和算入門補遺(3)


 筆者は「和算入門(27)(29」にあって京都の暦算家中根元圭の業績の大概を紹介したことがあります。そこでは関孝和の高弟である建部賢弘との交流や八代将軍徳川吉宗に召されて暦算の下問に応えたこと、『暦算全書』の訓点和訳に携わったこと、更には享保17年には太陽や月まで距離計算をしたことなどを簡介しました。筆者はその後も元圭の調査を続けているのですが、一つの面白い事実が「可能性」としてあり得ることを見いだしましたので、速報として紹介したいと思い筆を執りました。

 

話題は中根元圭の数学の先生であった田中由真と関係することになります。筆者は20195月の『和算ジャーナル』(群馬県和算研究会発行) No.3に「田中由真の墓碑と京都の和算家の居住地について」と題する小論を寄稿しました。詳細は同雑誌を見て頂きたいと思いますが、拙論の目的は京都岡崎の黒谷に建つ田中由真の墓碑(写真1参照) の探索経緯と墓碑面に刻まれる弟子の献辞を紹介することでした。



      写真1 京都岡崎黒谷にある田中父子の墓碑。田中由真は

向かって右側。左側は由真の子瓉こと文瑟の墓碑。

 

写真1に見る右側の墓石が由真のものになります。墓石の左側面から背面にかけて、享保4(1719)1021日に没した由真の業績や家族、死因、更には弟子が田中塾を継承したことなど由真の歴史に係わる諸事が刻まれています。筆者の現下の関心事は誰がこの碑文を書いたのかと言うところにあります。そのため以下に墓石の碑文を原文のままに採録し、併せて著者による読み下し文も掲載しておこうと思います。ます、碑文はつぎのような文面になります。

 

「左側面」

先生姓源名由眞以田中為稱世京城人也少小穎悟甚精算術

擧世所識門人幾三千近世以算術鳴世者多出其門早喪父事

母孝不幸家貧年長不娶有人言配者則曰為貧娶妻而友使母 

至飢豈所安乎母没後始娶青山氏生男名秀松時先生年五十

四謂吾老矣恐不能直傳業於是養門生川嶋由□□□以傳其

「背面」

業尋生二男曰平八曰乙五郎皆幼在家今茲享保四年夏患痰

飲十月二十一日庚申遂卽世年六十九葬于洛東黒谷門人相

共欲立碣記其歳月請之余余亦為先生之餘緒故不得辭述其

梗概云歳之十二月戊申中根方目謹著

          門弟中

          伊藤長左衛門祐将拜書

          江州日野

          安井伊右衛門秀近

 

この碑文の歴史的検証は先に紹介した『和算ジャーナル』に載る小論を参照して頂きたいと思うのですが、敢えて補足するならば、上記漢文中のの三文字は墓石が欠損しているため現在は読むことができません。でも、幸運にも過去に調査した記録があって「易為適」と読めることが分かっています。そうした点を踏まえて漢文を読み下し文にすればつぎのようになると思います。

 

先生姓は源名は由真、田中を以て称と為し、世々京城の人なり。少小より穎悟にして甚だ算術に精し。世を挙げて識る所、門人幾く三千。近世算術を以て世に鳴る者多くは其の門に出る。早くして父を喪ひ、母に事へ孝す。不幸にして家貧しく年長じて娶らず。人配を言う者有りて則ち曰く、貧為るも妻を娶りて、友母にせしめば飢へに至るも、豈、安んずるところや。母没して後、始て青山氏を娶る。男を生し、秀松と名づく。時に先生五十四。謂く吾老ひるや、業を伝え直ぐあたわずを恐る。是において養門生川島由易適ひ為り。以て其の業を伝ふ。尋ひで二男を生し、曰く平八、曰く乙五郎。皆幼く家に在り。今ここ享保四年夏、痰飲を患ひ、十月二十一日庚申、遂に即ち世す。年六十九、洛東黒谷に葬す。門人相共に碣を立てんと欲し、其の歳月を記すを余にこれを請ふ。余、亦た、先生の余緒を為す故に辞を得ず。其の梗概を述て云う。この歳十二月戊申。中根方目謹んで著す。

      門弟中  

伊藤長左衛門祐将拜書

        江州日野

        安井伊右衛門秀近

 

 一言お断りしておきます。上記の読む下し文は前出の拙論で紹介したものと比較するとやや異なっていることに気づかれると思います。それは、改めて読み直して見たときに違和感があって、前文に修正を加えたことによっています。ただ、文意に関しては大きく異なるわけではありませんのでご了承頂ければと存じます。

 

 さて、これからが小論起草の目的になります。筆者は上記のような漢文と読む下し文の紹介に続けて、つぎのように綴りました (同、p.16)

 

由真の死を悼んだ門人たちが師の墓石に献辞を刻んだのが12月であった。文章は門人の中根方目が起草し、伊藤祐将が拝書したと書す。江州すなわち近江日野の安井秀近も門人としてこの仕事に加わったのである。また、これら3人の門人の消息も不明である。

 

簡単に言えば、この漢文を起草した中根方目、拝書した伊藤祐将さらには門人の安井秀近らの消息が皆目分からない、と嘆じたのです。ところが、最近必要があって『東京市史稿』(東京市役所編、1932)と題する大著を読む機会があり、これに記された一節から中根方目が中根元圭だとする記事に出くわしたのでした。残る二人の情報はないのですが、筆者にとって中根方目の確認は目下の中根元圭の研究にとって重要な意味を持つことから、速報として紹介し皆さんのご指摘を俟つことにした次第です。

 

中根元圭は、享保17(1732) 5月、徳川吉宗に地球から太陽と月までの距離の計算を命じられました。そのため同5月には伊豆の下田に出向き太陽の高低を観測し、8月から10月にかけては相州の鎌倉にいて月光の射す影の長さを測りました。勿論、月の影だけでなく太陽の正午の影の長さも測ったと思いますが、それら観測結果をもとにして12月に『日月去地面実数一巻』を著して将軍吉宗に献上しました。この写本の書名は後世へ正確に伝わらなかったようでして、『地径算法』『日月高測即高低里数之術』『天高計術』の異名をもって残されています (拙著「中根元圭と三角法」、笠谷和比古編著『徳川社会と日本の近代化』、思文閣出版、2015年、pp.457-478)。先出の『日月去地面実数一巻』は元圭から直接聞いた書名として弟子が書き伝えた史料によっているのですが、『東京市史稿』の建部賢弘の伝記は関連する附録の中で中根元圭の経歴と併せて『地径算法秘伝』とする書名で紹介しています。同史稿の著者は同書に記された元圭の序文を全文取り上げた上で、つぎのような補足説明を加えました(696)。以下の引用文で( )書きにした箇所は、『東京市史稿』の文章が割書であることを表しています。振り仮名も原文通りです。

「引用文」

 註。此書の三上義夫所蔵の写本には、巻末に次の記載がある。

   此書中根元圭著(俗名上右衛門)

 

又貼紙に次の記載がある。

 平安(山城京平安城) 平氏()、璋()

 元珪(或圭。)(アザナ)、律襲先生()

 後白山先生ト号ス。

 中根()、有定(名乗)、後方目(マサメ)

 上右衛門(俗名)、光秋院照誉浄信居士(法名)。黒谷勢至堂ニ葬ル。

 

註に続く「此書」とは『地径算法秘伝』の事です。見てお分かりのように、史稿の注記は中根元圭の俗名や号に係わる備忘録のようになっていますが、それらの殆どがこれまでの調査で分かっているものばかりです。ただ、姓の「平氏」は、貞享2(1685)刊行の『新撰古暦便覧』の凡例で「江東有定甫」識と書き、跋文では「後学藤省有定甫」と記名した上で、印章を「藤印之省」「有定李甫」と刻んでいることと異なっています。要は、中根自身は「藤原」姓と言っているのですが、三上氏の蔵書の巻末は「平氏」としているのです。後世に氏姓を変更することは考えにくいことですから、姓は「平氏」ではなく「藤原」とすることが正しいと思われます。そして名乗ですが、三上史料はまず「有定(名乗)」と書いています。これは前出の暦書の跋文の事例と一致するので問題はありません。この「有定」に続けて「後方目」と書き、「マサメ」と言う振り仮名を与えています。つまり、「後に、方目(まさめ)」を名乗ったとしているのです。

中根元圭が「方目」を名乗ったことを事実として示す史料は今のところ見いだされていません。では、『地径算法秘伝』の巻末に注記をした人物はどのようにして、「方目」とする名乗りを知ることができたのでしょうか。中根元圭から直接聞き得た情報、後世に元圭の門弟筋から知り得た情報などの可能性が考えられます。しかし、本人および門弟筋からの情報であるならば誰かが書き記していてもよさそうですが、先に言いましたように目下の処証言としての記録は見つかっていません。他方として、注記の著者が田中由真の墓石の碑文を読んで、これを書いたのが中根方目であることから、「方目」は元圭だろうと推測した可能性が残ることです。しかし、この場合ですと「有定」に続けて「後」と断定的に書かなかったような気もします。「後」には註記者の強い確信が窺えますので、後世の推測説は成り立たないように思えます。ですから、前者の中根本人若しくはそのことを知っている門弟筋から獲得した情報とみなすことが正しいように思われます。

 

このように考えますと、中根元圭は名乗りを「有定」から「方目」へ替えた時期があって、それはすくなくとも「有定」より後のこと、すなわち享保412月より以前のことであったことになりましょう。案外、正徳元年(1711) 頃のことかも知れません。この年元圭は京都銀座の銀官として末世席に身を置くようになりましたので、こうした転身が契機になった可能性が考えられます。

そして、このことを近世日本数学史の側面から観察するとき、享保4年ころ、まだ、中根元圭こと方目は京都に居て、師の田中由真と良好な関係を維持していたと推測することができることになります。事実、田中由真墓石の碑文は家庭の事情まで深く入り込んだ内容になっていました。決して傍観者の記録とは言えないものです。案外、墓碑建立の発案者は中根方目だったのかも知れません。

享保5年に、元圭は建部賢弘から「黄赤道立成」(『綴術算経』『不休建部先生綴術』第九参照)を受けていますが、以後両者は急速に昵懇の間柄になります。加えて、元圭は建部の補佐役として八代将軍徳川吉宗の数理科学政策を推進するための一翼を担うことになります。そして享保135月には元圭は賢弘を師と称し門人の立場に身を委ねるようにもなりました(『累約術』参照)。将軍の直参と平民という身分差に由来すると言えなくもありませんが、こうした濃密な関係の構築も師田中の「呪縛」からの解放と見做すこともできなくはないと思えます。