和算入門


 近世日本の数学がもつ文化史的特性に遊歴と遊歴数学者の存在が指摘できます。遊歴は諸国を巡業することを指す言葉ですが、ここでは数学者が日本各地へ出向き、旅をしながら数学教授する意味で用います。つまり、数学者が諸国を巡回して、各地の数学知識を必要とする人、あるいは数学愛好者に四則計算(算盤の運用を含む)から代数方程式の解き方などを教え、学力が増進すれば門人にして自分の後継者を育て、その一方では各地の専門家と難問・奇問に興じ、さらには高尚な円理問題の新作や解法の共同研究に及ぶ活動の総体を指す用語といえましょう。西洋でもその分野の専門家の在所を訪ねて議論を重ねることはあったようですが、庶民の教育にまで手を伸ばしたとは聞きません。中国にも各地を遍歴する数学者はいたようですが、それは主に哲学的思索の旅であったように見受けられ、日本のそれとは若干違うように思えます。

 いわゆる出張教授は江戸時代の初めの頃すでに実現していました。儒者の国内移動は頻繁だったようですが、数学では吉田光由(1598~1672) が先駆者と呼べるかも知れません。承知のように光由は寛永4(1627) に『塵劫記』を出版したことで、17世紀前半の斯界では高名な算学者になっていました。その評判は全国的だったようで、寛永9(1632) には肥後熊本藩の藩主細川忠利(1586~1641) に召されて、熊本にあって算術教授に及んだと伝わります。光由の事例は、全国の周游ではなく、あくまでも出張教授の範囲を出ていないように見えますが、これが全国遊歴の先例になったのかも知れません。

吉田光由の後の数学者が大名家に仕えて講義をすることは頻繁に出現する様になります。磐城平藩侯内藤政樹に仕えた久留島喜内や松永良弼、久留米藩有馬頼徸の庇護を得た入江脩敬や藤田貞資などがその例になりましょう。なかでも特異な任官は、八代将軍徳川吉宗の天文暦算問題の下問に応答する建部賢弘(1664~1739) や中根元圭(1662~1733) の場合でしょう。建部は旗本御家人ですが、中根は在野の暦算学者で享保12年には十人扶持を貰う一大お抱えになりました。吉宗の数理知識はなかなか進んでいたようで、質問も専門的で生半可な解答では納得しなかった話が伝わりますから、下問に応える彼らの緊張のほどが窺えるところです。しかし、遊歴教授はこうした大名家への出張教授あるいは将軍の下問とは趣を異にします。

 

18世紀前半の遊歴算家大島喜侍(未詳~1733)

 遊歴教授発祥の詳細は承知しておりませんが、18世紀の前半頃にはすでに始まっていたように見えます。中根元圭に師事した大島喜侍(未詳~1733) は、近世日本数学における遊歴教授の草創期に属する数学者と呼べるかも知れません。大島は、通称を善左衛門、号を芝蘭と称する摂州難波出身の数学者でした。家は代々呉服商を営んでいたようで、号の芝蘭は屋号に由来するようです。喜侍は根っから数学が好きで家業はほとんど顧みず、また、豪放磊落な性格が重なったためか、それが元で家業は破産したと伝わっています。数学は前田憲舒、島田尚政に学び、後に中根元圭に従い、測量術は久留島喜内の父村上義寄に学んだとあります。家業が破産する前かその後のことかは不明ですが、摂州、泉州、丹波、播磨、備州、阿波、淡路島など畿内周辺を廻って数学教授を行い、教えた門弟の数は千余人に達したようです。ただし、実数のほどは定かではありませんが。その遊歴の途中、淡路島で病死しました。旅に出て病む。どこかで聞いた覚えがありますね。それは兎も角、記録が語る大島の遊歴の話はこれだけで、何をどのように教えたのか、教材は、授業料はどうしたか。はたまた、宿泊は、食事はなどなど気になることは山ほど有るのですが、皆目分かりません。喜侍に関する新史料の発見を俟ちたいところです。

 

全国を旅した山口和(未詳~1850) と『道中日記』

 近世日本数学史のなかで本格的な遊歴を行った人物は誰かと問えば、まずもって越後国水原にいた山口和(未詳~1850) を挙げなければならないでしょう。

当時、江戸で数学道場を開き評判を採った数学者に長谷川寛(1782~1838) がいました。その門下からは『算法変形指南』(文政3年刊)、『算法新書』(天保元年刊)、『大全塵劫記』(天保5年刊)、『算法點竄手引草初編』(天保4年刊)、『算法地方大成』(天保8年刊) などの好著が矢継ぎ早に出版され、江戸に長谷川の数学道場ありとその名前を天下に轟かせていました。このように幕末の数学界を席巻する算術書をつぎつぎと出版する長谷川の弟子たちの様子については、長谷川社中の番付表で窺い知ることができるのですが、いま話題にしようとする山口和は天保14(1843) 発行の『社友列名』にあっては、「別伝 山口倉八和」と記載されています。「別伝」の地位は数学道場の序列の正統、齋長、助教に次ぐ地位で、門弟指導の一人、則ち、長谷川の高弟と認められていました。

山口和は、通称を七右衛門といい、後に倉八と改め、坎山と号しました。越後国北蒲原郡水原の人で、数学は初め江戸の日下誠(1764~1839) の門人に学んだようですが、上述のように長谷川寛の数学道場で研鑽を積んで「別伝」の地位にまで上り詰めました。山口が諸国遊歴の旅に出たのは文化年間の終わりの頃ですが、その様子は文化14年に起筆する『道中日記』で知ることが出来ます。この日記の写しは日本学士院に残されていますが、表紙にはつぎの様に書かれています。

 

文化十四年丑年ヨリ

 道中日記

  越後水原 山口和

 

日記をめくっていきますと、冒頭は「天地開闢の年代は知らず。本朝国常立尊より伊弉諾、伊弉冉尊迄八百億二万三千四十年と云う。天照大神より---」と続けて神代の時代から「元治元甲子下元始」までの年数を記録しています。最後の元治元年のところの年数は記載されていませんが、山口は嘉永3(1850) に亡くなったのですから、日記にその後の「元治」の元号が登場することはあり得ない筈です。ことによれば後世の書き込みがあるのかも知れません。そのことの追求は一事留保にして、さらに読み進めていきますと「殿中年中之御式」とあって江戸城内の年中行事のことなども記事になっています。さらに沢山の和歌や俳句も書き写されていますが、なかには「白川楽翁」こと老中首座松平定信の和歌「紅葉」もしっかりと書き採られているのです。驚きです。加えて江戸市中の諸行事を話題にした後、やっとのことで旅の話が始ることになります。書き出しはこうです。

 

文化十四年丁丑年卯月九日初て出立にて、其夜下総国相馬郡取手宿旅宿屋某方に泊る江戸より十里。十日同国豊田郡上蛇村玉室院方に泊る。(中略)--- (九月)十八日土浦在、真鍋天王参詣、但し土浦は土屋相模守様御城下なり。

 額如左

 

どうやら山口は文化14年陰暦49日に江戸から遊歴の旅を始めたようです。同月18日には土浦に到着しました。その日「真鍋天王社」に奉納された算額を正確に記録いたします。山口が筆写した算額は、享和3年癸亥6月、矢口喜時とその門人らが奉納したものでした (詳細は松崎利雄編著『茨城の算額』、筑波書林、1997年刊を参照してください)。このようにして山口は各地の神社仏閣を訪ね、そこに奉納された算額を記録していくのでした。それら記録された算額のなかには現在に伝わるものもありますが、失われたものは現在の私たちにその内容を教えてくれる役割をもつことになりました。この一事をもってしても記録保存の大切さがよく分かります。なんと山口の書写したものは算額だけではありませんでした。松尾芭蕉の句碑なども写しているのです。しかも絵入り・図入りで。寺社などの来歴や在所の旧跡なども挿絵付きで記録したのでした。ちょっとした文化財保護調査の感もあります。

一方として、算額奉納者の自宅をも訪ね、数学論議に華を咲かせたようです。勿論、事情が許せば一宿一飯の世話にもなりました。山口は、このような算額の蒐集と数学交流を重ねながら諸国漫遊の旅を続けたのでした。彼の旅は、他方としては、地方に住まう数学者にとっては新鮮な知識に触れる刺激的な機会になったと思われます。

 

山口の『道中日記』は「文化十五年正月より 二」「文政三年七月より 三」「文政五年三月より 四」「文政五年九月より七年六月 五」「文政七年六月十四日より 六」と続きますが、「日記六」の最後に「算学門人控」として諸国にいる長谷川派の門人の住所と氏名が書き連ねられています。記名は常州に始まり、奥州、羽州、信州、越後など京都・近江以東の門人名が多く登場します。後述する「算者控」では中国地方や九州の数学者のことも記録されていますから、山口の遊歴は全国に及んだといってよいでしょう。

前者の「算学門人控」で目を惹かれることは、彼ら門人の職種が多種多様であることです。例えば、常州鹿島郡大船津村の飯島作右衛門は職名を「医名長木」と書いています。奥州菊田郡の赤津弥次右衛門は「名主」でした。更に拾って行きますと「給人格」「御具足師」「百姓代」「組頭」「医者」「元締」「質屋并小間物商」「しち酒屋」「しち舟問屋」「荒物商」「大工」「役僧」「藩士」「魚問屋」「薬種屋」「舟屋ごふく」「かし屋」「糀屋」「たばこ屋」などの多彩な職業名が記載されているのです。

藩士は支配者層に入りますが、その他の人々は所謂被支配者階層に属する人々でしょう。因みに「給人格」は支配者層に属するといってよいでしょう。広い意味で有閑階級に位置づけてよいかも知れません。さらに、一々その数を数えませんでしたが「名主」「百姓代」「組頭」も多く見えます。彼らは農村支配の末端に位置づけられる役人になり、長谷川の門人のなかに占める割合は高いものがあります。そのような名主クラスが幕藩体制の末端機構に位置づけられるにしても、無闇に税金を取られてはたまりませんから、しっかりとした数的知識を求めていたことの裏返しになるといえるのでしょう。

「医師」は、現代医学でもそうですが、いつの時代も高度な数理知識が求められていました。特に、薬剤は調合次第によって、僅かな計り違いでも良薬が毒薬に変じてしまうことがありますから、扱いには細心の注意を要ました。顕著な事例になるかも知れませんが、近世初頭の医師(あるいは薬師)たちは一様に度量衡の研究に関心を寄せているのです。その背景には、漢方が古代中国の医学知識に基づいていることはいうまでもないのですが、ところが中国と日本の各時代で度量衡の長さや重さの単位に違いがあって、結果として調剤に苦労することが生じていたのです。医師はその事実を知っているからこそ様々な書籍で度量衡の研究に勤しみ、関心を払うように注意喚起をしていたのです。そうした研究には少なくとも初等的な数的知識は必須になりました。上州総社の数学者石田玄圭(未詳~1817) が医を生業としながらも、江戸の藤田貞資に学び関流五伝の免許皆伝者と大成したことが思い浮かばれます。

一方、少し気になるのが「元締」です。この用語は歴史的にいろいろな意味があるのでしょうが、もし博徒だったらと思うと身が竦んでしまうところです。いずれにしてもどのような職業でも数理知識が必要であったことはいうまでもありません、列挙した職業名がそのことを雄弁に語っていることになります。

さて、「算学門人控」に引き続いて「算者控」が載せられていますが、これは諸国の有力な数学者の氏名とその住所の記録になっています。関流、最上流など流派を越えて記名されており、当時、全国的に知られていた算者の殆どが登場してきます。筆者の住まう上州について見ていきますと、

上州板鼻駅

 い「え」び屋と云う  小野良佐

が最初に登場します。山口は小野の屋号を「いび屋」と書いていますが、板鼻では「えび屋」が小野家の通り名でしたから、聞き間違いか、書き間違いかのどちらかでしょう。小野良佐栄重だけかと不審に思いながら丁数をめくっていきますと、さらに、

 

 上州群馬郡板井村   齊藤与茂吉

 同国高崎藩 代官頭  品田又五郎

 上州倉賀野宿     次賀宇太郎

 上州求そうじゃ    都木吉兵衛

 同 むな高村     坂本丹次

 同 中里村      黒崎九兵衛

 同 池の端村     富藤武八

 同 横手村      中林孫七

 同 龍け村      亀井庄蔵

 外 佐渡り村に一人

 

と出てきました。齊藤与茂吉は群馬郡板井村(現玉村町板井)の齊藤宜長(1784~1844)のことでしょう。齊藤は小野栄重の高弟として知られる存在になっていました。その他の算者名についてはいまだよく分かっていない人も含まれていますので、今後の調査が俟たれるところです。そして最後に「外 佐渡り村に一人」と書かれた人物が、「和算入門(54)-遊歴する数学者たち」のもう一人の主人公である劍持章行になります。

 

上州沢渡の遊歴算家劍持章行(1790~1871)

 劍持章行(1790~1871)は上州吾妻郡上沢渡村の出身で、通称は要七郎(後に要七)、字は成紀、豫山と号しました。家業は農耕ですが、旁らに草津温泉に通う馬方をしていたと伝えられています。数学は安中板鼻駅の小野栄重について学び、文政7(1824) には関流七伝の免許状を伝授されています。文政13(1830) には、同門の岩井重遠を閲者として円理の難問を丁寧に解説した『算法円理冰釈』を出版しました。天保2(1831) に師の栄重が没すると江戸に出て内田五観(1805~1882)の「得瑪第(マテマテイ)()塾」を訪ねます。それは天保10(1839) のことでしたが、劍持はこの年の1024日、江戸を出立して下総へと向かい算術指南を開始したのでした。劍持による遊歴教授の始まりです。以後、明治4(1871)82歳で下総国香取郡鏑木村の山﨑家にて客死するまで関東一円の遊歴を続けたのでした。

 

劍持の旅の一部始終は『旅中日記』に記されているのですが、基本的には先の山口和の『道中日記』と同じ内容ですけれども、門人のこと、教授内容のことの外に、宿のこと、料理・食事のこと、金銭の出入り(出納)のこと、書籍出版に係わることなどが子細に書かれているところに特筆すべきものがあります。言い換えれば劍持の『旅中日記』は幕末の地方の文化状況や経済環境を考察するに足りる内容を持っているといえるのです。劍持の日記は、和算研究の先哲大竹茂雄先生が『和算家劍持章行の遊歴日記』(群馬県文化事業振興会、平成25年刊) に翻刻されていますから、これを参照しながら以下に紹介してみたいと思います。

 例えば、天保1012月の日記を読みますと、同17日は、

  一 八十文  酒・さかな

  一 百文   登戸舟宿大坂や夕餉

  一 三十二文 はしけ舟出入両所 

さらに同20日は、

  一 四百文 そうり・けた

  一 二百文 やたて

など酒食代や船賃、草履や下駄の支払い代金などが記録されています。劍持の日記を見ていると頻繁にこうした消耗品の記録が出てきますから、遊歴は結構物入りだったことが分かります。また、20日の記録の「やたて」は「矢立て」のことで旅先で使う筆記用具を指します。同23日には「銀二十八匁 算盤」とあります。算盤(そろばん) も買ったようですね。使い込めば痛みも早かったのでしょう。でも、現在の算盤と較べて少し高いような気がしますが、如何でしょうか。

 旅先の所々で富士山の測量も行っています。一例だけ引用しましょう。

 

 一 天保十五辰年十月八日、常陸国鹿島郡鹿島宮地より須賀村江出候原、須賀村江近き処にて駿河国富士山を量るに申十〇分半

 

とあります。「申十〇分半」がそれですが、方位磁石による簡易な観測だったのでしょう。

 天保14828日の日記には地方で数学教授を求める声があることを書き留めています。

 

 此時津之宮之船頭吉兵衛と申者□□、佐原やに問尋者相□□候由、船頭津之宮にて算術稽古いたし度者数多有之由、是より潮来迄便舟有之、順風にて暫時に潮来和泉や之前迄至着。

 

 この記録からは、劍持の旅のことは地方の人たちに共有されていたようで、船頭から算術稽古をしたい者が沢山いるという情報を得て潮来へ出向いたことが分かります。

嘉永元年313日は上州桐生町での教授のことが書かれています。そこでは、

 

 一 十三日之夜、同六丁目喜左衛門算術開平方稽古

 一 十七日   喜左衛門宅へ行算術指南、其夜止宿

 

と出てきます。桐生町6丁目の喜左衛門に「開平方」を教えたといいます。これが算盤による平方根の計算法か、二次方程式の解法のどちらを指しているのか不明ですが (おそらく前者と思いますが)、旅先での教育内容が分かる貴重な記述になっています。

 旅先から門人たちに声を掛けて算術書の出版にも及びました。出版に係わる費用を門弟から徴収することは劍持以前にその事例はありましたから、決して珍しいことではないといえます。しかし、日記には誰から何文貰ったかが細かく載っているのです。版元との校正のやり取りのことも残されています。そして、算術書の出版には門人たちの財政的協力が必要でした。出資金は「憑力金」と呼ばれていますが、氏名や金額が詳細に日記に書き留められているのです。それら出資金の援助を得て旅先から出版した算術書に、嘉永6(1853) 刊の『円起方成』、安政2(1855) 刊の『量地円起方成後編』、元治元年(1864) 刊の『算法約術新編』などがあります。勿論、販売もしたようです。

 こうした劍持章行による関東の遊歴教授は、明治開化以後のこの地方の数学知識を支える礎になったことはいうまでもないことでしょう。

 

明治初頭の遊歴算家たち

 幕末から明治に懸けてさらに多くの遊歴算術家が登場します。福島三春藩教授役を務めた佐久間纉(1821~1896) も諸国遊歴の旅に出ました。(つづき)は、東北地方にその勢力を広げた佐久間派の総帥となりますが、天保13(1842) 24歳の時、算学修行の旅に出ました。旅は三度に亘りましたが、東海道、近畿、四国、山陰、山陽、中部、九州さらには羽前羽後など全国に及びました。また、佐久間は遊歴の途次、西宮大神宮、堺住吉神社、讃岐金比羅宮、京都六角堂などに算額の奉納もおこないました。4箇所の神社の算額を奉納したことは珍しいといえます。当地の著名な算術家と交流を積んだことはいうまでもありません。これらのことが、結果として、三春に佐久間在りとその名を広めることに繋がったのでした。

芸州の法道寺善(1820~1868) も諸国の旅にでました。法道寺の場合は、自筆の研究ノートを先々で与えたことに特徴を見いだすことができましょう。法道寺の筆跡は独特ですから一見するだけで分かります。教授した数学は円理と算変法(今日でいう反転法に匹敵)が殆どで、幕末におけるこの分野の研究の普及と発展に大いに貢献しました。

明治になっても遊歴教授は続きました。最上流の橋本守善和山(1836~1892) も明治になって上京した後、関東の遊歴の旅に出て教授をしています。守善の足跡が明瞭に残っているのが群馬県で藤岡市や桐生市に関係史料が残されています。明治5(1872) 頃には桐生町にいて、少年金子利三郎に数学を教授していました。また、明治21(1888)、関流の岸充豊の門人が藤岡市の金光寺に算額を奉納したとき、守善の門人12名ほどが額面に名前を連ねたのでした。関流と最上流の協力によって奉納がなった算額と呼べると思えます。橋本の遊歴教授を調べてみますと、明治近代学校教育が開始した直後の地方では、数学教育の内容と程度に不満を持つ人たちが出ていたように見受けられます。そうした人々はそれまで慣れ親しんでいた近世日本の数学和算に救いの道を求めたのでした。

また、明治中期頃には算盤の教授を主とした遊歴算家も登場してきます。これは日本における資本主義の発展と関係しているように見えますが、商家ではことに珠算を必要としたことの表れといえましょう。いずれにしても、中央地方を問わず、人知れず歴史の中に埋もれてしまった無名の数学者が沢山いることは間違いありません。そうした人々の足跡を洗い出せば、さらに近世から近代明治における数学の姿がより鮮明に浮かび上がり、数学成果は当然として、文化的豊かさが再び現在に光り輝くようになると信じて疑いません。是非とも地元の調査をしてきてください。

 

最後に指摘しておきたいことですが、こうした遊歴教授が数学界特有の文化ではなかったということです。それば日本固有の文化現象とも呼ぶべきもので、色々な分野でも発生していたのです。もっとも有名な遊歴は松尾芭蕉(1644~1694) の奥州の旅に求めることができましょう。名作『奥の細道』は別に旅日記と呼んでよいでしょう。芭蕉は各地の俳句愛好家のところを訪ねて旅をしました。そして句作の指導・添削もおこなったのでした。近世数学者の遊歴はあるいは芭蕉の旅を真似たものといえるかも知れません。また、関流の教科書『三部抄』や『七部書』は芭蕉の『俳諧七部集』に範を求めたのかも知れません。芭蕉は「句聖」と称されましたが関孝和の「算聖」もこれに倣ってのことだったと考えることもできましょう。しかしそうした文化的形式の踏襲は兎も角としても、それだけ地方に数学を求める人々がいたという事実は否定できないと思います。広大な数学の裾野が眼前に広がっていたのです。そのような広汎な人々の支持を得て発展・開花したのが近世日本の数学であり数学文化でした。

                   ( 以下、次号 )