和算入門補遺(2)


 小事のことで恐縮します。私が会長を努めています群馬県和算研究会は本年(2019年)1123日をもって創立50周年を迎え、記念式典等を前橋工科大学で開催しました。前橋工科大学を会場とした理由は、ここが本会の発足場所であったことに由来します。最初に記念式典の様子を若干の報告をさせていただきます。

 

 記念行事は午前中の記念式典、午後の記念講演会に別けて行われました。午後の講演会は雨天にも拘わらず現役の先生方を含めた男女の参加者が沢山見えられて、会場の椅子が足らなくなるほどでした。記念講演は、群馬大学名誉教授の瀬山士郎先生による「証明とはなんだろう-明快にきちんと証明することの面白さ-」と群馬県和算研究会副会長の中村幸夫氏による「上毛の和算・暦学開拓者石田玄圭について-丸山清康著『石田玄圭傳』を中心に-」の二つが行われました。

瀬山先生は数学および数学教育の研究者として高名で著書も沢山出されております。当日の講演は近著『数学にとって証明とはなにか』(20198, 講談社Blue Backs) をもとに話されました。中村氏の講演は群馬県和算研究の開拓者丸山清康の仕事に焦点をあてながら、和算家石田玄圭の業績を分かりやすく語ってくれました。いずれの講演も、参加者は熱心に聴き入っていて演題に対する関心の高さが窺われるほどでした。正直なところ主催者の私たちもちょっと驚く程の盛況ぶりで、安堵した心地がありました。皆さんへ感謝の一言しかありません(写真1参照)

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   写真1 群馬県和算研究会創立50周年記念講演会の講師紹介の風景:

前列左側の起立されている方が瀬山士郎先生(群馬県和算研究会HP

より転用)

 

少し寄り道が長くなったようですが、実は、「和算入門補遺(2)」は上記のような記念式典や講演会の様子を報告することが目的ではありません。創立50周年を記念して刊行した『新発見の群馬の算額-原文と現代的解説-』(写真2参照) に係わる読者からの要望に応えることにあります。記念行事終了後、この小欄の読者から、おそらく当日の講演会に参加されていた方と思われるのですが、『新発見の群馬の算額-原文と現代的解説-』が出版される契機となった『県下の神社に掲げられたる数学問題』および編著者の飯塚伝吉について詳しく知りたいと言う要望が届きました。この要望に応えることが本稿の目的なのです。その意味で「補遺」の原稿の階梯が不順になることをご了承ください。

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       写真2 『新発見の群馬の算額-原文とその現代的解法』

        (令和元年(2019)発刊、写真は群馬県和算研究会HPより転用)

 

『県下の神社に掲げられたる数学問題』は「和算入門(53)-算額考(3)」で取り上げたことがあります。そこでは次のように簡介しました。

 

資料3 (添付の写真のこと) は表題を『県下の神社に掲げられたる数学問題』(富岡市貫前神社宝物殿藏) とします。これは群馬県内で奉納された算額を、明治41(1908) 頃、群馬県師範学校の数学教諭飯塚伝吉が生徒たちに調査させて筆録に及んだものです。この記録集には未確認の算額がおよそ10面収録されていて、調査した私たちを大いに驚かせたものです。明治末年の国家意識が高揚する時代、そして近世日本の数学が忘れ去られ、かつ算額奉納は減少し、その一方では算額の風化が進む時代でした。数学教師の飯塚は失われていく日本の数学と算額を後世に伝えるため、また、優れた数学教材として算額の収集を思い立ったものと考えられます。

 

 上記引用文では、「明治41(1908) 頃」生徒たちに調査させたと書きましたが、この算額集の編著者である飯塚伝吉の序言は明治43815日となっていますので、生徒たちの調査探訪は明治42~43年であったかも知れません。若干の修正をしておきます。

 

まず、史料としての『県下に掲げられたる数学問題』が発見される経緯について触れておきましょう。平成278月、群馬県和算研究会は『続 群馬の算額解法』を刊行しました。これは平成18年に発刊した『群馬の算額解法』に続くもので、いずれも昭和62年に刊行した『群馬の算額』の収録された算額とその後に発見された算額の問題とそれらの解法を紹介したものでした。前者の解答集を編集している時期のことです。事務局長の田部井勝稲氏は更なる算額史料の収集を目的に富岡市の貫前神社宝物館を独自に調査されていました。私もJR東日本の旅行雑誌『トランヴェール』の特集記事「群馬、数学をめぐる旅へ 凄いぞ、江戸のエンタメ」(これは201411月号に掲載され、ちょっとした反響がありました) の取材に協力して、平成26(2014) 9月に貫前神社を久しぶりに訪ねておりました。同神社の取材は宝物館に収納される算額の撮影が目的でした。そこでは、安政5(1858)、中曽根宗邡の門人山田泰輔が奉納した算額を取り挙げることにして、写真撮影のために算額を陳列ショーケース上に載せた時のことでした。ケース内に表紙が濃緑色で分厚い冊子が置かれていることに気がつきました。「おや?」と思って冊子の表紙に貼られたラベルの文字を黙読すると『県下に掲げられたる数学問題』と読めました。これまで聴いたことも見たこともない史料に小首を傾げたのですが、安中後閑にある庚申塔に刻まれた算題の写真撮影も控えていたため、そこでの調査は諦めて神社を辞去したのでした。

 後日、『続 群馬の算額解法』が出版された後の群馬県和算研究会の例会で、雑誌『トランヴェール』の記事を話題にしながら貫前神社の「数学問題」集が話題になりました。筆者は、ちょっと忘れかけていたのですが、では、調査に出掛けましょうと言うことになり、平成27103日、会員有志で同神社を訪ねたのでした。神社の許可を得て写真撮影を行ったのですが、正直なところ驚きの連続で、発する言葉を失うほどの衝撃が走りました。ここから新たな調査が始まったのでした。

 

 『県下の神社に掲げられたる数学問題』はその書名が示す通り群馬県内の神社仏閣に奉掲された算額の問題を収録したものでありました。勿論、県内に奉納された全ての算額の問題が載せられているわけではないのですが、筆者らが初めて目にする神社名が出てくることに驚かされたのです。この算額集は同社の神職茂木琢氏が平成225月に「奉納」したことも挟まれた紙片から分かりました。そこで茂木氏に経緯や背景を問いましたところ「写本は祖母が群馬県師範学校からもらったもので、ながく家蔵にして保存してきたが、写本の史的かつ公的重要性に鑑みて、私の奉職する貫前神社に奉納することにした」と語ってくれました。では、祖母はどのような方だったのかと重ねて問いましたところ、これは後日会員長井宏之氏の調査でやや詳しく判明したことですが、祖母は茂木(旧姓金井)きんと称し、高等女学校を経て大正153月に群馬県女子師範学校を卒業した女性でした(『新発見の群馬の算額-原文と現代的解説-』、p.11)。では、なぜ女子師範学校の学生である茂木きんさんに算額集が渡ったのか、その理由についてはいま長井氏が調査を進めていますので、これの編集に携わった飯塚伝吉の経歴と合わせて詳細な報告が『和算ジャーナル』に載ると思います。後日を期待してください。

 

唐突かも知れませんが、明治期の群馬県師範学校の沿革を紹介しておきます。『県下に掲げられたる数学問題』の序言は、先の引用文でも触たように、明治43815日、群馬県師範学校教諭の飯塚伝吉が書いたものでした。この「数学問題」を編集したのも飯塚でした。飯塚は職名を教諭と記すだけですが、間違いなく同校の数学教師だったのでしょう。彼の奉職した群馬県師範学校には次のような変遷史があります。明治6(1873) 2月、前年8月に布告された「学制」にもとづいて、近代的学校教育を担う教員を養成するための教育機関として前橋に教員伝習所が設立されます。明治9年(18769月に伝習所は高崎に移転し、群馬県師範学校と改称しました。同年10月に再び前橋に戻り、明治19(1886) 4月の師範学校令により群馬県尋常師範学校と改称。しかし、明治31(1898) 4月の師範教育令によって再び群馬県師範学校と改名します(『群馬県百年史』上巻、昭和46年、pp.281~282pp.648~650参照)。飯塚伝吉の履歴が分からないので、正確なことは言えませんが、彼の在職は明治31年以降の群馬県師範学校のことではないでしょうか。また、茂木きんさんが通った群馬県女子師範学校は明治34(1901)11月に設置許可が出され、翌年開校した女子教員養成のための学校でした (前出『群馬県百年史』、p.651)。茂木さんは大正15(1926)3月卒業と言っていますので、大正11(1922)4月から在籍し、この間に算額集を手にしたのでしょうか。このことも後日の報告を俟ちたいと思います。

 

 群馬県師範学校の数学教諭であった飯塚伝吉はこの算額集の序言で次のように書いていました。

 

 和算なるもの今は世人に忘却せられたりと云も、その研究せる術理の深遠なること誠に驚くに堪えた[ざ]るものあり。彼のニュートンとラィプニッツが微積分学の創発権を争へりし頃はすでに我和算においてこれと同様なる円理術の発明せられありしなり。その他、高次方程式解法、行列式等先発権の我に帰すべきもの少からず。当時和算家皆本邦数学を以て世界第一なりと云へるもの強ち自尊の誇言とのみ言ふを得ざるなり。輓近和算のこと欧州諸国に紹介せらるるや、彼の国の学者の実に世界の数学史に一新配光を画するものなりと驚嘆するものあり。遠く欧州の諸学者すでに和算の真価を認めんとするに当り、却って吾人先輩の功業を知らずして可ならんや。

 

 江戸時代の日本に発達した数学を和算と言いますが、この数学は明治5(1872) 8月に布告された「学制」によって、近代の教育では「和法」を棄てて「洋法」を用いると宣言されたことにより、急速に衰退の道を辿ることになりました。『県下の神社に掲げられたる数学問題』が編集されたのは明治43年のことですから、まさに「世人に忘却」せられる時期にあたっていたのでしょう。その一方で、和算の先進性を明らかにする論文も国外に向けて発表されるようになっていました。その一例として飯塚は「行列式等先発権の我に帰すべきもの少からず」と言っています。関孝和による行列式の研究は『解伏題之法』に見えるのですが、これに着目したのは明治44(1911) に東北帝国大学理科大学の数学教授に就任した林鶴一でした。林は、前年の同43年にThe “ Fukudai ” (伏題) and Determinants in Japanese Mathematics『東京数学物理学会記事』(二期 第五巻) に発表していました。さらに飯塚は「和算のこと欧州諸国に紹介せらるるや」とも書いています。和算の海外への紹介は東京帝国大学理学部教授であった菊池大麓が、明治28(1895)、やはり英文で同雑誌に投稿したことを嚆矢とします。また、明治38(1905) には三上義夫が米国の数学者ハルステッド博士に和算史を調査して西洋世界に紹介するよう勧められていました。

だからこそなのでしょう、国内外の和算を取り巻く状況に精通する飯塚は「遠く欧州の諸学者すでに和算の真価を認めんとするに当り、却って吾人先輩の功業を知らずして可ならんや」と嘆じて、いまこそ和算の知るべきとその必要性を説いたのでした。こうした発言から窺うと、飯塚の視線は世界に向かって開かれていたように思えてなりません。

一方この時期、和算への関心は国内でも高まっていて、史料の調査と保存が積極的に行われるようになっていました。明治29(1896)、菊池大麓の支援を受けて遠藤利貞の『大日本数学史』が刊行されました。明治39(1906)、東京学士会院が帝国学士院に改組され、菊池大麓と藤澤利喜太郎が会員に選ばれ、菊池は、明治42年、院長に就任します。以来、院長として和算史の調査と史料蒐集の陣頭指揮に立ちました。菊池のような活動は顕著な事例と言えますが、和算への「郷愁」が強烈に出てきたのもこの頃だったのです。

 

 和算家の偉業を知ること、それを数学教育の一環として捉え実践したのが飯塚伝吉であったと思います。彼は県内に奉納された算額の調査を師範学校の「もと生徒」たちに命じたのでした。「数学問題」集の凡例の三でそのことを明らかにしています。

 

三、本集はもと本校生徒をして各自郷里にある神社を探索して、これを写さしめたるものなるを以て、附近に本校生徒の郷里なき所には採集に漏れたるもの多かるべし。

 

 ここに「本集はもと本校生徒」と記しています。生徒は師範学校を卒業すれば多くは小学校の教員として赴任しますので、彼らは地元の神社にある算額を調査し、問題を筆写したものと思われます。教員にならなかった「もと本校生徒」も含まれていたかも知れません。いずれにしても、それら調査結果は飯塚の元に届けられたのでした。「もと本校生徒」の活動はこれまで知られることになかった算額を10面以上、問題数にして33問を現在に伝えることになったのでした。いま、「10面以上」と曖昧に書きましたが、これはこの算額集に載る神社が見つからないこと、また、神社名が書かれていない算額も記録されていることなどのその理由になります。いずれにしても「もと本校生徒」による調査は「算題総計一六一」問に及びました。これを数学教諭として飯塚伝吉がどのように利用したか知りたいところですが、そのことは序言や凡例では触れていません。惜しまれるところですが、飯塚とその本に集まった「もと本校生徒」の無私の活動は、私たちが現在行っている算額の調査研究とその保存活動に全く共通しています。その意味では、彼らこそが群馬県におけるこの分野での先駆者であったと言うべきかも知れません。