第十章、徳川政権安定の為に

大坂の陣でついに豊臣家を滅亡させて、家康の念願は達成されましたが、この頃の日本の政治形態は地方分権国家と言えると思います。つまり中央政府として徳川政権は存在しても、直接地方の国から税金が徳川幕府へ納められる形態ではありませんで、あくまで自分の領地から上がった税金が収入になるわけです。
家康は各大名の力(特に財力)を落とすために、数々の工事を色々な大名(外様大名が主にやられました)に命令して実行させました。
江戸城の改修、増築、各親藩大名の居城の改築、河川工事など命令された大名はすべてその経費は自分持ちでやるわけですから、各大名の財政はだんだん苦しくなってゆきます。
いわば間接的に戦闘能力を奪っていったのです。さらに各大名の領地には城は1ヵ所のみと定めてその他の城の取り壊しを命じます。

そして武家諸法度の制度を作成して、こと細かに行動を縛ってゆきます。
余談ですが豊臣家の恩顧の大名でした福島正則は徳川幕府に届けずに、城の傷んだ石垣を直してこの法律にふれ国替えの憂き目にあい、さびしく晩年を信州で終わっています。
またもう一人の豊臣家の有力大名でした加藤清正も病死後、子供の忠広が後を継ぎますが、その後にたいした理由もなく取り潰しになっています。家康は自分が死んだ後にも、少なくとも内乱が起こることのないように事細かに指示をしていたと思われるのです。

1616年家康は75才(当時としては相当な長命)でついにこの世を去りますが、その遺命は三代将軍の家光に引き継がれ、参勤交代(1年おきに領地と江戸に交互に住まいを移す)の制度により完全に内乱の芽を封じてしまいます。

家康により誕生した徳川幕府は、その後鎖国制度を設け約250年の間、大きな内乱も起こさずに太平の世の中を築き上げます。これは世界の歴史の中においてもきわめてまれなことだと思います。
この平和な時期に日本では独特の文化が発展しますが、鎖国はしていても常に世界の情勢は把握していたと言われています。

そして明治維新の際に、この徳川幕府を倒すのは、関ヶ原の戦いの際には西軍についた薩摩の島津家と長州の毛利家を中心とした倒幕派でした。これは歴史の偶然ではなく長く冷や飯を食べさせられた人々の徳川幕府に対しての積年の思いと受け取るべきです。つまり歴史は繰り返すのです。

この激動の時代を生き抜き、これだけの長期安定政権を築いた家康は当時の人の中ではやはり人並み外れた人物だと思います。信長に仕え、秀吉に仕え我慢に我慢を重ねて最後には、堰を切ったように目的に向かってまい進しますがその生き方はやはり驚異的だと感じます。
なかなか私のような凡人には真似のできない生き方ですが、人の使い方のうまさにはやはり現代であっても参考になると感じています。

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このページの最終更新日は:2009/12/16