俵藤太(藤原秀郷)
大ムカデ退治の伝説と平将門討伐の話です。
 
秀郷は名門藤原家の長男として生まれました。幼い頃から武勇に優れて誰からも一目を置かれる存在でしたが、その暴れん坊ぶりから一時故郷の下野へ謹慎させられますが、やがて許され京へ上ります。
ある日近江の国、瀬田の唐橋までくると大勢の人々が騒いでいました。見ると橋の上に大蛇がとぐろを巻いていて、皆が橋を渡れなくて騒いでいるのでした。
秀郷はなんなく、大蛇を飛び越えて橋を渡ってゆきました。
やがて秀郷の前に大蛇が美しい娘に姿を変えて現れます。
「あなたのような勇気のある方を待っておりました。私たちが住む三上山には毎晩大ムカデが現れ、私たちの仲間を食べてしまうのです。是非退治していただきたいのです」と頼みました。
秀郷は快く引き受け、手下5人を引き連れ三上山の近くに待機しました。
やがて雲がうなりを上げて動き出し、大ムカデが現れます。秀郷たちは大ムカデに向かって矢を射かけますが、ことごとくはねかえされ残りは1本になりました。秀郷は大蛇の化身に言われた言葉を思い出していました。「大ムカデの弱点は眉間です。矢じりにつばをつけて射かけてください。」
秀郷は矢じりにつばをつけ「南無八幡大菩薩、眉間に矢をたてたまえ!」と唱え秀郷に向かってきた大ムカデに渾身の力を振り絞って、矢を放ちます。
最後の矢は見事に大ムカデの眉間に刺さり、大ムカデは息絶えます。
見事に約束を果たした秀郷は、琵琶湖に住む竜王に招かれ竜宮で手厚くもてなしをうけ、更にムカデ退治のお礼にいくら食べてもなくならない米俵など、数々の贈り物を受け取りました。
その後秀郷は朝廷より押領使(おうりょうし)に任じられ、故郷の地に唐沢城を築いたと言われています。
そして天慶3年(940年)関東地方で反乱をおこした平将門を討ち取り、大いに功績をあげ、ついに鎮守府将軍になり関東地方をまとめる武将になります。
秀郷は今でも、偉大な先人として地元の人々に慕われています。

注1、藤太とは藤原家の長男との意味です。
 2、俵藤太のいわれは竜王に米俵をもらった為との説と、田原郷に住んでいた
   ために俵と名乗ったとの説があります。

「大ムカデ退治の伝説に関して」
ムカデと蛇の話は日光にも同じ様な話があります。日光の主、蛇が赤城山のムカデの攻撃に苦しめられ、坂上田村麻呂に助けを求めついに退治した伝説が残っています。逃げたムカデの足跡が菅沼、丸沼になったと言われています。


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このページの最終更新日は:2009/12/16