堪らなく楽しい数学


―2月2日でゼロ除算発見5周年を迎える。

 

2月2日でゼロ除算発見: 100/0=0 5周年を迎える。 この解説サイトも終末に近づいているので、それらを意識して前回の (無限大の不思議さを未知の問題として)の解答についても述べたい。

ゼロで割る問題は、神秘的に永い歴史を有して来ていて、今なお混乱を続けている。世情では無視されていると考えられる。ゼロ除算発見間もなく ゼロ除算は当たり前であると 初期論文でもそのように言明していたが その信念は深まるばかりで、すっかり当たり前と 繰り返し言明、論文や国際会議などでも発表をしている。問題は、相当に初等数学全般に影響が及び、現代数学の欠陥を示しているということである。 我々の世界観、空間論、数学の基本に抵触する問題である。

要点は、解析関数を考えるときに、特異点そのものでは考えず、特異点を除いた部分で関数を考えて来たのに、実は孤立特異点そのもので、解析関数は、有限確定値を取ることが 分かったことである。― 例えば、解析関数 W= exp (1/z) (1/z の指数関数) は 原点z=0 ピカールの除外値1を取っている(ゼロ除算算法)。― 何と、この関数は原点の近くで、ただ一つの例外の数を除いて、すべての複素数値を無限回取るとされてきたが、その例外値が実は、特異点で取られていた。 その意味で、全く新しい数学が発見された という事実である。 その影響は900件を超える知見を齎し、初等数学全般に大きな影響を与える。既に確立しているホーン・トーラスという、アリストテレス、ユークリッド以来の リーマン球面に代わる空間が発見された。我々の結果は そのように自然な分数の意味で、1/0=0/0=\tan(\pi/2)=0 と表現されるが、その影響は 天動説が地動説に代わるような世界観の変更さえ要求され、現在の世界は、ゼロ除算の新しい世界から見ると、未だ夜明け前 と表現される。現在全体の様子を著書に纏め中である。

一般的な視点からの要点とは、まず、我々はゼロで割れることを、厳密な意味で与えて、言明し、その影響を広範に示すこと。それと裏腹に ゼロと無限の関係を明らかにして、永い懸案のそれらの概念を明らかにして、それらの関係を確立することである。特に この基本的な関係は ホーン・トーラスとして 幾何学的に明示される。― それで、無限とゼロの意味とそれらの関係が分かったと 人々は認識できるだろう。そこで、ここでは ゼロと無限の意味と関係を解説しよう。

 

ゼロと無限の正確な意味と関係を簡明に記述したい。厳格な記述がここでは 大事である。

先ず、ゼロと無限の ここでの定義である。定義は論理の初めに大事である。ここではゼロとは、複素数のゼロのことで、複素数体の加法における単位元で したがってゼロの定義は 厳密に定義された。それを 複素数平面として表現して、幾何学的には 複素平面上の原点を表すと考えれば、ゼロは複素数面上に表現されていると考えられる。もちろん、数として、実数や実軸を考えても良い。原点、ゼロも同様である。

 

次は無限の定義である。これはいろいろな意味や定義もあるので、ここでは 厳格に次のように定義しよう。 簡単に言えば、厳密な定義が与えられている 所謂複素解析学における無限遠点のことである。 無限の意味を明瞭にしたい。複素平面の一点コンパクト化という概念がある。 複素平面のあらゆる円盤(コンパクト集合)の外に存在する点を想像して それを無限遠点と名付けて考える。そのような点は存在するだろうか。 想像上の点なので理想点とも呼ばれている。 その想像上の点はz平面上に球を置いて、z  複素平面から球面上に立体射影すると、そのような理想上の点は 実は球面の北極に対応する点として考えられ、球面上では明確に この点に対応する点として、球面上では見えるように 明白に 捉えられる。 立体射影については 詳しい解説が幾らでも参照できるので、図を見ながら、参照して頂きたい。

すると、ここで言う、無限とは 無限遠点のことで、球面上では 北極点に対応する点として定義され、実在感もして、あらゆる円盤の外に存在する点であることも理解できるだろう。- ここで、あらゆる円盤の外を考えるのは 位相空間論で 平面のコンパクト化の概念を導入するために必要な表現である。- アレクサンドルフ の1点コンパクト化。

ところで、この無限は、実数の場合ならば、実軸上の あらゆる区間の外にある点を考えるのであるから、プラス無限大やマイナス無限大を 表現していることが分かり、この無限の定義は適切であること、定義の裏付けとしての良さを理解できるだろう。

そこで、問題はその無限遠点は どのように表現されるだろうか ということである。 それは数だろうか。数で表されるだろうか。

複素解析では 無限の方に存在するとして 無限の記号∞で表現してきた。 複素解析では 符号なしの無限で、北極に対応する点である。 直線上をどのような方向に 行っても対応する球面上の点は 北極点に到達するから、この考えは自然で、諒解できるだろう。この考えは100年を超えた考え方で、世の定説と考えられている。- 大事な論点は 無限は近づく、極限の考え方で 捉えられているという 観点である。無限には、極限の概念が必要である。― 近づく、限り無く近づくという考え、概念である。限りなく遠ざかるも同様である。限りなく大きくなるもそうである。

ところがゼロ除算の発見で、天地が入れ替わるような事実が発見された。これは ゼロと無限の本質的な関係を述べている。基本的な関数W=f(z) =1/z を考える。z がゼロに近づくとき、W は限りなく無限遠点、無限に近づいていくことが 容易に分かる。これは歴然である。限りなく無限に近づいていくのだから、1/0 を無限としたくなるのは当然である。実際、1/0 = ∞ と書きたくなり、書いている本も多い。近づいている様をそのように表現していると言明すれば、それは定義であるから、正しい。適切な表現である。∞ の意味は厳密に定義された。 1/0 の意味は如何であろうか。当然、普通の分数でないことは明らかである。 実際、もし、それを a と置けば 1= a x 0 =0 となり、直ちに矛盾になってしまう。 ― ゼロ除算禁止の根拠、ゼロ除算が不可能であることの原理である。 我々の今の考察では、1/0 で 関数W=f(z) =1/z の z がゼロに近づいた先を表している意味と解釈される。すなわち、等式 1/0 = ∞ は 両辺とも極限を通して、両辺の意味が与えられる。近づいて行った先を表している。この意味は正確に正しい。イプシロン・デルタ論法で 厳密に数学的に記述が可能である。

ところがこの状況で ゼロ除算の発見とは 次のようなものであった。関数W=f(z) =1/z

の原点 z=0  での値は 何と ゼロであるというのである。この事実は沢山の動機づけと具体例で示され、結果は既に 数学の実体 であると言える。- この件は、ここでは触れず、事実として進める。

ゼロ除算では 1/0 の意味は もちろん普通の分数ではないが、関数W=f(z) =1/z

の原点 z=0  での値が ゼロであるという意味である。この意味はもちろん明白である。

我々は沢山の動機づけと定義を導入したが、この表現が最も簡明で良くゼロ除算の意味を表現していると考えている。

実関数y=/xのグラフを書いて その関数の原点での値をゼロとすれば、ゼロが、原点がグラフの中心で美しい点を表していることを見ることができるだろう。 そこに現れたのが、強力な不連続性である。すなわち、飛び、飛躍、急激な変化である。 しかも、無限からゼロに飛んでいる。実関数y=/x は 正の方向からゼロに近づけば、正の無限大に、負の方からゼロに近づけば負の無限大に近づくのに、原点での 値は何とゼロである。

ここで実に面白いのは、1/0 について、2つの解釈が有って、一方では無限で、他方ではゼロである。天と地の違いで、無限は極限の概念で捉えられ、ゼロは関数値として確定値、すなわち数ゼロで表された事実である。

無限とは非有界に発散していく先を表す、無限遠点のことで、近づいて行った極限点は 数字ゼロで表されている。- 無限遠点がゼロで表されていることを表現している。これで、ゼロと無限の関係は 捉えられたであろうか。 いろいろ冗長に述べたが、ゼロと無限の関係は、無限遠点がゼロで表されると厳格に述べられる。 ゼロも無限遠点も厳格に述べられ、それらの関係も厳格に述べられている。

数学的にはこれで良いが、神の意志を想い、なぜ無限遠点がゼロで表されたのであろうかと哲学的な考察を進めるのは 楽しい。

これについて、想いを少し述べて置きたい。無限遠点とは想像上の点であり、それを表す数は 存在しない。ゆえにそれを表現する数も存在しない。 そのような時にゼロで表現する。

すなわち、ゼロには存在しないこと、不可能性を示す意味が存在する と考える。ゼロの役割と意味が存在すると考える。関数y=/x は 正の方向からゼロに近づけば、正の無限大に発散する。 その先を表現する数は存在しない。それ故に ゼロで表されると神の意志を想って理解するのが良いと考える。 - 無数の星とは、星が沢山有って その個数を表現する数が存在しない意味と解釈できる。個数に対応する数が無い、無数。

2つの例を挙げよう。

 

1 + 1+ 1+ ……

1 + 2 +3+ ……

 

のように 限りなく加えて行けば、それらは、どうなるだろうか。部分和の極限値を考えて それらは +∞ と考えられる。ところがゼロ除算の世界では それらの結果は 何とゼロになることが 広範な例ばかりではなく、数学的に厳格に導かれた。この驚嘆すべき結果は、上記神の意志と考えられる原理によって理解するのが良いと考える。我々は数学の論理を超えて 分かったと理解したい、納得したいものである。

ここで、結果ゼロであることに対して、それでは、上記で 途中から加えて行ったらどうなるかと考えて それらも再びゼロになるが、明らかな矛盾に陥ると考えてはならない。級数の和が上記の場合のようにゼロになるとき、級数の和は実は、普通の意味での和ではなく、新しいある意味での和になるということである。- これは 条件収束級数における和と同じように元々の意味での和でない場合と同じようで、我々は新しい意味での和を考える必要がある。級数の和の概念の拡張が 必要である。 ― 結果としては、無限を確定値のように考えていた場合、実際はゼロで表される。

上記は信じがたいと思われるだろう。 そこで、そうかも知れないと思える例を挙げて置きたい。円の面積を考える。円をどんどん大きくして行けば、半径をどんどん大きくして行けば、面積は幾らでも大きくなっていく。 ところが、半径を大きくしていった先は、 円は直線になってしまい、円盤は半平面になってしまう。ところが数学的に半平面の面積は、ゼロになっている。 それが、実は、我々の数学であった。

それは、上記神の意志による。 数学的にも厳格に導かれる。実は感覚的にも、直観的にもそうである。

ゼロと無限遠点の関係を実現する リーマン球面(立体射影における球面)に代わる新しい空間のモデルとして、ホーン・トーラスのモデルが最近確立された。

 

https://www.horntorus.com/manifolds/solution.html

 

サイトの美しいトーラスを見て下さい。ゼロと無限遠点が接していることが分かる。我々はゼロと無限が似たような性質があると感じてきたが、実はそれらは接していて、一つの2面であることが分かった。原点を通る直線はホーン・トーラス上では 2つの閉曲線に写るから従来の世界観とは違った アリストテレス、ユークリッド以来の 新しい空間 であることが分かる。最近、物理学者たちも注目し出している。

 

ゼロの歴史は結構知られているが、無限の歴史は不明なので下記を添付して置きたい:

 

歴史

紀元前400年から西暦200年頃にかけてのインド数学では、厖大な数の概念を扱っていたジャイナ教の学者たちが早くから無限に関心をもった。教典の一つである「スーリヤ・プラジュニャプティ」(Surya Prajnapti)では、すべての数は可算、不可算、無限の3種類に分類できるとしている。さらに無限には、1方向の無限、2方向の無限、平面の無限、あらゆる方向の無限、永遠に無限の5種類があるとした。これにより、ジャイナ教徒の数学者は現在でいうところの集合論や超限数の概念を研究した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%99%90

 

臨場感を表現するために次も添付したい:

 

奥村先生:

 

具体例を 本の原稿 精読 追加で 見ていて、この例で、すべて明らかと 可笑しいように 悟ったように 感じました。

和算の論文、 ながめて、喜びが 激しく湧いてきます。

今朝のも 良いですね。

2019.1.12.7:42

 

ゼロ除算は  すっかり   当たり前。 

 

 No. 581 (2017.7.31.16:20):

クテシビオソス

図は 流管の断面Sと そこでの 流体の速度vの当たり前の関係 v= C/S ( Sは流管を平面で切った流管の断面積、v は速度、Cは定数) ですが、 ゼロ除算は 全く当たり前であることが分かります。 昨夜、このような具体例を 参照しているとき、悟るように 変に 実感しました。 ゼロ除算の不思議さは、 Sが小さくなっていくとき、vがどんどん大きくなっていくのに どうして 分母Sがゼロで、突然vがゼロになるかにありますが、この現象はその理由を 良く示しています。 断面が 小さくなって行けば、速度は どんどん大きくなりますが、断面積がゼロになってしまえば、流れなくなり、よって 速度はゼロになる。

現実的には、物理的にも、流れなくなって、ゼロになりますので、 すっかり ゼロ除算は 当たり前です。                                    2019.1.12.7:25

 

以下、次号