唐沢城の攻防
上杉謙信と唐沢城をめぐっての話です。
越後の上杉謙信は関東管領の肩書きを持っていましたので、毎年のように、雪解けを待って関東との境の清水峠を越えて、関東地方へ攻め込んでいました。
そのころ関東地方は小田原に本拠を置いた、北条氏がそのほとんどを支配下においていましたから、幾度となく戦っていましたが、唐沢城(田沼町東端の唐沢山に有りました)には幾度となく攻め込みましたが、この山城はその地形からついにおとすことが出来ずにいました。
そこで謙信は唐沢城に随岸坊(ずいがんぼう)と言う僧侶をスパイとして送り込み、城の内情を探らせます。
天正2年(1574年)10月城主佐野昌綱の死を知り、この機会を逃すまいと11度目の遠征をしてきます。
新しい城主になった佐野宗綱が「この城はあの高鳥屋山から攻められたら、私はひとたまりもないな」ともらします。この話を知った随岸坊は大喜びで、この話を謙信に伝えます。
さっそく高鳥屋山に陣取った謙信は、城へ向かって矢を射かけて攻撃を開始します。やがて城方からも反撃してきましたが、その矢は高鳥屋山まで届かず、谷へ落ちてゆきます。
「これではこちらの矢も城に届いてないではないか」と高鳥屋山を下りもっと城へ近づこうとしたところへ、城方から弓矢の一斉攻撃を受けます。乱れた謙信軍に城方から撃って出て、大いに混乱に陥れます。謙信は「かなわぬ!」と退却してついに今度も唐沢城を落とすことは出来ませんでした。
高鳥屋山のことも、城方が弓を弱く射て矢が高鳥屋山に届かなかったことも、すべて謙信を油断させる為の佐野宗綱の策略だったのです。
謙信は4年後に49才で唐沢城を落とすことなく、なくなります。
スパイとして送り込まれた随岸坊は故郷の越後に帰ることなく、私が現在住んでいます戸奈良の山中で、さびしくその余生をおくったと言われています。

ふるさとの民話のページへ戻る

このページの最終更新日は:2009/12/16