五段」)ことにします。その分点を通って弦に直交する弦を引き、これを一長、二長、三長、---と名付け、弦/nを子と呼びます。最初に引かれた弦に平行な弦がつぎつぎと描けますが、それらの長さは、子、丑=2子、寅=3子、卯=4子、辰=5子、---(n1)子に等しく、故に、

 

一長2=径2-子2

二長2=径2(2)2

三長2=径2(3)2

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と求めることができます。これを綴術によって平方に開いて各の長さを求めると、

 

原数   一差    二差    三差      四差

(各級に乗ずる数)  1/2   1/8     3/48     15/384

 

と得られて、これら一長、二長、三長、四長、の和は、

 

原数    一差     二差      三差      四差

 

 

となります。これに子を掛かれば、史料2に見えるようなつぎつぎと重なる矩形の面積を得ることができます。この時、截数n となる極限では、子は0となり、矩形で囲まれる図形の極限は円弧を含んだ帯直弧積ということができます。ここで垜積の公式をもって各項の垜積の値をnの整式で表すのですが、ちょっと煩雑になりますので詳細は割愛することにします。因みに、近世日本の数学者はつぎの垜積の公式を知っていました。

 

 

そして、最終的に得られる帯直弧積の形を甲と呼んで、

 

 

と表しています。そして、この結果から弧背の求長へと議論を進めて、

 

弧背=

 

として弧背の長さを求めるのでした。すなわち弧背の長さは

 

 

さらにここから係数に着目して、これの整理を図り、円弧背の頂点から弦に下ろされる垂線の長さ()をもって弧背の長さを表す式にも到達しています。

 

 2. 二重積分を使って穿去積を正しく求める。

 安島の研究ノートに『円柱穿去円術』があります。これは、一つの円柱(D)の軸に直角に交わる直線を軸にもつ円柱(d)が貫通するとき、もとの円柱から截り取られる体積を求めよとする問題を論じたものでした。ここにおいて安島は二つの求積法を示していますが、それらを現代的に書いておきましょう。第一の方法は積分、

 

 

に相当するものです。第二は二重積分、

 

 

に相当するもので、これは和算で初めて現れたものでした。これにおいて江戸時代末期の日本数学の研究は飛躍的な進展を遂げることになります。二重積分を用いて立体の穿去積を求める問題はここにおいて可能となったのですが、その萌芽は江戸時代初期の研究に認めることができましょう。それは十字環問題でした。

 十字環問題とは、いまNHKの大河ドラマで話題になっている『西郷どん』の舞台、薩摩藩の家紋に類似する図形です。簡略に言えば、円の内部に十字形が交わっている文様がそれになります。家紋は平面で描かれていますが、和算の問題ではこれが立体の場合についてでした。いま一度説明を加えれば、十字環の外環はドーナツ形をしていて、これの内側に半径が等しい円柱を十字に貫通させた十字架を外環の内側から正則に貫通させている立体を指しています。これの体積を求めることが、江戸時代前期の和算家に要求されたのでした。しかし、これは難問中の難問であったのでしょう、殆どの和算家が正確に求めることができませんでした。

 関孝和と門弟の建部賢明・賢弘らが編纂した大著に『大成算経』全20巻があります。その一冊に『求積』と題する巻があるのですが、この写本の最後の問題は十字環の求積に関わる問題が論じられています。そこにおいて関孝和たちは、十字架をなす半径の等しい円柱が直交する部分の穿去積は正しく求めたのですが、円柱と外環(ドーナツ部分) が内部において交わる部分の求積は、どうしても近似的に求めざるを得なかったのです。この十字環の求積に関する関と建部らの研究の評価は保留にしますが、当時の数学的アイデアの限界と言うことは可能であると思えます。安島直円はその限界を見事に打ち破ったのでした。まさに天才の成せる技といってよいでしょう

                                  ( 以下、次号 )