第四章、本能寺の変

武田家との戦いの後処理も終わって、家康は本拠地を駿府へ移します。領内の処理も一段落してこのたびのお礼にと信長のいる安土へ出かけます。
信長は自分の部下の明智光秀に家康の接待役を命じますが、光秀が取り寄せた魚がくさいにおいがしてるのを知って「おまえではだめだ」と接待役を別の家来にかえてしまいます。このあたりの話は色々な俗説がありますが、いずれにしても急に接待役をはずされて、自分の居城の坂本へ帰ったことは事実です。

家康は信長から「せっかくの機会ですから、京都、大阪、堺、奈良などゆっくり見物していきなさい」と言われ少数の部下と物見遊山をする格好になります。信長にしてみれば戦いに明け暮れた家康への配慮といえます。なおこの後家康は中国地方で苦戦していた羽柴秀吉の援軍として、出陣の予定でした。

この頃信長が取っていた戦法は方面軍作戦と呼ばれています。
つまりどこの方面は誰が指揮をとって平定すると言った方法で、自分の部隊を各家来に任せて自分は安土から指揮をとっていました。中国地方は元々毛利家の支配下で秀吉が、その指揮権を任されていました。北陸は柴田勝家が任務にあたり、四国は丹羽長秀が任されていました。この中で中国地方の毛利家は信長にとって手ごわい相手で秀吉も、備中高松で相手の抵抗にあい一歩も前に進めない状況にありました。
信長は、苦戦する秀吉への援軍として明智光秀、高山右近、細川忠興などに出陣を命じます。最後には信長自ら出陣する予定で、各部下の終結状況を確認する為とりあえず京都の本能寺へと移動します。
周りに敵のいない状況ですから、本能寺には少数の家来が警護にあたっている状態でした。
この本能寺へ中国への出陣を命じられた光秀の部隊が「敵は本能寺にあり!」と急襲します。光秀が信長への叛意をもったいきさつに関しましては、色々な俗説がありますが信長は「まさか」との気持ちでしたが、光秀にとってみれば色々な今までの心の葛藤の積み重ねの結果といえます。

光秀の叛意で信長は自害し49歳の生涯をとじます。
ことが成功した光秀は今まで信長に従わなかった全国の大名に事のいきさつを伝え自分の味方をするように使いをとばします。当然中国地方の毛利家にも使いを派遣します。
秀吉は本能寺の変をいち早く知り、毛利家と高松城主清水宗治の切腹を条件に和睦を取り付け、いち早く大坂へと全軍を反転させます。光秀にしてみれば備中高松で釘付け状態の秀吉がこんなに早く反転してくるとは夢にも思ってなく、又その他の信長の各武将たちも京都の近くには存在しておらないため、その間に体制を固められると考えていたと思います。しかし自分の娘婿の細川忠興さえも味方にできない状態で、思惑は大きく外れてしまいます。秀吉とも個人的には親しい間柄でしたから、うまくすれば秀吉が自分の味方になってくれるかも知れないと考えていた可能性もあります。
秀吉にしてみれば、個人的な付き合いはともかく主君の仇を討つといった絶好の大義名分をぶら下げた格好ですからそのような気はなく、一気に京都へ進撃します。光秀も覚悟を決めて京都をでて京都府と大阪府の境にあたる山崎で戦闘が始まります。気持ちと数で負けていた光秀軍は天王山で負けたあとは散々にうちまかされてちりじりになってしまいます。光秀自身も戦場から逃げる途中を土民のやりでわき腹をつかれあえなく絶命します。

天王山
この戦闘で、勝敗の分かれ目になった地点のことですが、ことわざとしてそれからスポーツなどでも大事な一戦のことを天王山と呼ぶようになりました。

この結末で、秀吉はこの後自分の立場を有利にする絶対的な切り札を手にすることができました。
さてこの本能寺の変がおきた時点での家康は、どうしていたのでしょう。物見遊山をしたあと家康自身も本能寺へ挨拶にゆき、一旦自分の領地へ帰ったあと中国へと出陣の予定でしたが、信長の急死を堺の町で知ります。少数の部下しかつれていませんから、光秀に見つかると自分も危ないと考え、伊賀から伊勢へと山中を抜け伊勢から小船で三河へと渡り岡崎の城へ入ります。この後、軍を整え尾張まで進みますが、この頃には秀吉がすべて片付けていて秀吉から使いで「すべて終わりましたからどうぞ自国へお帰りください。
」と言われ仕方なく軍を返します。

秀吉には主君の急死が、またとない絶好の機会を与えてくれたことになりましたが、家康の辛抱はまだまだ続くことになります。

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このページの最終更新日は:2009/12/16