第三章、武田家の滅亡

家康にとって有力な敵対国であった武田家に、重大な転換期が訪れたのは間もない時期でした。
信玄は三方ヶ原で家康と戦った後、自領の甲斐へ帰る途中で病に倒れあっけなくこの世を去ってしまいます。
その後継ぎとして勝頼が跡目を継ぎますが、余りに父の信玄が偉大だった為に自国の運営に苦労する形になります。
しかしながら父信玄の意思(京へ上り天下へ号令する)を継がんと織田、徳川連合軍と全面対決をします。
この戦いが有名な長篠の戦いになります。武田の騎兵隊と言われるように武田家の最大の武器は騎馬軍団による機動力にありましたが、信長はこの戦いに鉄砲三千丁を投入して、機動力封じに陣の前に木柵を立ち並べ、その間から三列に分けた鉄砲隊を配置して次々と連射できるようにして対戦します。
この戦法にさすがの騎馬軍団も、なすすべがなく鉄砲玉の餌食になって幾多の有能な武将がこの戦いで戦死してしまいます。
しかたなく勝頼は退却しますが、どうにも立ち直れないほどの人的な損害をこの戦いでこうむってしまいます。
このときは織田、徳川の連合軍もあえて甲斐まで深追いはしませんでした。

この戦いから4年後に家康にとって最大の試練が訪れます。
先に徳川家の人間関係に関して確認をしておきますが、家康の長男信康は信長の娘徳姫を妻にしていました。この徳姫と家康の妻の築山殿との間で常々問題が起きていました。
また築山殿は家康とも不仲でいわば別居状態でしたが、あろうことか甲斐の武田勝頼と連絡を取り合っていて信長に敵対する行動をとっていたのです。
この事態を徳姫は父信長へ知らせるのですが、この騒動に夫である信康へも懐疑の目がむけられてしまいます。
怒った信長は、家康に対して二人の処分を申し渡します。
信康が無実であることはわかっていましたが、信長の気性を考えるととても言い訳をして許してもらえるとも思えないのでした。
ただ現在の徳川家の国力では、織田家に敵対することもできずに断腸の思いで信康に切腹させます。
ここまでの思いをして忠誠を誓った家康に対して信長もさすがに、心を痛めたと思えてそれ以後は家康を丁重に扱うのでした。

長篠の戦いから7年後の1582年、織田,徳川連合軍は力を回復しつつある武田家へ最後の戦いを仕掛けます。
次々と防御線を突破され、最後は味方の武将にまで裏切られ勝頼は天目山のふもとで自害します。
こうしてさすがの武田家も滅んでしまいます。
この戦いのなかで信長は片っ端から武田家の武将を処刑しますが、家康は武田家の武将を、信長に内密にして自分の部下に取り立ててゆきます。
この武将たちもそれを恩義に思い、後々徳川家のために働いたのは言うまでもありません。
この戦いの戦功により家康は駿河の国を所領として信長からもらいます。
ようやく家康も大名としての地位を確保したといえます。

扱い方によっては昨日の敵も、今日の友になりますし貴重な人材は出来るだけ有効に活用するのが家康流の人心把握といえます。

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このページの最終更新日は:2009/12/16