和算入門


「和算」が江戸時代の日本に発達していた数学を意味する学術用語であることは、算額のそれと同様に、現在では世界でも広く知られるようになりました。ここに至るまで、百年ほどの時間が掛かっていると言っても過言ではないのですが、近世日本の数学とその文化的特性の理解と普及に努めた先人の苦労には感謝の一言しかありません。こうした民族固有の文化の国際的な理解と普及には時間と労力を惜しまないことが肝要ですが、明治時代にあっては菊池大麓や遠藤利貞、その後では林鶴一、三上義夫などの弛まない情報発信があってこその現在といえます。と同時に、和算を日本の貴重な文化遺産として調査保存と探索・発掘に奔走された人々も忘れることができません。先の諸氏もその先頭に立っていましたが、その結果として東京大学、東北大学そして日本学士院の膨大な和算書コレクションに繋がっています。赤貧に甘んじながら和算調査を続けた遠藤利貞は大著『大日本数学史』を残しました。岡本則録は全国各地から日本学士院に蝟集した和算資料の整理に献身的な努力を払いました。藤原松三郎は不朽の名著と評してよい『明治前日本数学史』全五巻を公刊し、斯界の研究の発展に資しています。こうした先人の学恩のうえに今日の和算研究が成り立っていると思えば、自ら頭の垂れるところです。

 

ところで、和算という用語はどのようにして誕生したのでしょうか。このような問いかけるとおやと小首を傾げる方がいるかも知れません。この質問に対して一般的に返ってくる回答の中に「明治時代以降に導入された西洋の数学を洋算と呼んだのに対して、これと区別することから用いられる様になった」とする見解があります。確かに、和算の「和」は日本を意味し、「算」は数学や算学・算術を表す言葉ですから、和算を日本の数学と呼称することに全く違和感はありません。しかし、この用語の起源と展開を追求していきますと、洋算に対する和算というような一元的な解釈では理解できない史実にぶつかることになります。物事の本質を見極めるためにはこうした語源的な探索も実に大切な学研的課題となるのです。

前に触れた明治時代以降の和算研究者たちも和算という用語を積極的に使っていました。それは、ある意味やむを得ない側面を有していたと言わなければなりません。簡単に指摘するならば、明治10年頃になりますと、用語和算は研究者の間でも社会の中でも定着していて、極めて当たり前のように使われる状況が生まれていました。そうした社会風潮にあって彼らが用語和算を用いることは至極当然であったし、その反動として、栄える洋算に抗して衰退する和算を将来に残し伝えたいとする郷愁にも似た感情のなかでの積極的な登用であったと指摘することも可能になります。一種のプロパガンダといえるかも知れません。とは言え残念ながら、先の研究者のなかで用語和算の意味を真剣に追跡した人物が三上義夫以外にいることを、筆者は寡聞にして知りません。

 

三上義夫が異能の研究者であったことは和算研究者の間ではよく知られている事実ですが、三上は中国と日本の数学史に関する秀逸な論文を世界に沢山発信しました。そのような論文の一つに「和算の社会的・芸術的特性について」と題する論考があります。論題が示す通り、和算の発展を近世日本社会の支配構造や茶道・華道などの芸事との関連で分析した論文ですが、そこにおいて三上はつぎのようは記述をしています。

 

日本の数学を普通に和算という。和算は洋算に対しての名称であり、主として維新後に呼びなされた。けれどもこの名称の行われたのは、数学がひとり西洋伝来のもののみならず、わが国にも前から厳として存在し、価値の高いものであったことを、この名称によって指示しているのである。西洋の数学が学校教材に採用されつつある頃に、かくのごとき現象の見られたのは決して無意義のことではない。

和算というのは前にもいわれたことがある。その頃には漢算に対する和算であり、また和術もしくは倭術とも称した。天元術の器械的代数学の依頼するものは漢算であり、支那伝来の算法であるが、天元術の高次方程式を避けて簡便に算盤の解法に訴え得るものを賞用して、これを和術と呼んだのである。この点にいわゆる和算、すなわち日本の数学の理想が明瞭に顕れている。単純化を貴ぶ精神が無くして、なんぞ、この種のことが起きて来ようぞ。(三上義夫著、佐々木力編『文化史上より見たる日本の数学』所収論文、岩波文庫、1999年、p.139)

 

 まさしく三上が指摘するように、和算という用語は明治以前の日本数学のなかに既に発生していました。それは漢算に対する和算であり、同じ意味での和術(あるいは倭術)としても使用されていたのです。漢算とは中国古代の数学を指していることはいうまでもありません。江戸時代の日本人は『算学啓蒙』や『算法統宗』などを学んで中国数学を理解しましたから、必然的に解法では天元術を用いて術文を作り、得られた開方式(方程式)は算木を使って数値計算に及んだのでした。こうした一連の操作を三上は「天元術の器械的代数学」と呼んでいますが、これこそが東アジアの伝統的数学としての漢算なのです。しかし、開方式の次数が高い場合、算木で計算することは少々困難を極めました。ですから、算木を使わない計算方法が模索されるようになったことは当然のことといえましょう。その結果が和算であり、和術だったのです。

いうまでもなく算盤(十露盤)も中国から伝わり、17世紀初頭には広く普及していました。イエズス会宣教師が編纂した辞書に『日葡辞書』(1603~1604年刊) がありますが、そのなかで算盤は「Soroban:針金で貫き通した数珠のついた盤で、シナ人および日本人が計算するのに使うもの」と説明されていました。この事実は、算盤が日常的に使われる計算道具として外国人宣教師の目にも映っていたことを意味しています。そのような算盤を用いて計算できるようにすること、あるいは方程式の解法にあって算木を使うことなく計算できるように工夫することを和算と称したのでした。すなわち中国の漢算に頼らない計算法としての和算、和術(倭術)でした。

筆者が調査した一冊に『中西流算法約式』(国立天文台蔵)と題する写本があります。原本としての成立年代は不明ですが、これを筆写した数学者松本忠英は福田復(福田理軒の兄)の門人で、松本が筆写した年は文化3(1803) 秋であると記されています。表題が示す通り内容は中西流の解法を解説したものなのですが、冒頭で和算と和術の意味を鮮明に語っていて惹かれるものがあります。漢文を和訳して引用してみましょう。

 

天元術、和算の写し筆術の口訣

天元術、これを真術と謂うなり

十露盤術、これを和術と謂うなり

天元一を立て真術を設けて、その式階

廉以上はこれを和算に写す。その筆術に曰く、----

 

最初の行は表題にあたり、天元術を和算に写して筆術で計算する方法の口伝という解釈になります。2行目は、天元術は「真術」であり、算木計算法に従う漢算を指す文章になっています。3行目は、「真術」に対して十露盤で方程式の解を求めることが和術であると説いることになります。ではどのような方法で解くのかが問われることになりますが、その説明が4行目からになります。つまり、天元の一を立てて方程式を導いて、その方程式の次数に従って算盤(ここでは算木を並べるための盤)上に算木を布くが (ここまでが真術の意味)、その式にあって方程式が二次以下(廉以上)の場合には算盤上に算木を布かず和算に写し替えて計算する、となります。その計算法すなわち筆術が「曰く」に続けて説明されていきます。以下がその計算法にあたりますが、( )の番号は便宜的に筆者が付けました。

 

天元術、これを和算に移す約式定法

(1)帰除之式

(2)平方之約式

(3)帯縦開平方之約式

 

書頭は、天元術を和算に写す約式の定法そのものですが、その定法が(1)から(3)にあたります。 (1)は一次方程式のことです。方程式の係数から簡単に答が導けます。係数が大きければ十露盤を使って計算することになるでしょう。(2)は二次方程式にあって、一次の項がない場合を指しています。解を求めるのに平方根の計算が必要となることもありますから、十露盤は必要不可欠となります。(3)は二次方程式にあって、いわゆる解の公式を用いて計算することを指しています。この場合も、解の公式の形が頭に入っていれば、係数をみて十露盤で計算ができます。ですから、いずれの場合も一々算木を算盤上に並べて計算する必要はなく、解を求める式の形さえ覚えていれば、十露盤であっさりと答が求められるというのです。だから、公式は「口訣」として師から弟子へ伝えられることになるのです。以上でお分かりのように、江戸時代の数学者が使っていた用語和算は、実は、数学解法のためのテクニカル・タームだったのです。

しかし、ここで注意をしておく必要があります。それは松本忠英が『中西流算法約式』を写した文化3年頃には、用語和算は十露盤による計算という狭義の解釈から、広く日本数学を包含する総体としての学術用語へ転化し始めていたという事実についてです。この時代には蘭学が盛んになり、西洋の数理科学知識も多く流入してきていました。それら西洋の学術専門用語は漢訳系の暦算書を読むことで理解できるようにもなっていました。これもすでに紹介したことですが、8代将軍徳川吉宗による禁書の緩和政策がその誘因になったことはいうまでもありません。そうした社会的・文化的変化を背景に、日本の数学者は十露盤に拠る計算としての和算から近世日本の数学の総称としての和算を使い始めるようになっていたのです。この時期の数学写本に「和算」を書名に持つものが少なからず見つかりますが、それらは十露盤による計算という狭い意味での命名ではなく、普通一般の数学として使っていることに特徴があります。

 

では、そのような用語和算が近世日本数学の総称として使われるようになるにはどのような過程があったのでしょうか。このことを改めて辿って見ることにしましょう。

中国の数学としての漢算、日本の数学としての和算とする区別化意識は近世初期にすでに顕在していました。すこし大げさにいえば『塵劫記』の作者吉田光由に自立する日本の数学の意識があったかも知れません。『塵劫記』は『算法統宗』を模範にして作られた初等算術書でしたが、題材のすべてが『算法統宗』から求められたものでありませんでした。いわば中国のそれから換骨奪胎して日本化した数学書に仕立てたということができます。また、伝統的な漢文で書かれた算術書ではなく、漢字混じりの平仮名文(言い換えれば日本語)で仕上げていることも東アジアの伝統からの「脱出」といえるかも知れません。こうした吉田の試みはその後の数学者に継承されたことに鑑みれば意義は大きかったと思えますが、当の吉田はそのことについてはなにも触れていないのが悔やまれるところです。

「和」と「漢」の数学を意識した数学者に沢口一之がいました。沢口については、この『和算入門』でも、寛文11(1671) 刊行の『古今算法記』の序文で「円理」という術語が出現していることに関連して、これの研究が中国でも日本でも難しいと嘆じていたことで取り上げました。ここでの沢口の発言は、「和」は中国数学から生まれた日本数学ではあるが、はや対等に成長し「円理」の探究は共通の課題であると主張しているように読み取ることができます。一方、元禄8(1695)、京都にいた宮城清行は大著『和漢算法』を刊行しますが、この序文で宮城はつぎのように述べていました。

 

予、平生数学を嗜で思慮を費す事累年なり。和漢の算書を採て校訂するに大概その法術ありて、その従来する所の理を弁明せず。

 

 要約しますと、自分は長らく数学の勉強をしてきて、「和漢」の算書を読んで内容を調べてみるに、その殆どが「法術」(術文)は載せるが、なぜこのような術文になるのかといった説明がないことに憤慨しているのです。確かに、なぜこのような式が導けるのかの説明がないと読者には全てが難解な問題になってしまうことは火を見るよりも明らかです。それこそが「漢」数学の特徴だったのですが、このことに反駁して宮城は問題と術文だけでなく懇切丁寧な解法の過程をも明らかにして読者に供したのでした。沢口一之の「好み」15問の解答も関孝和が開拓した傍書法をもって臨みました。ここに『和漢算法』が全9巻におよぶ大著になった理由の一つがあります。そのことは兎も角、ここでは宮城が「和の算書」「漢の算書」と区別した意識が重要と指摘しなければなりません。同じ漢文で書かれた算術書ですが、それぞれは独立した「和の算書」であり「漢の算書」という扱いなのです。それらの違いを認識した上で「理」の弁明を試みているのですから、宮城には伝統形式に依存する算術書からの脱皮の意図が見えているといえましょう。こうした宮城の数学観を慮ってのことと思われるのですが、同書に序文を寄せた村田通信(不詳)は、

 

 近世数学の士、皆始めを漢に資して、これを和術に雑ふ。

 

と応えています。近世日本の数学者はその出発点を中国数学に求めるが、のちには和術に雑えて研究すると指摘したのでした。田村は「漢術」の名称こそ使っていませんが、意識下にそれがあったことは否定できないでしょう。また、村田は用語「和術」の意味を明確にしていませんが、算木による計算が中国数学の原典であるならば、これを十露盤による計算に変容するという意味で記したと想像することは容易にできます。ここでの村田の発言は用語「和術」の早期の使用例といえましょう。

 この「漢術」を代替する用語が「唐算」にあたります。こうした中国数学を意識する発言は『古今算法記』や『和漢算法』以前の数学書に出現していました。唐とは古代中国の呼称ですが、ここでは中国を指す一般用語に転化されています。寛文3(1663)に村松茂清は『算法算俎』を出版しましたが、第四巻の「差分」第9問の解答の補足で「右、唐の法は尤めい法たりといへども日本の風俗に合わず。故に、次に私の法を布」と述べて、「唐の法」こと中国の解法が「めい法」(名法)であると称揚する一方で、それが日本の国情に合わないから「私の法」による別解を示すといっていました。ここでは「唐の法」(中国の解法)と「私の法」(和の解法)との対比で使用されていますが、書中で村松は「異朝の法」「倭朝の風俗」などのように「異朝」「倭朝」でそれぞれの立場を峻別しようとしていますから、中国とはことなる日本の数学とする認識は芽生えていたことになります。その後も漢算や唐算の用語が用いられますが、それは和術(和術)も同様のことでした。

 

和算の早期使用例はどうだったのでしょう。このことを調査されたのは盟友の松本登志雄先生でした。松本氏は、享保8(1723) に有沢致貞(不詳)が著した『(ちゅう)(さん)式』(国立国会図書館蔵)に「和算」が「唐算」と一緒に使われていると指摘してくれました。氏の指摘に従って調べてみますと、有沢はつぎのよう文脈において「和算」を用いていました。同書の冒頭に凡例に相当する記述がありますが、有沢はそれら二つの用語についてつぎのように説明しています。

 

一 唐算、和算の二品あり。唐算と云は和漢ともに中古迄用ひ来る算法なり。紙に竪横の筋を図し、其内に横に大小数を列子書し、竪に方廉隅及び三乗四乗五乗の位次を書て算盤とし、其上に算木を布き一より五、五より九、各竪横の列子様有て紛れざる如くし、皆九々の数を以てす。演段の数位繁多にても此法を以て成らざることなし。然れども其事重くして急用を弁し難く、算盤大にして事多きに依て、日用には和算を用るなり。和算と云は珠盤(ソロバン)のことなり。是も日本の法にはあらず、明の算法統宗に其図出たり。

一 籌算と云あり。唐算、和算に非ずして事早く調ふ術なり。紅毛人専此法を用ゆ。故に紅毛算とも云。中花の書にも出るなり。

 

 ここにおいて有沢は、東アジアの数学には「唐算」と「和算」の二品があって、その内の唐算は日本、中国ともに中古まで使っていた算法だと断言します。では、どのような共通の数学だったのかといえば、格子状の線が引かれた紙のうえに、横に大小の数位を列して記し、縦に上から方、廉、隅、三乗、四乗、五乗と書いて算盤(さんばん)に見立て、これに算木を布いて計算を行うことだ、と。このような有沢の発言に従いますと、「唐算」とはまさしく三上が指摘した「天元術の器械的代数学」に他ならないことになります。ところが、有沢は続けて、一元高次方程式であれば算木による計算は可能だが、ただ算木計算は咄嗟の融通が利かないし、算盤は広げると大きくなり使い勝手が悪い、だから日用の計算では和算が便利なのだと翻意するのです。そして、その「和算」とは「珠盤」(そろばん)を使った計算だ、と断言して憚りません。十露盤で方程式の全てが解ける訳ではありませんが、意味合いとしては冒頭で紹介した『中西流算法約式』が述べる「和算」と同意と理解することが可能です。  

また、和術が元禄年間に登場し使われていたことは既に指摘したところですが、享保の頃には「和術」と「和算」は同じ文脈で用いられていたことが推測できるのです。いずれにしても有沢は「和算」を「唐算」との対比において使っていましたが、ここに用語和算の初出例があります。場合によればまだ遡る可能性は残されています。

 

 そして、有沢の発言のなかでもう一つ注意しておかなければならないことがあります。それは籌算についてです。籌算はネイピア・ボーン(Napier's bones)のことを指しているのですが、著者がこれを紅毛人が専ら用いる計算器具による算法だから、「紅毛算」だと呼んでいることです。ここでの紅毛人の定義は非常に難しいのですが、江戸時代には南蛮人がポルトガル人やスペイン人を指していたのに対して、紅毛人はオランダ人やイギリス人の呼称といわれますから、わが国の鎖国体制のことを考慮すればオランダ人と見ることが無難かも知れません。あるいは広く一般に西洋人と見做すほうがよいとも思えます。いずれにしても、ここで有沢が見せた数学の世界は、日本の数学和算、中国の数学唐算、西洋の数学紅毛算の三つから成り立っていました。こうした数学観は大変重要なことで、和算は十露盤を利用する計算数学という限定的な解釈から近世日本の数学として把握されるようになり、中国の数学は唐算から中算あるいは西算と呼ばれ、西洋の数学は紅毛算から蘭算(オランダ数学)そして洋算へと変化することに繋がっていくことになりました。

 有沢がネイピア・ボーンについて、これも「中花の書にも出るなり」と指摘していることも重要です。日本でのネイピア・ボーンの普及は享保11年に輸入された梅文鼎の『暦算全書』に拠るところが大きいのですが、有沢の『籌算式』の年紀は享保8年ですから、それ以前に知り得ていたということになります。ところで中国ではネイピア・ボーンによる計算法はいつ頃から知られるようになったのでしょうか。これの初出は『西洋新法暦書』に収まる『籌算』であったといわれています。『西洋新法暦書』の成立に関する説明は煩雑になるので省略しますが、この大著の暦書が刊行されたのは順治2(1645)のことでした。そして、現在分かっている限りでは『西洋新法暦書』のわが国への伝来は享保18(1733)を嚆矢とします。ということは、有沢は『西洋新法暦書』に載る『籌算』をそれ以前にみて理解していたのでしょうか。ただ「中花の書」と書くだけで、出所を明らかにしていないところを見るとなにかを警戒している様子も見て取れます。イエズス会士系の漢訳書が部分的に解禁されたのが享保5年でした。それから、まだ3年のことですから警戒心が強く残っていたのかも知れません。

一方で程大位の『算法統宗』からヒントを得た可能性も考えられます。同書には「写算」(「鋪地錦」)が載せられていて、これの計算法はネイピア・ボーンのそれと類似しますから、そこから「中花の書」に出ると記したのでしょうか。それなら書名は『写算』とか『鋪地錦』とすべきで、『籌算式』と表記することと一致しません。

あるいは『暦算全書』に含まれる梅文鼎の『籌算』が単独でわが国に伝わっていた可能性も考えられます。李迪先生の調査では、梅文鼎の『籌算』は康煕17(1678)に完成していたとされますから、これが有沢の目に留まっていた事も考えられます。梅文鼎は、『西洋新法暦書』で紹介されたネイピア・ボーンの記数法が竪形式で書かれていたのに対して、これを本来の横形式で使うことを主張しています。有沢の『籌算式』のネイピア・ボーンの図が横形式で載せられているところから窺えば、どうも梅文鼎の『籌算』を見ていた可能性は否定できません。両者の書名が酷似することもそのように判断させます。

しかし、これらの推測はいずれも正しくないようです。実は、有沢は同写本の跋文でつぎのように明かしています。

 

故へ有て清朝の康煕丁丑新安の陣畊山氏が撰む所の一書を見るに籌算の法あり。兼て聞 

所の紅毛算に少しも違ふことなし。

いま、有沢がいうところの「康煕丁丑」は康煕36(1697) のことになります。そして、この年に新安の陣畊山氏が撰した一書に籌算が載せられていたというのです。新安は『算法統宗』の著者程大位の出身地ですが、郷貫は同じでも程が陣畊山を名乗ったことはありません。また、時代的のややかけ離れるようです。そして、「一書」と書くだけでこれが数学書の専門書であるのかどうかも明らかにしていませんが、どうやら私たちがよく知らない書物が伝わり、これを目にして籌算を理解したように思われます。

いずれにしても、大変興味深い史実といえます。このことについては、手前味噌ですが、20 195月に上海交通大学で開催される国際学会で報告する予定です。

 

さて、洋算と和算のことについても触れなければなりません。でも紙数が大幅に超過していますので、簡単に指摘するだけに留めたと思います。洋算の用例は柳川春三が、安政4(1857)に出版した『洋算用法』を初出とするという見解がしばしば顕れますが、これも歴史的な文脈に沿った正確な指摘とはいえません。確かに刊本としての登場は柳川春三に軍配が挙がるかも知れませんが、実際の使用例はそれよりの早いことが想像できます。

おそらく江戸時代終わり頃の洋学者たちの間には、蘭算を越えて「洋算」とする概念ができていたと考えてよいでしょう。蘭算は大坂の数学者集団福田派が主として使っていた用語ですが、これにはオランダ語による西洋数学という意味が込められています。しかし、長崎海軍伝習所で学んだ人々は、オランダ語で講義を受けたことは確実ですが、その中身は西洋の数理科学と技術の集大成という感覚で受講していたのではないでしょうか。いわゆる洋学者も同様の感覚を有していたと思われます。ですから、東洋に対する西洋という地理概念から、日本で学ばれる数学と西洋で学ばれる数学すなわち和算に対する洋算という用語の造成は極めて自然のことであったといえます。

筆者が調査したところでは、安政3年に、『洋算用法』出版の1年前のことですが、のちに初代鉄道助として活躍した佐藤政養(1821~1877) が著した写本『三角惑問』に洋算が使われていることを確認しています。佐藤はここにおいて「洋算」と「和算」の記号の違いを比較しながら、三角測量法について紹介していました。こと和算の説明は十露盤などという狭義の解釈ではなく、日本の数学として扱っています。佐藤は勝海舟の門人として洋学を修めた人でした。海舟が長崎海軍伝習所に入所した時も同道していました。そうした佐藤が洋算という用語を使うことに、しかも和算と並列的に用いることに躊躇はなかったといえるのです(小林龍彦「佐藤政養著『測量三角惑問』と蘭算」、数学史研究、通巻189号、2006)。洋学者の研究書を精査すれば用語洋算の使用例は佐藤のそれより早まる可能性は十二分にあるといえるでしょう。調査が楽しみになります。

 

また、少し違った角度からの議論になりますが、19世紀には朝鮮半島で「東算」という言葉も発生していました。これは朝鮮半島から見て西の中国数学が「西算」なのですが、中国からみて東側の朝鮮半島の数学が「東算」であると李氏朝鮮の数学者が呼称したのでした。「東西」とする地理的概念で区別したことは、中国のそれを模範としながらも朝鮮半島の数学として自立する姿が意識されているように思えます。

これらの詳細な調査と比較検討は後日に譲りますが、近代以前の東アジアには、漢算、唐算、西算、中算、和算、紅毛算、洋算、東算とする多様な数学の呼称が噴出し、近代化に向かって蠢いていたのでした。そうした意味においても、16世紀から19世紀の東アジアの数学史研究は興味が尽きることなく、知的好奇の坩堝といえるのです。

 

【謝辞】

さて、ここまで55回に渉って『和算入門』を書き綴ってきました。47ヶ月に渉る連載で、紙数はA4シートで228(実質200枚ほどと思われますが)に達しますが、この三月の年度替わりを以て一応の終わりとさせて頂きたく存じます。伝えたいこと、書きたいことはまだまだ残っているのですが、どこかで区切りを付ける必要があると感じたことからの決断でした。しかし、未練がましいのですが、書き残した部分については、今後の不定期原稿(特論とか補遺で)で、公表させて頂ければと身勝手に考えております。

これまで一々参考文献などは挙げてきませんでしたが、手にさせて頂いた先行研究からは計り知れない刺激を受けました。そうした先人からの学恩も4年を越える長期連載の原動力になりました。文末ながらここに謹んで御礼申し上げます。また、読者諸氏にも感謝しなければなりません。ややもすれば冗長になりがちな議論に辛抱強く付き合って戴きました。平易に書こうとすればするほど泥沼化することが冗長の要因であることを身に滲みて感じた次第でした。そして、書き手は暫し読み手のことを忘れてしまうものなのですが、失礼ながら定期的に呼んでくださる読者がいたことに驚きも覚えました。今後とも読者がそこにいることを忘れずに精進したいと思います。本当に長い間有り難うございました。

そして、感謝の一言をHPの管理者にも捧げたいと思います。山根正巳さん長期に亘ってありがとうございました。それから、これからもよろしくお願いいたします。

謝々大家!再見。        

 (前橋工科大学名誉教授 小林龍彦)