補遺(4)


1.法道寺善とは

筆者は「和算入門 (54)-遊歴する数学者たち」において、江戸時代に諸国を訪ね歩いた日本の数学者の姿を紹介しました。取り上げた人物は摂津難波の大島喜侍、越後水原の山口和、上州沢渡の劍持章行を中心にして、明治期の人々も若干触れました。その若干の記述でしかなかった遊歴算家に芸州広島出身の法道寺善がいます。

法道寺善 (1820~1868) は、通称を和十郎、字は通達、号は観山もしくは観と名乗っていました。筆者等は「善」は「ぜん」と通読していますが、法道寺の事跡を調査された藤井貞雄氏の話では、遺族の方は「よし」と呼んでいた、と教えています。数学は広島藩の儒臣にして、天文暦学者でもあった梅園直雨 (未詳~1848、名は敏行、通称は立介) に学んだようです。善は天保12(1841) 22歳の時に江戸へ出て、内田五観の瑪得瑪弟加 (マテマテカ)塾に入門しますが、これは広島の師の梅園が内田の弟子であったことと関係しているようです。この内田塾において弘化6(1846)27歳まで研鑽に励みますが、以後諸国遍歴の旅に出ました。その足跡を熊本、宇土、長崎、上州、信州、越中、越後、下総、上総、岩城、奥州など全国各地に及んでいます。

法道寺は諸国を歩きながら各地の算家宅に止宿して交流を深める旁ら、彼が考案した算変法 (現代のinversionに相当)を含め、当時最先端の研究課題であった穿去題 (貫通体問題) や転距軌跡題 (擺線問題)、さらには物体の重心を求める秤平術などの解法を伝授していきました。それら教授内容は写本として遺されています。実は、法道寺の筆勢は大変特徴のある字体をしています。悪く言えば癖字(筆者は法道寺の筆跡が好きですが)でしょうか。ですから一見して法道寺の真筆か否かは直ちに判断できますので、それら写本の真贋問題は生じないと言っても過言ではありません。この奇妙な事実は、裏返して言えば、法道寺の写本が残るところは彼の止宿先、もしくは算家との縁が産まれた場所と断定できることにもなります。

 

2.三上義夫の研究

法道寺善が上州路を往還していたことは和算史研究者の間では比較的早くから知られていました。和算史研究の泰斗三上義夫はその一斑をつぎのように伝えています(「諸算家伝記の研究」、『飽薇』第10巻第7号、昭和9)

 

法道寺和十郎は上州においては、妙義山麓の松井田から山越しの隣村新井の豪家で、安中藩の郷士であった岩井重遠の家に行ったことがある。また同じ碓氷郡の下里見村中曽根慎吾とも関係があり、前橋在の萩原貞助もまた和十郎に師事した。

---群馬郡漆原の木暮三右衛門は法道寺和十郎から学んだ人であった。しかも法道寺がこの人のことを記して、勢多郡であり、椿原と言っているのは、極めて明瞭の誤りを示す。もとより上州倉賀野の稲荷社に奉納したという算額は、法道寺が記したものであるが、いまだ参詣の機会を得ぬので、現に存するや否やを知らぬ。上州惣社に木暮氏の算額が現存し、写し取っておいたが、これを倉賀野奉納のものに比すれば、後者の方が遥かに優れている。いうまでもなく、法道寺自らの作であるからによると思う。

 法道寺和十郎が上州に遊歴した証跡は極めて明らかであるが、しかし上州ではその筆跡の稿本を多く見いだすことはできなかった。

 

上記文章の後半で三上が教える木暮三右衛門の算額は『樹林寺奉額算題』(成立年紀不明)に載る慶応元年の秋に群馬県高崎市倉賀野町の倉賀野神社へ奉納されたとするものを指します。いま筆者は「奉納されたとする」と書きましたが、それはこの算額が現存していないことによっています。あとで改めて触れますが『樹林寺奉額算題』に記録される算額の中には奉納の事実が確認できないものも含まれており、記録をそのまま鵜呑みにすることができないからです。ですから倉賀野神社の場合も微妙な言い回しになりました。三上の文章に戻りましょう。そして、上州惣社の算額とは安政5年の春2月に前橋市元総社の総社神社へ奉納された木暮義備門人よる奉額を指しているのでしょう。木暮は上州数学の中興と呼ばれる石田玄圭の門流に属する人でしたが、慶応元年の算額では「観山法道寺善門人」と表明していますので、法道寺と師弟関係を結んだことは確かだと思われます。ただ、いま筆者が関心を抱いていることは木暮との関係性ではなく、三上文章の前半で取り上げられていた岩井重遠や中曽根慎吾のこと、さらには彼らと同郷同門の関係にあった齋藤宜義、劍持章行に繋がることです。

 

3.法道寺善と西毛の数学者岩井重遠

 前記紹介文で三上義夫は、法道寺和十郎は碓氷郡新井村の郷士岩井重遠を訪ねたと書いていました。それは何時のことだったのでしょう。また下里見の中曽根慎吾とはどんな関係性を持っていたのでしょうか。それらのことを覗くことができる史料を紹介しながら、上州での法道寺と周辺数学者のことを話題にして見たいと思います。

日本学士院に『算法円理鑑中(円理極数之)解』(請求番号4004)と題する写本が現存しています。表題にある『算法円理鑑』とは、天保5 (1834)に上州佐波郡玉村板井住の齋藤宜義が出版した難問揃いの算学書のことで、 ( )書きは細字で書かれていることを表しています。後世、宜義は上州の鬼才とする異名を獲りますが、その端緒はこの算書を皮切りに独創的な問題をつぎつぎと世に送り、諸国の算学者の耳目を驚かせたたことにありました。法道寺はこの算学書に惹かれて論評を加えているのですが、この写本では『算法円理鑑』に掲載された「円理極数」の問題5問を論考の対象としています。写本の冒頭に「安芸広島 法道寺和十郎善解」と記されていること、しかも全文が法道寺独特の筆跡で推し進められていますから、彼の自筆書であることは間違いありません。難解な解義の紹介は省略しますが、法道寺の論評はなかなか慎重丁寧で、例えば『算法円理鑑』の「原題」第3問の面積の極大問題(史料1)に関しては、つぎのような議論を展開しています。まず齋藤の問題から見ておきましょう。

 


       史料1 『算法円理鑑』(筆者蔵)の「原題」第3

今有如図鉤股内画弧背(鉤弦尖為円心)設黒積、鉤股(若干)応弦欲黒積最多問其術如何

 答曰 術如左

術曰置積半之得黒積合問

 

問題の主旨は、鉤辺と弦辺の交点を円の中心として、これの円弧が直角三角形の直角部分に交わるような扇形を画き、直角三角形から扇形の面積を減じたときの黒積部分が最大となる場合を求めよ、と言うものです。

この問いに対して法道寺は先ほどのノートの冒頭で、勾辺を円径、中勾を円弧に張る弦の1/2に擬えた弧背の求長式を導いて、これを「商表」によって展開した上で、適尽法を用いて極矩合を導き結論に達しています。計算の最後の部分を示しますと、

 

これ依り 

 術曰 半勾股積得最多黒積合問

 

とします。見てお分かりのように、法道寺の術文は齋藤が「積半之」としたところを「半勾股積」と書き直し、「積」の意味を明らかにしたところに改良点が見受けられます。このように法道寺は齋藤の答術が正しいことを認めますが、さらにこれの別解を示し「此解中捷径に凝たりと雖とも邪解なれば捷径に非ず。故に不許之」と述べるに及んでいます。こうした姿勢に法道寺の慎重さが顕れていると言えます。同様に「円理極数」の問題でも齋藤の術文を全否定はしませんでした。しかし、答えを「捷径」に導くための術文の改良や扱う数値の訂正を行っていることから窺えば、迂遠を避け如何に手早く計算ができるか、言い換えれば簡潔な術文を追求すること、この視点にこそ法道寺の問題意識があったと想像しています。それから些末なことですが、この写本のなかで法道寺は得られた式を区別するためにそれぞれの式の頭にⅠ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ、Ⅵ、Cなどのローマ数字を付していることに目が惹かれます。これらの記号は別の写本でも見受けられるので、決して特別なことではないのですが、幕末開国という新風が近世日本数学のなかでも吹き始めていることが感じ取れます。法道寺は岩井にこれらローマ数字の意味を説明したのでしょうか。

写本『算法円理鑑中(円理極数之)解』は全部で27丁になりますから、かなりの分量のノートです。そして興味深いことはこの写本が何処で作られたかを法道寺は語っていたことでした。写本27丁裏の文末につぎのようにあります。

 

万延元庚申閏三月 上毛州碓井郡新井村 岩井氏に活止而解之

 

万延元年は西暦1860年にあたり、法道寺は41歳になります。碓井郡は現在の碓氷郡であって、岩井氏とは碓井郡新井村にいた安中藩の郷士岩井重遠(1804~1878)を指しています。ときに重遠は57歳になりましょう。「活止」の意味が不明ですが、中山道の松井田宿から碓氷峠を越えて信州に入る直前、山向こうの新井村の岩井邸を訪ね草鞋を脱ぎ止宿したことを言っているのではないでしょうか。27丁に及ぶ解義書が半日ほどで創られるとは到底思えませんし、場合によれば数日滞在した可能性もあります。和算家の旅日記を読んでいますと、遊歴算家の各地算家宅での「一宿一飯」は日常茶飯事のことでしたから、重遠も法道寺の訪問を快く迎え入れたのでしょう。ことによれば訪問を事前に伝えていた可能性も棄てきれません。法道寺が岩井宅を訪れたのは閏3月でした。閏3月はいまの5月頃にあたりそうですから、妙義山麓の岩井家でも農繁期を迎えていたと思われますが、農事繁忙を忘れて数学談義に華を咲かせたのでしょう。その交歓の中で解義に及び岩井に示したものが『算法円理鑑中(円理極数之)解』でした。

 

4.法道寺善の中曽根慎吾宛て書簡から

 再び三上義夫の文章に戻りますが、三上は「同じ碓氷郡の下里見村中曽根慎吾とも関係があり」とも書いていました。先の岩井重遠の新井村から下里見村は北北東方向にあたり、直線距離にして12kmほどの位置にあります。約4里の距離でしょう。

日本学士院に「法道寺善より中曽根慎吾郎宛て書状」(請求番号6094、史料2)が収蔵されています。書状の寄贈者は岩井家の遺族のようですから、中曽根慎吾に宛てた書状の控えが岩井家に残っていたのでしょうか。

 

史料2 「法道寺善より中曽根慎吾郎宛て書状」(日本学士院蔵)

 

筆者はこの書状を近世日本数学史の研究に手足を染め始めた頃、貴重と思い撮影しました。しかし、日々の生活に忙殺されてその存在をすっかり忘れていたのですが、最近別の原稿を執筆するために史料探していたところ、再び眼中に飛び込んできて、これはと思いこの小論を起すことを決めたのです。

以下に書簡の全文を紹介しますが、文中の句読点は筆者、/ は原文の改行、( )は割書を表しています。慎重に翻刻したつもりですが、万が一誤読があればご容赦ください。

 

今有如図球面穿二弧形(乃以其背挟球/心也)球径(若干)去弧形(若干)弧矢(若干)/得交背術如何

                            

先年は殊御世話に相成り/有難次第に御座候。扨承り/候へは算法益々御出精/之由、大悦奉存候。且つ/前文二題は是迄の表例/にては難得悟御座候間、下拙/新考に表元して解術/仕候間、浅問とも思召被成御/座候哉。御考察奉希申候。/此度差閙不得貴願、/齋藤長次君、劍持君/とも御同意に御考江御座候/ても不苦。何卒奉頼申候。/其内予解儀等御望に/候へば御覧入可申候。以上。

  閏三月十九日夕出立前取閙

      安芸広島

       法道寺和十郎

中曽根

新吾郎様

 

手紙の内容はつぎのようになりましょう。

 

先年は大変お世話になり有り難うございました。さて、承りますれば算法の研究に益々ご出精とのこと、大変喜ばしく存じます。なおまた、この書簡の最初に取り上げた2問はこれまで通りの表例(注:解法あるいは考え方のことか)ではとても理解しがたい問題ですから、私の新しい考え方で解術しましたので、算法浅問抄の解法とともにご検討して頂けませんでしょうか。ご考察よろしくお願い申し上げます。此度は差閙にて貴方の願いを得ませんでしたが、齋藤長次君、劍持君とも同意にお考えであっても差し支えありません。ぜひお頼み申し上げます。そのうち私の解義等をお望みであればご覧入れ致します。以上。

 閏319日夕刻出立前の取閙。

   安芸広島 法道寺和十郎

 中曽根新五郎様

 

拙い訳文ですが、上手く訳出することができない理由の一つが「差閙」の解釈です。「閙」は賑やかとか騒がしいなどの意味で使われますが、「差」が付いたときの訳語がどうしても思いつきませんでした。「閙」は文末の結びでも使われていますから、忙しいと言うような意味合いで使っている気がします。ですから、最初は「煩わしさを避けて」、最後は「気ぜわしい最中」と解釈できるのではないでしょうか。どなたか「差閙」と「取閙」についてご教示頂ければ幸いに存じます。理由の二つ目が、彼らだけにしか分からない関係性がすでに成立していて、それら関係性の前後が手紙から把握できないところにあります。手紙文ではよくある事例ですが、そのことを保留するにしても、彼らの間に濃密な関係が築かれていたと指摘できるだけでも貴重な書簡と言うことができます。

冒頭に「先年」ありますから、法道寺と中曽根の交流は万延元年以前に始まっていたことが分かります。つぎに、書簡の最初に付けられた貫通体の周長(交背)を求める2問は従来の方法では解けないと法道寺は指摘しています。確かに新しい問題であったと思いますが、球形の場合は嘉永3(1850)10月、竹内修敬が名古屋市熱田区の宮駅文殊堂に奉納した算額で去弧形の面積問題として、円壔の場合も天保152月に竹内修敬の門人が熱田神宮に奉納した算額の去弧形の面積問題として出題されていました(小林龍彦、田中薫「算額にあらわれた穿去問題について」、『数学史研究』通巻90号、1981年、p.2023参照)。ですから、発想としては新しくないのですが、これら貫通体の周長を求めるところに斬新さがあったのでしょう。いずれにしても法道寺はこれらの問題を解いているから、中曽根に自分の解法を点検して欲しいと伝えています。しかも、『算法浅問抄』の自解と併せてとしていますから、中曽根は『算法浅問抄』の問題を法道寺に問い合わせていたことも分かってきます。その後の文章の意味がうまく掴めませんが、齋藤長次こと宜義と劍持章行と同じ意見であっても構いませんと言っていますので、法道寺はこれら両者にも面識があったことを匂わせています。もっとも、劍持は天保10年頃に内田五観の塾に入門しましたから、法道寺とは同門であって、交流があっても不思議ではありません。齋藤宜義との関係は後節で触れることにします。加えて筆者の目を惹くことは「齋藤長次君、劍持君」と君付けで呼ぶことにあります。あとで再度確認しますが、この手紙が書かれたとき齊藤宜義は45歳、劍持は71歳、法道寺は41歳でした。こうした年齢差を越えて「君」の同格で呼称するところに江戸末期の気風を感じ取るとともに、時代の変化が伝わってきます。

さて最後ですが、書簡には年紀干支は書かれていません。ですから書状差し出しの時期は不明となるのですが、幸いなことに手紙は「閏三月」に書かれたとありました。実は、法道寺が活きていた時代に閏3月があったのは万延元年(1860)だけなのです。ですからこの書簡は万延元年閏319(安政7年閏31日改元)の差し出しと断定でき、しかも、それはこの日の夕刻出発前の慌ただしい中で認められたものと言うことができます。普通夕刻の旅立ちはあり得ないのですが、何か特別な事情があったのかも知れません。

先に紹介した『算法円理鑑中(円理極数之)解』は岩井重遠の屋敷で書かれた解義書でした。その岩井宅を出発する直前の中曽根慎吾宛ての書簡と解釈すれば、法道寺の岩井家滞留は閏319日以前であったことになり、その間の数日は法道寺と岩井の交流は勿論のこと、隣村の中曽根慎吾宗邡との交流も窺わせることになります。

中曽根慎吾宗邡(1824~1906)37歳のときの安政7(1860)3月に、関流宗統八伝として高崎一社八幡宮に算額を奉納していました。案外法道寺は中山道を歩きながら一社八幡宮に立ち寄り、奉納されたばかりの新しい算額を見学していたのかも知れません。あるいは奉納の情報を事前に持っていたとも推測できます。そのような中曽根が齋藤宜義の弟子であったことも承知していたことでしょう。

 

5.法道寺善と齋藤宜義と石黒信基

 前節の書簡で法道寺は齋藤宜義を「齋藤長次君」と呼んでいました。この呼び方には既知の関係者という語感が漂います。では法道寺は齋藤をどのように認識していたのでしょうか。法道寺善の自筆本としてよく知られる一冊に『樹林寺奉額算題』(山形大学附属図書館佐久間文庫蔵:請求番号1-808)があることは既に紹介しました。この写本は書名は付いていないのですが、冒頭に「下総香取郡樹林寺ユウガヲ観音」に奉納された算額が収録されることからそのように通称されるようになったようです。そして、法道寺筆録のこの算額集には幕末の上州で奉納された2面の算額も記録されているのです。

 

史料3 安政5年前橋八幡宮奉納算額(中曽根家蔵)

                   

 史料3は下里見村の中曽根家に残る「上州前橋八幡宮」奉納算額の記録ですが、この算額の問題は齋藤宜義門人が編纂した『数理神篇』(万延元年序)にも載せられています。ただ、算額の奉納時期は若干違っていて『数理神篇』では「安政四年丁巳正月」、史料3では「安政五戊午歳正月穀日」となっています。法道寺の『樹林寺奉額算題』では残念なことに年紀を欠いています。また奉納者についても前者が「齋藤先生門人 上毛勢多郡関根村 萩原貞助藤原信芳」と簡潔に誌すのに対して、後者は「関流大宗統七伝乾坤独齋藤宜義先生門人 当国勢多郡関根村住 萩原貞助信芳」として宜義を大きく扱っていることが目立ちます。これが『樹林寺奉額算題』では、額題の3問を記録した上で第2問、第3問に対しては「答曰、術文は如本面是に略」とし、「上州群馬郡板井村は玉村脇 旭山齋藤長次郎宜義門人 上州勢多郡関根村 湖山萩原貞助信芳 撰之」と書き表しています。こうした書き様は『数理神篇』とも「中曽根家史料」とも大きく異なり、法道寺の視線は萩原に焦点を合わせていたように見えてくることになります。そして折り紙にして「后二問の答術は数理神篇に載。故に求め見るべし」、また萩原には「算法方円鑑を著」と注記しているのです。

もう一面は「中山道上州倉賀野宿冠稲荷社所掲一事」が記録されています。問題の詳細は『群馬の算額』(昭和62年刊)pp.117~118を参照してください。この算額の願主は「観山法道寺善門人 上州勢多郡椿原村 木暮三左衛門」となっており、奉納年紀は「慶応元年乙丑年后秋」とあります。その上で『樹林寺奉額算題』にはつぎのような書き込みを加えているのです。

 

 萩原貞助文久元年辛酉年より観山に随意して算学をす。木暮三左衛門と(ママ)根川を隔て隣村なり。若し人此処へ便りせんとをもわば岩城湯長谷の藩長井玄圭主を頼むべし。

 

この記述よれば、萩原貞助(1828~1909)は、文久元年(1861)より随意に法道寺から算学を学ぶようになったと言うのです。再三触れているように万延元年の翌年が文久元年ですから、この時期法道寺の影響力は上州に大きく浸透していたことになります。なお、木暮の住まいの椿原村は漆原村のことであり、戸根川は利根川の誤記です。「岩城湯長谷の藩長井玄圭」とは、後年、平磐城藩の長井家に養子に出た石田玄圭の子孫のことを指しています。

さらに『樹林寺奉額算題』には法道寺と宜義との複雑な関係性を想起させる興味深い算額が記録されています。それは安政3(1856)の春、法道寺の門人である越中射水郡上高木村の石黒藤右衛門と北本半兵衛が選者となって奉納した「加州金沢観音山所掲一事」が係わっています。法道寺は、算額題の記録に続けて、自分と石黒藤右衛門および藤右衛門と齋藤宜義の子弟関係についてつぎのように言及しています。

 

石黒藤右衛門は四代目なり。祖藤右衛門信由は算学鉤致著して加州公へ仕ふ。而后加賀能登越中三ケ国加州測量方代々勤む。当藤右衛門安政元年甲寅年十九歳に至り、北本半兵衛二十二歳にして其年五月八日より観山の門に入り、其后算学増々出精にて代々の算家と雖も世にまれなる人なり。数理神編に齋藤長次郎の門人と云。全くの虚辞の発る処なり。且つ加州金沢公に仕ふ故に、他国百姓長次郎に門入の儀は国法に背くなり。

 

算額の奉納者となる石黒藤右衛門は信基(1836~1869)のことです。その信基は、安政元年(1854)19歳の時に、北本半兵衛とともに自分の門人となって算学修行に励み実力を付けてきた、そのような石黒が『数理神篇』で言うように齋藤の門人であるはずがない、そのことは宜義の虚辞だと非難しているのです。『数理神篇』は宜義の門人安原千方と中曽根宗邡によって万延元年(1860)に刊行された齋藤一門による自問自答と奉納算額集です。ですから、法道寺がこのように発言したことは万延元年以降であることは確かでしょう。

 

史料4 『数理神篇』下巻(東北大学蔵)

 

その『数理神篇』の下巻には「齋藤先生門人 越中州射水郡高木村 石黒藤右衛門信基」として、安政3年の春に「加州倶利伽羅山不動堂」へ奉納された算額が収められていました。これの第2問は円周率の求め方を問う問題ですが (史料4参照)、術文はつぎのように与えられています。

       

 

そしてこの術文に対して石黒は、いや実質は宜義なのでしょうが、「本朝由来数学家此簡術未有之因挙之」と豪語したのでした。上記π/2の式はウォリス(John Wallis, 1616~1703)の公式と一致しますが、「わが国でこれを算出し得たのは私だけだ」と発言することにはさすがの法道寺もカチンと来たのかも知れません。もっと言えばライバル心でしょうか、そうした対抗心が『樹林寺奉額算題』に見るような書き様になったと捉えることも可能でしょう。さらに言えば、信基は法道寺門人として、また齋藤宜義の門人として安政3年の春の同じ年に、地元加賀国に2面の算額を奉納したことになります。これが事実だとすれば凄いことです。

一方、法道寺が石黒を「齋藤長次郎の門人と云。全くの虚辞」と否定したことは、彼の勘違いと言えるかも知れません。法道寺が「虚辞」と記したのは万延元年以降のことになります。実は、宜義と信基が通信をもって算学交流をしていた史料が残っています。石黒家の文庫を「高樹文庫」と呼びますが、文庫史料を目録化したものに『高樹文庫目録史料』(富山県教育委員会、昭和54年刊)があります。そのNo.370は安政3511日の年紀を有しますが、写本の『中巻算法浅問抄第四十七 四斜内設二斜容五不等円之題解義一条』は宜義から信基に贈られたことを示しています(拙著「和算に賭けた青春-岩井雅重の夢-」、中部大学編『アリーナ』第21号、2018年、pp.82-83参照)。宜義と信基の交流を示す史料はその他にもありますが、兎に角、信基は宜義から算学を伝授されていました。その証左となる写本類の存在は、信基と宜義の交流は安政3年以前始まっていたと見做すことができ、かつそうした事実がなければ『数理神篇』に門人として名を連ねて「加州倶利伽羅山不動堂」への算額奉納に及ぶことはなかったでしょう。法道寺は信基と宜義の算学交流の事実を知らなかったのでしょうか。

石黒信基から信頼される宜義を法道寺は「他国百姓」と呼びました。宜義の生業は農業であり養蚕が主業でしたが、ここでの意味合いは他国者と言う一般名詞で用いているのでしょう。その他国者に入門することは「国法」に背くとも書いてありました。しかし、石黒信基が加賀の国法に触れて処分されたなどと言う話は一向に聴いたことがありません。では、他国者の法道寺に入門することは違法ではないのでしょうか。真相が知りたいところです。

いずれにして、法道寺善の遊歴に係わる史料から、善と上州算学家との交流関係だけでなく、数学をとりまく人間模様も垣間見えてくるのですから、面白いですね、今後の新たな史料の出現を俟ちたいものです。