和算入門補遺(1)


今年は台風や大雨による河川の氾濫が各地で起きた最悪の年になりました。天が怒って「革命」を起こそうとしている前兆でしょうか。読者の皆さんがお住まいの地域は無事だったでしょうか。万が一被害に遭われているようであれば、一日も早く復興し通常の生活に戻れることを心より願っています。

 

久しぶりに投稿させて頂きます。2019112()、京都市立芸術大学で開催された音楽史の研究会に出席し、「荻生徂徠の数理観とその影響-再び李冶と朱載堉の円周率から-」とする小論を発表してきました。今回の報告はその事ではありません。発表会の翌日、研究会の参加者と一緒に奈良国立博物館で開催されている「第71回正倉院展」の見学に出掛けました。誤解の無いように申し上げておきますが、物見遊山では有りません。見学の眼目は展示物の一つ「金銀平文琴」(『第七十一回「正倉院展」目録』、令和元年、pp.26-33参照。以下単に『目録』と記す)を鑑賞することでした。当日の会場は激混みで、「芋の子を洗うよう」とはそのような混雑振りを指す言葉なのでしょう。兎に角混んでいました。それはさておき、筆者は音楽

史を専門とする者ではありませんから、研究の目的となった「琴」(きん) の詳細を語ることはできませんが、素人目に観ても絶品・名品と思える弦楽器であることは間違いありません。一緒に鑑賞していた愛知大学の明木先生にあれこれと解説を頂きながら、中国唐王朝の楽士や楽器制作者の技量の高さに感心したものでした。「琴」の美術史的価値と詳細は上記の『目録』を読んで頂ければと思いますが、これがいつ頃造られた作品であるのかは、「琴」の槽内部に「乙亥之年」と「李春造」と墨書されていることから、唐の開元二十三年 (735)、李春による説が有力視されています。なお、「琴」が私たちのよく知っている「箏」と違うことを理解するために、参考としてインターネット上に載っている「琴」を紹介しておきます。

 

「七弦琴」

 (引用先:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lian_Zhu_Shi.jpg#filehistory)

今日ここで少し話題にしようと思うことは「琴」の事ではありません。正倉院宝物のなかに散見できる数学知識を拾い出すことが主題になります。上記『目録』のNo.34は「正倉院古文書正集第四十三巻」(筑後国正税帳、豊後国戸籍、薩麻国正税帳) (p.97-99)No.35は「正倉院古文書正集第一巻」(大粮申請文)  (pp.100-101)など中央官庁に留められた国税に係わる文書になります。これら文書を展示ガラス越しに目を凝らして読んでいたのですが、ふと奇妙なことが気になりました。これから紹介することは、このことだけでなくその後の数学知識についても同様ですが、すでにどなたかが発表されている可能性もあります。しかし、そのことは取り敢えず不問にさせてください。例えば「筑後国正税帳」にはこんな文章がありました。引用文中の( ) は割書になります。

 

依勅還郷防人起筑紫大津迄備前児嶋十箇                                                  

日粮㫪稲壹仟伍伯肆拾捌束

料水手貳人食稲捌拾束

依民部省天平九年十月五日符寺家封戸田租

 代報納壹仟玖伯壹拾捌束伍把

浮囚陸拾貳人(卌八人起天平十年四月廿六日盡十二月卅日并二百七十日 三人起四月廿六  

日盡十二月三日并二百卌三日 七人起四月廿六日盡十一月九日并二百廿日 四人起四

月廿六日盡十一月二日并三百十三日)惣単壹萬陸仟㭭拾壹人食稲参仟貳伯壹拾陸束貳 

(人別二把)

 

 最初の文章は、「勅」(天皇の命あるいは言葉) によって、九州警備の防人が筑紫(福岡県)の大津から備前(岡山県)の児島まで帰郷する10日間の送還費用は、粮㫪 (臼で搗いた米) を稲にして1548束と書いてあります。送還は舟だったのでしょうか、つぎの文章で「水手」2人の手当として稲80束が計上されています。そのつぎは、民部省の天平9105日の省令でしょうか、寺家の封戸の田租(水田の面積の応じた基本税)19185把だと書いています。伯は佰 ()と同義ですが、それは兎も角、本文中の費用や人数に係わる重要な文章では壹()、貳、参、肆、伍、陸、柒、捌、玖、拾、伯、仟、萬とする難しい漢字数詞が使われるのに対して、日付では一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、廿、卅、卌などの通常の漢数詞が採用されていることです。但し、割書での使用数詞は区別せずに簡易漢数詞が使われています。こうした漢字の使い分けにはなに意味があるのでしょうか。そこで筆者は、金銭に係わる文章では改竄ができないように漢字数詞を用いたのでは、と考えて見ました。もちろん、日付の書き換えも重大な問題を生じますが、それ以上に財政的な影響の大きさを考えての区別ではなかったか、と。もっともNo.39の「続々修正正倉院古文書第十二帙第四巻」(『目録』、pp.108-109) は仏典、事務帳簿、書写用具の目録になりますが、目録はこれの品々を櫃に収めて管理引き継ぎのために作成されたものとされていますから、メモ的性格が強いのか通常の漢数詞で数量が記録されています。こうしたことから見れば、筆者が抱くような疑問は、この時代の人たちにはなかったのかも知れません。

 続く、浮囚に係わる記録も面白いと思いました。浮囚は俘囚と同じと言いますから、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになった人たちを指すのでしょう。文章をわかりやすく書き換えてみますと、

 

浮因62

48人 天平10426日〜1230日 并 270

3人      426日〜123日  并 243

7人      426日〜119日  并 220

4人      426日〜112日  并 213

 惣計 16081人 食稲 32162把(一人2把)

 

となります。并は幷と同義で合計の意味です。数字の意味するところは、浮因62人を期間別に割り当てた時の総人数と食稲の数量を表しているようです。48人×270日=12960人、3×243日は=729人、---と求めて、総計16081人を得ています。一人当たり稲2把ですから惣量は32162把と正しく計算されています。これらの計算では、算盤はまだ使用されていませんから、中国式に算木による計算であったと思われます。

ただ、日数の数え方がよく分かりません。太陰太陽暦では、大の月は30日、小の月は29日となり、これが一年でほぼ交互に現れてきます。そこで広瀬秀雄氏の『暦』(近藤出版社、昭和54年、p.17) に載る「年暦表」を見ますと、天平10 (738) 5781012が大の月、46911月が小の月であるとされており、これで計算しますと5月から12月までは237日になります。合計の270日から33日不足しています。ところがこの年の7月は閏月の小の月になっており、4月は小の月ですから月末までは4日間ですから、237日+29日+4日とすれば270日が導けることになります。同様にしてつぎの3人の場合も243日を得ることになります。以下同様です。思わぬところで天平10年が閏年であることを知ることになりました。

 

『目録』のNo.36は「続修正正倉院古文書別集第四十八巻」(鏡背下絵、大大論戯画、習書等)になります(pp.102-103)。そのうちの「円鏡の鏡背下絵」と「八花鏡の鏡背下絵」はコンパスと定規による正多角形の作図方法が窺える史料になっています。とくに後者をその痕跡を色濃く残す下絵です。円鏡に八つの花弁を割付ける作業をしているのですが、下絵を凝視しますと、紙面中央に微かな穴が空き、コンパス(規、ぶんまわし)を巡らして二重円を描いていることが分かります。ここから円を八分割するのですが、定規(矩、曲尺)を用いて直径を引き、これに直交するもう一つの直径を描いて四分割円を得ています。おそらく曲尺を用いて、これの直角部分を円の中心に当てれば、四分円は直ちに描けることを理解していたのでしょう。その上で、これらの直径と円との交点を結べば内接正四角形を得ることになるのですが、残念ながら下絵にはその図は描かれていません。次いでこれの一辺を分割して正八角形を作ることにするのですが、分度器でも使ったかの如く下絵は見事な八角形を描いています。ですが、ここでも八角形の辺は描かれていないことは承知しておいてください。筆者はどうやって八角形を得たのかが気になりました。四角形の辺が書かれていれば、曲尺を辺に沿わせてスライドさせ、直角をなす曲尺のもう一つ辺が円の中心にあたるところを見れば、四角形は二分割でき八角形は描けることになります。しかし、辺が描かれていませんからどのように作図したか正確なところは分かりません。非常に初等的な作図問題ですが、現代の学校教育では習わない方法を用いて作図するのですから、想像する面白さがありました。

正倉院宝物には四角形、六角形、八角形、十二角形などの図を持つ絵や器物が沢山有ります。この方面の研究は、中国では北京清華大学の馮立昇教授が古代の銅鏡に見える作図技法を調べていますが、日本でも同様の作図過程が追跡できる史料が存在することは貴重と言えるでしょう。

 

余談になりますが、以前、正倉院の宝物になる銅製の薫炉の表面に描かれる円の問題 (『原色日本の美術4 正倉院』、小学館、昭和43年、p.181) を調べたことがありました。一つの球面上に半径の等しい円をパッキングにして描いたとき何個描けるかという問題ですが、パッキングの条件は3個の円が互いに接したとき、弧三角形を描くようにすることでした。江戸時代の終わりにこのような球面上の充填問題を本格的に研究した数学者は上州の劍持章行でしたが、萌芽的問題は藤田貞資の名著『精要算法』に出題されています。江戸初期の数学者も同様の議論をしていて面白いものがあります。もっとも、この問題の起源あるいは球面上に等円を描く図形は古代中国で生まれていましたから、正倉院の薫炉もその影響下の作品、または中国から輸入された器物と言えるでしょう。球面充填問題の日中交流史の一面を見せているのですが、他方としては正多面体と準正多面体の研究史にリンクする問題となります。このことはWhat was known about the polyhedra in ancient China and Edo Japan (Symmetry 2000 Part1, Edited by I. Hargittai & T.C. Laurent, Portland press, London, 2002, pp.91-100) と題する小論で報告したことがあります。ご笑覧いただければ幸いです。

 

日本の古代の数的知識に関する史料は多くは断片的と言わなければなりません。しかし、点として残るこれらの素材を繋げて線にしていけば、やがて面になる可能性も出てきます。そこには豊かな地平が広がっているように思えるのですが、いずれにしても根気よく見て、史財を拾って行くことが大切になると思われます。