和算入門


 算額の話は今回で終わりになりますが、最初に最近珍しいことがありましたのでそれを報告しておきたいと思います。ことによればご存じの読者諸氏もおられるかも知れません。その場合はご容赦のほどお願いいたします。

 20181116日のことですが、京都の北野天満宮で算額の奉納式が執り行われました。北野天満宮のことは「和算入門」(51)-算額考(1) で取り上げましたので、記憶に新しいかと思いますが、奉納はロザリ・ホスキング(Rosalie Joan Hosking)さん(女性の研究者)と外国の共同研究者3(いずれもカンタベリー大学) によるもので、古式豊かな奉納式であったようで、算額は境内の絵馬堂の内側に掲げられています。いま、筆者がそれらの写真を持ち合わせていないことを残念に思っていますが、当日の様子は四日市大学の小川束先生から伺いました。先生のお名前も協力者として算額に刻まれています。

ロザリーさんはニュージランド出身で、母校のカンタベリー大学(University of Canterbury)で学位を取得した後、所謂ポスドクで四日市大学の関孝和数学研究所へ研究員として来日していました(本年12月帰国)。彼女は、2014年の夏、お茶の水女子大学で開催されたThe Takebe Conference 2014年に参加したことがありますが、この時Solving Sangaku with Tenzan Jutsuと題し、長野県木島平天満宮に奉納された算額問題について発表しました。会議に参加した人たちの多くはロザリーさんの講演を聴きながら、彼女の調査力と日本語・漢文の理解力に驚嘆すると共に、勿論数学は言うに及ばないのですが、国外に本格的な和算研究者が誕生したことを嬉しく、また、力強く感じた次第でした。以来、ロザリーさんは日本だけでなく海外でも論文を発表して、和算と算額の普及と理解に取り組まれました。そうした研鑽結果としての算額奉納であったのでしょうが、日本人研究者から観れば、外国人による最初の奉納と言う大珍事になりましょう。これを契機に奉納を望む外国人が現れてもおかしくないと思います。北野天満宮には全国で二番目に古い算額が現存していますが、それと併せて現下でもっとも新しい算額が存在していることになります。

さて、問題は3問で、いずれも初等幾何の証明問題です。数値計算を専らとする日本人の算額と趣を異にするところが面白いですね。図形は彩色されていて鮮やかです。問題への色付けは日本の伝統様式に則っていますね。さらにユニークなことは英語と日本語で問題文が書かれていることです。外国人にとって漢文や日本文は難解です。そうした側面から考えると、北野天満宮は外国人観光客の一級のスポットですから、和算や算額文化を持たない国の人たち知ってもらうと言う配慮からの工夫だったのでしょう。叡智と指摘できますし、日本人には思いつかない発想と言えます。機会があれば是非見学に行ってください。

さて、近世日本の数学文化である算額奉納の風習は18世紀後半に入ると、国内の津々浦々に広まるようになりました。そのことはプロフェッシナルな研究者がたくさん誕生していたことを意味しています。その一方で、アマチュアと呼べる愛好家たちも算額奉納に係わっていました。

算額研究者として世界的にも著名な深川英俊先生は、多年にわたって全国を行脚され現存する算額を調査されました。勿論、調査は過去の文献に記録としてのこるもの、紛失したもの、今日になって復元されたものなど多岐に渉って行われました。多くの時間と計り知れない労力を要したであろうと思うと、深く頭が下がるところです。その先生の報告に由りますとそれらは2661面を数えました。そのうち現存する算額は914面になるそうです。風雪に耐えてよく残ったなと感嘆するところですが、これらの数字は調査が進んだ現在では修正が迫られることになっています。そのことは後述することにしますが、こうした修正は歴史の研究ではよくあることだと承知しておくことも必要でしょう。

算額の奉納数が18世紀後半に入ると爆発的に増えるのですが、その様子を深川先生の調査から観ておきましょう。算額奉納の風習が発生した17世紀の中葉頃の算額数は現存、記録と紛失を含めて10年間単位で一桁の数字でしたが、18世紀前半に入ると徐々に増えて、1780~1789年には前の10年と比較してほぼ3倍の105面に急増していきます。1800~1809年になりますと296面となり、10年前の約2.8倍に上っています。その後200面の数字で推移し、明治時代に入っても100面以上の奉納が続きました。しかし、1900~1909年代になると41面となり、次第に減少していきますが皆無とはなりませんでした。冒頭で紹介したように今日もなお算額奉納は続けられているのです。

ところで18世紀後半になぜ算額奉納が急増するようになったのでしょうか。その要因はどこに求められるのでしょう。一つは江戸時代後期の化政文化という庶民文化が爛熟する時代と関係していると思います。文化・文政期に発達した文化を一般に化政文化と呼びますが、これは徳川将軍の都江戸を中心に庶民が花開かせた華やかな芸術文化でした。

庶民がこうした文化が享受できる背景には識字率の向上があったことが考えられます。識字率は文化が理解できる基礎力と言ってよいでしょう。恐らくこの時代に日本人の識字率の高さは世界有数であったと思われます。言わば文化の底上げと庶民の教育力の向上に貢献したのが寺子屋でした。この頃から寺子屋は全国に広く作られ、経済的に余力のある子供たちがたくさん通うようになっていました。寺子屋では読み・書き・算を中心とする初等教育が行われましたが、そこからさらに進み高等教育(専門教育)を受けようとする庶子も出てくるようになります。算術の研究に関心を抱く者はプロの師匠(先生)について指導を受けるようになったのです。これは生徒と教授陣の双方向の充実を意味しています。また、そのような高等教育を受けさせる経済的環境も整ってきたことを意味していると言えましょう。

この時代の数的知識の庶民への広がりを示す面白い事例があります。十返舎一九(1765~1831)のベストセラーに『東海道中膝栗毛』(初編1802年刊)があることは皆さんも知っているかと思います。弥次喜多道中を面白可笑しく描いた滑稽本ですが、いまの旅行ガイドブックと言えましょうか。その一節に東海道吉原駅(いまの静岡県富士市)を出たところで、街道筋の松原で菓子を売る十四五才の少年に出会う話が載せられています。そこで二人は少年の売る茶菓子を食べるのですが、少年が掛け算九九ができないとみると代金をごまかそうとするのです。弥次さんは「一個二文の菓子を五個食ったから、二五の三文」と唱えます。喜多さんも負けじと「三文の菓子を四個食ったから、三四の七文五分、五文の餅を二人で六個食ったから五六の一五文」と滅茶苦茶な九九を唱えるのでした。こうした無法に少年が反撃します。この人たちにはもう『塵劫記』では売らぬと叫んで、「餅一個の代銭五文づつ六つくれなさろ」と目の子算で払わせるのでした。結局、弥次さん喜多さんは、少年の言い値で支払うのですが、「あの餅が一個五文もしない」と舌打ちをして、少年の方が一枚上手だったことをぼやくのでした。この話は、吉田光由の『塵劫記』が江戸時代の庶民に広く読まれていたことの証左であり、九九と言えば『塵劫記』が代名詞になっていたことを示す好例になりますが、他方としては庶民への基礎的数的知識の浸透が覗える事例と言うこともできましょう。

上述のような庶民への数的知識の浸透を促進させる大きな出来事も算額奉納を急増させる要因になったと考えられます。その出来事とは関流・最上流論争の勃発です。これも「和算入門」(42-45)-関流・最上流論争(1-4)で取り上げましたので、覚えている方もおられましょう。関流四伝の大家藤田貞資(定資)と最上流の創始者会田安明との間に起きた論争でした。論争の切掛けは算額問題の些細な修正のことだったのですが、段々エスカレートして20年に及ぶ不毛な論争に発展してしまいました。関流は藤田の弟子の神谷定令が全面に出て対峙しました。神谷は会田の友達だったのですが、会田が激高すればするほど、自身も引くに引かれる状態に陥ったようです。所謂、泥沼化です、引き際が肝心なのですが、どうも見いだせなかったようです。

俗に「火事と喧嘩は江戸の華」と囃されました。江戸で火事は頻繁に起きていましたから、怖いことですがこれには江戸っ子も慣れっ子になっていたでしょう。被災後の再建が江戸の町の活性化とエネルギーだったといえるかも知れません。喧嘩での歯切れのよい啖呵も粋の一つだったでしょう。ですから江戸の人々は両者の論争の行方を面白がって観ていたと思われます。庶民は、また、算術家も然として、両派が出版する算術書を好奇の目で読んだり、社寺に出かけて算額見物と洒落込んだりしたものでした。そうした関心の高まりと思える傾向ですが、最上流の会田安明が書き写した算額集などを読んでおりますと、10代前半の少年少女たちが師匠の指導を仰いで算額を奉納している記録に出会うのです。老若男女が関心をもって推移を見守っていた結果とも言えなくもありません。そうした好奇の目は地方にも及びました。特に、最上流では流派の命運を懸けて(?)、関流が奉納した算額を徹底調査し、算題の問題点を洗い出した上で批判的な算額を積極的に奉納しました。このことが算額奉納数を急増させる主要因になったと言えます。また、こうした調査行動は算術家間の情報ネットワークの構築にも役だったと指摘できるかも知れません。

一方、この時期、蝦夷や長崎へ外国船が来港し開港を要求する緊迫した情勢も発生していました。対応に苦慮する江戸幕府は領土の確定と海防政策の見直しの一環として、伊能忠敬(1745~1818)の蝦夷地測量要求に許可を与えたのでした。伊能による全国測量の始まりです。伊能は、寛政6(1794)に家督を譲り、下総の佐原から出府して、幕府天文方の高橋至時に師事して天文暦学・地理学の修得に努めました。その能力と直向きさは人並み以上のものがありました。短日期に伊能は高橋の下で西洋の数理科学知識を身に付けたのです。それらの中でも三角法は最新の数学でしたが、伊能は測量術として積極的に応用していきました。三角法を使って富士山の高さを測ってもいます。

 

資料1 『続神壁算法』より

伊能の20年にも及ぶ全国測量は、結果として、西洋の新しい数理科学知識を地方へ普及させることに継がります。伊能は各地を訪れては地方の算術家や測量家と面談し、新知識を伝えたのでした。それら新知識は算額問題の出題に変化をもたらし、三角法や天文暦学、測量術に係わる問題が増えるようになりました。隊員の中には各地で奉納された算額を調査するものもいたのです。第四次全国測量には上州から安中板鼻の小野栄重が参加しましたが、栄重は佐渡で算額を調査したことがあります。こうした各地の知識人との交流や調査も算額奉納に刺激を与えたのも事実でした。伊能の全国測量は、また、北方領土への関心を高めることにもなりました。文化3(1806)正月に北海道の「蝦夷国ニーカツフ義経社」へ算額を奉納したと言う数学者も登場してきます(資料1参照)。奉納者の郷貫の直上に「日本」と書かれていることが当時の国情を反映しているようで、迫り来る列強に対抗する国家意識の表れと見なせましょう。

算額奉納に拍車を掛けるもう一つの要因が、算額問題を蒐集した算術書がこの時期大量に出版されるようになったことです。関流・最上流論争開始直後の寛政元年(1789)に藤田貞資が『神壁算法』を刊行しました。この算額集以前にも算額問題を収録する算術書は幾つか出版されていましたが、本格的な算額集はこれが初めてであったと思われます。文化4(1807)には息子の藤田嘉言が主編となった『続神壁算法』も出されます。文政2(1819)に石黒信由が『算学鉤致』を出版しますが、これは必ずしも算額集とは呼べませんが、江戸時代の初期に発生した遺風の遺題継承に終止符を打ったものと言われています。石黒は伊能と親しく面談した一人です。文政10(1827)の白石長忠による『社盟算譜』は円理問題を多数収録した難問揃いの算額集でした。天保元年(1830)、上州松井田の岩井重遠が編集した『算法雑俎』は上州人による最初の算術書であり算額集でもありました。最新の円理問題がたくさん収録されています。天保3(1832)には江戸の大家内田五観が編集した『古今算鑑』が出版されます。これも難問を集めた算額集と呼べます。ただ気をつけなければならないことは、これら算額集に収録される算額の総てが奉納されたとは限らないことです。掲額予定の算額も載せられていて、その後どうなったか分からないものも数多くあるのです。算額調査で注意を要する事案になりましょう。また、算額集に載らない算額もたくさんあります。資料2はその一例で、安政7(1860)、群馬県高崎市八幡一社八幡宮に中曽根宗邡の門人たちが奉納したものです。幕末円理問題を掲載した典型的な算額と呼べるかも知れません。

 

資料2 安政7(1860)群馬県高崎市八幡一社八幡宮奉納算額

 

 

上記紹介以外にもたくさんの算額集が出版されるのですが、いずれにしてもこれらを精読すれば全国の数学者の研究動向が一目瞭然となるわけですから、そこから着想した新問の作成や新算額奉納に繋がっていきました。算額は数学者にとって研究の一つの起爆剤になったのでした。こうした傾向が明治時代、大正時代そして現在へと継承されていることは歴史の事実として大変重い事と言えると思います。

先に、記録を含めた算額の数は2661面と書きました。そのうち現存する算額は914面とも言いました。実は、これらの数字は暫定的なものと指摘しなければなりません。事実、ホスキングさんによる新しい算額が一面加わったのですから、現存数は当然変わることになります。それ以上に全国の研究者による調査が進行していて、記録・現存を含めて修正をする必要が出てきています。例えば、佐賀県は空白県として報告されていますが、東北大学の蔵書を調査すると奉納算額があったことが分かります。2018年夏、栃木県佐野市で開かれた全国和算研究大会では宮城県で新たに5面の算額が確認されたとする報告がありました。また、筆者の研究仲間である埼玉県在住の松本登志雄先生は、県内の算額を調査されて新たに20面現存することを確認されております。これらの算額についてはいずれ雑誌で公表されることになっています。群馬県でも調査が進められており、未確認の算額が存在しているのだろと言うことが分かってきました。資料3は表題を『県下の神社に掲げられたる数学問題』(富岡市貫前神社宝物殿藏)とします。これは群馬県内で奉納された算額を、明治41(1908)頃、群馬県師範学校の数学教諭飯塚伝吉が生徒たちに調査させて筆録に及んだものです。この記録集には未確認の算額がおよそ10面収録されていて、調査した私たちを大いに驚かせたものです。明治末年の国家意識が高揚する時代、そして近世日本の数学が忘れ去られ、かつ算額奉納は減少し、その一方では算額の風化が進む時代でした。数学教師の飯塚は失われていく日本の数学と算額を後世に伝えるため、また、優れた数学教材として算額の収集を思い立ったものと考えられます。このような仕事が群馬県以外で行われた可能性がありますので、読者諸氏にも是非の調査をお奨めいたします。

 

資料3 『県下の神社に掲げられたる数学問題』表紙と未確認算額問題

 

 算額は近世日本数学が残した貴重な文化財です。そこには数学の問題だけでなく、時代時代の歴史の様々な事実が刻まれています。女性たちが車座になって数学を勉強する姿を描いた算額もあり、数学塾の内部を描く貴重な歴史的証言になっているものもあります。親が子供に勉学を督励する様子を描いた算額もありました。福島県では蛇の絵柄をもって問題を作り、格天井に奉納した事例もあります。これらは、いま、時代と共に忘れ去られて、廃れていく状況に陥っています。世界の数学の歴史にあって、唯一算額文化を生み出した近世日本数学、和算。決して忘却の彼方に置き去りにしてよいものではありません。後世に継承するべく努力をいまに活きる私たちは果たさなければなりません。その道の一つが世界記憶遺産への登録と考えています。この道筋を読者の皆さんと真剣に語り合えればと思うのですが、如何でしょうか。平成最後の歳30日に校了。文末ながら本年の皆様のご多幸を祈念いたします。

                                          ( 以下、次号 )

 

1   この発表は、Mathematics of Takebe Katahiro and History of Mathematics in East Asia, Edited by Tsukane Ogawa and Mitsuo Morimoto, Advanced Studies in Pure Mathematics 79, 2018, Mathematical Society of Japan, TokyoではSolving Sangaku with traditional techniques(pp.311-319)と改題して収録されている。